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縁切鋏 参
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それから小夏は由里香たちに背中をさすられ保健室に連れて行かれ、結果早退することになった。
数日しても咳が止まらないようなら咳喘息かもしれないから病院に行ってねと、養護教諭にはそう言われた。その言葉に小夏は頷き返すのがやっとだった。だが、この咳が病院に行ったとしても治らないことは何となくわかってしまっていた。
小学生のときに肺炎に罹ったことがあるが、あのときのほうがよほど楽だった。
こんなふうにどんどん酸素が欠乏していって、意識が混濁するようなことはなかったのだから。
帰宅して、小夏は自室へ直行してベッドに横になった。本当は咳止めシロップを飲もうとかうがいをしようとか考えていたのだが、帰り着くとそんな気力は残っていなかった。
咳が止まらない。これだけでもかなりの恐怖なのに、それに加えて今ははっきりと絞められている感覚がある。髪の毛が張り付いているのもわかる。鏡を見ても何も見えないのに。
横になって、咳の合間に深呼吸をするよう努めてみた。そうすると、ほんの少しだけ苦しさがやわらぐ気がする。
そうしているうちに、だんだんと眠気ざしてきた。……もしかしたら、意識が遠のいているだけかもしれないが。
髪の毛が喉元にまとわりつく不快感と、首がしまって息ができなくなる恐怖。
それらから逃れるために、小夏は眠りの世界へ逃避をはじめた。
目を閉じて、深呼吸。
そうすることによってかぎ慣れたルームフレグランスが香ってきて、少し落ち着く。
(このまま眠ってしまえば、大丈夫)
そんなふうに考えて、さらに深呼吸した。
怖いことも辛いことも嫌なことも、一晩寝てしまえば大抵何とかなる。
お母さんに叱られたことも、友達と喧嘩したことも、ホラーのDVDを見たあとも、そうして睡眠を味方にして乗り越えてきた。
そういったことは、疲れているのが何より良くない。だから、体と心を休めることが肝要なのだ。
咳は辛い。髪の毛は怖い。
由里香が自分を嫌いかもしれないということは、苦しい。
だから、とりあえず寝てしまおうと小夏は考えた。
目覚めれば、きっと多少体は回復して、重苦しい気持ちから逃れられているに違いない。
小夏はそう祈るように思いながら、ゆっくりと少しずつ、意識を溶かしていった。
「それにしても、いやぁ、これは良い石ですね」
「そうですか。気に入ったんなら、商談成立ってことでさっさと帰ってください」
「そんなぁ。善之助くん、もう少しおしゃべりってものを楽しもうよ」
のどかな春の昼下がり。
応接間で客の男をお茶とお菓子でもてなしながら、善之助はしきりに縁側を、庭を気にしていた。小夏は来ないだろうかと、つい気にしてしまうのだ。
ただでさえ好きではない客を相手にしているから、どうしてものんきなあの黒猫が恋しくなってしまっている。さっさと追い出して、早く小夏をおびき寄せる支度をしたい。今日はスルメでも焼いてみようかと考えている。
今相手にしているのは、小夏が初めてここへやってきたあの日、ドタキャンした例の客だ。祖父の代から伏せ猫屋には石を求めてやってくる、変わった客。しかも、求める石はすべて曰くつきのものときた。
「善之助くんも、石を集めたらどうだい? 石は存外おしゃべりなものでね、集めると一人暮らしの寂しさが少しはましになるよ?」
「いや、気味が悪いのは勘弁願いたい」
「わかってないねぇ」
この男が求めるのは、血が滲む石だとか、顔に見える模様がある石だとか、啜り泣きが聞こえる石だとか、そんなものばかり。
石に姿を変えた呪いだとか災いばかり集める、それがこの客の特徴だ。
ニヤニヤと楽しそうにコレクションの話を続ける男を見ながら、善之助はこの世の不思議を思っていた。
自ら進んで、呪いや災いを蒐集して楽しんでいても、何もならずどっこい生きている人間がいる。
かたや、わけもわからず身近な者に嫉妬され、それに絡め取られようとしている人間もいる。
罰当たりなのは明らかに前者なのに、どうしてこうも違うのか。
「善之助くん、何か気にかかることがあるんだね。さては、恋か? いいねぇ、若いって」
「そんなんじゃありませんよ」
物思いを男に悟られ、善之助は不快感を露わにした。そんなことでこの男は動じないし、気を悪くされても痛くも痒くもない。
この店を必要とする変わり者は、他にもいるのだから。店を継ぐ決心をしたのには、そういった客と店の繋がりを慮ったというのもあった。
「恋じゃなけりゃ、なんだっていうのさ。誰か待ってるんでしょー?」
もう還暦を超えたはずなのに、妙に肌にハリとツヤがある目の前の男は、楽しげに善之助を見つめている。不動産屋の社長であるこの男は、石だけではなく女遊びも確か好きだったはずだ。
だからなのだろうか。ニヤニヤと、若造の恋愛事情を知りたくてたまらないという顔をしている。
これは何か適当にでも話さないかぎり帰らないなと、善之助はうんざりとして思った。
「いや、近所の子供がちょっとした厄介ごとに巻き込まれていまして、無事に解決しただろうかと、それが気になっているだけです」
「厄介ごとって、そりゃまたどんな?」
「髪ですよ、髪。首に髪が巻きついてたから、そんなもん切ってしまいなさいと、縁切鋏を貸しました」
「髪ですか! 善之助くん、そりゃ子供じゃないよ。女か……でも、子供だなんていうってことは年下かぁ」
仕方なしにと話したことだったが、余計なことまで知られてしまった。男があまりにもニヤニヤするものだから、善之助は野良猫に餌付けを始めたとでも言えばよかったと後悔した。
男は恰幅のいい体を揺らしながら楽しげに笑っている。仮に善之助に思い人がいたとして、一体何が楽しいと言うのだろう。
「髪の毛ねぇ。厄介だねぇ」
「そうでしょうか。そんなもん、縁を切ってしまえば関係なくなるでしょうに」
「それがね、善之助くん。切れんから面倒くさいんだよ。そもそも簡単に切れる縁じゃなかったから、そんなふうに拗れたのさ。そういうもんなのよ」
狸親父のくせに、まるで女性たちのそういった機微に詳しいとでも言いたげだ。
善之助は面倒なことは嫌いだし、そっちの方面はぼんやりとしているため、悔しいが狸親父の言うことはさっぱりわからない。
わからないが、それなら一層小夏は今大変なのではないかと心配になってくる。
「まぁ善之助くん、そう心配しなさんな。その年下の彼女ちゃんも、子供に見えても女なんだ。案外、強かにやるもんさ」
「はぁ……そういうもんですか」
まだ楽しそうにニヤついている男に腹が立って、善之助は素っ気なく返した。
小夏はまた、夢を見ていた。
長く長く続く廊下に、ひとり佇んでいる。
何の変哲もない廊下に見えるが、ここは特別棟の、家庭科室などに面した廊下だとわかる。
ひた、ひた、ひた……。
誰かがゆっくり移動する音がする。
薄暗い、木目の床の上。小夏は足元に目をやって、その音に集中した。
音はまるで水の中で聞くかのように、濁って、どこか不思議な反響がする。
だから、足音が近づいてきているのか遠ざかっているのかも判然としない。
だが、小夏はそれが近づいてきていると信じていた。
なぜなら、首に巻きついた髪から気配を感じ取っていたからだ。
首が絞まっている上に、空気が重苦しい。まるで雨続きの日の空気のように、ありったけの湿度を含んだ陰鬱さだ。
その空気の中で、小夏は小さく浅く呼吸を繰り返しながら、“それ”が近づいてくるのを待つ。スカートのポケットを漁って、例の鋏をお守りのように握りしめて。
「……由里香……」
靄がかかったようにぼんやりとして見えなかった廊下の向こうから、唐突にセーラー服が現れた。セーラー服をまず認識してしまったのは、顔が見えなかったのだ。
長い髪に顔面が覆われ、一見すると後ろ姿のよう。本来の由里香の前髪はそんなふうに長くはないのに、小夏は“それ”が彼女だとわかってしまっていた。
胸元のポケットから覗く、ウサギのストラップ。それは、小夏があげた、お揃いのものだからだ。
小夏は中学時代はソフトテニス部に所属して、真っ黒になって走り回っていた。だが、高校では何か違うことがしたいと、文化部を中心に部活見学をしていた。そこで出会ったのが、由里香だった。彼女が持っていたペンケースがすごく凝って可愛いもので、小夏は初対面にもかかわらず、由里香に尋ねたのだ。「それ、どこで買ったの?」と。そしてそれが由里香の手作りで、彼女は中学時代から手芸部に所属し、高校でも手芸部に入ろうとしていることがわかった。
素敵で可愛いものを自分で作れるということに感動した小夏は、由里香の誘いもあって手芸部に入部した。初心者でおまけにあまり器用ではない小夏に、由里香は腹を立てずに根気良く手ほどきをしてくれた。そうした中で自然と仲良くなって、今では一番気の合う友達だと思っている。
その証である、小夏お手製のビーズマスコットのストラップだ。世界にふたつだけ。お揃いでスマホにつけている。
胸ポケットからそれが覗いているということは、目の前の女子生徒は由里香で間違いないのだろう。
「……由里香」
ジリジリと距離を詰めてくるセーラー服に、小夏は絞り出すように呼びかけた。
だが、近づいてくるにつれて、小夏の首は絞めあげられていく。
「……やめ、て……由里香……」
その声に反応するかのようにザンっと瞬時に距離を縮めて、首に両手を伸ばしてきた由里香を小夏は寸でのところでかわした。それによって、絡みついた二人の体は廊下の上に引き倒される。
なおも追いすがるように、由里香は這って小夏のところまでやってくると、あっという間に馬乗りになった。
今度はかわすことができず、小夏は体重を乗せた由里香の両手によって喉を押しつぶされた。
『いらないものなんて切ってしまいなさい』
頭の中で、善之助の声が蘇る。
死にたくなければ、由里香との縁を切ってしまえと彼は言ったのだ。縁を切れば髪の毛に苦しめられることもなくなる、と。
のしかかる由里香の手は緩むことはない。このままでは、小夏は殺されてしまうかもしれない。
だが、それでも小夏は縁を切るということが怖かった。縁を切ってしまえば、小夏と由里香はどうなってしまうのだろう?
これは夢の中で、なぜだかわからないけれど由里香の思いが流れ込んでいるのだ。その思いによって、小夏は今、苦しめられている。この夢の中で由里香との関係を断つということは、一体何を意味するのか……。考えると、小夏は怖くなった。
小夏は由里香が好きだ。おっとりとした雰囲気や、親切で根気のあるところが。小夏の子供っぽさも笑って許してくれる懐の深さが。
何より、由里香といると落ち着くのだ。彼女といるときは、小夏は陽だまりで眠る猫のように心地よい気持ちになれる。
そんな友達と縁を切るということが、小夏はとても嫌だった。
「……や、めて……!」
「……!」
小夏は力を振りしぼり、鋏で由里香の手を刺した。その痛みに一瞬怯んだ隙に、由里香を体の上から蹴り落とす。
それは、とても乱暴なことに見えたが、小夏の精一杯の抵抗だった。
大切な友達を失わないための、小夏の、女としての意地だった。
「やめてよ由里香! こんなこと、やめて!」
ガバッと半ば襲いかかるように抱きつきながら、小夏は叫んだ。抱きつかれた由里香は、身動きがとれない。
「あたし、由里香のこと大好きなんだよ? 一番の友達だって思ってる。なのに……なんの相談もしてくれなくて苦しんで、挙句こんなことするなんてやめてよ! あたし、友達に殺されるなんて嫌!」
さっきまで首を絞められて息ができていなかったとは思えないほどの大声で、小夏は叫んだ。そして、由里香を抱きしめる腕に力をこめる。首を絞めたお返しだと言わんばかりのその腕に篭るのは、友情と、愛情と、それから少しの恨み。
「不満があるなら、ちゃんと言ってよ。そんで、喧嘩して、仲直りして!」
ありったけの声で叫んで、小夏はより一層由里香を抱きしめる腕に力を込めた。由里香は身動きがとれず、ギチギチと軋むような音をたてる。
そうして潰さんばかりに抱きしめられた由里香の体は、突然ポンっと弾けた。弾けた欠片は、霧散していった。小夏の首に巻きついていた髪の毛も、一緒になってハラハラと散る。
長いこと首を絞められて、叫んで、思いきり腕力を使った小夏は、疲れ果ててその場にバタンと倒れこんだ。
ここは夢の中で、現実ではないはずなのに、早く寝たいなんてことを考えてしまう。
(縁、切らなくてすんだのかな……)
善之助から借りた鋏が手の中にちゃんとあるのを確認して、小夏は目を閉じた。
そして体がふわりと、元の世界へ浮き上がっていくのを待った。
数日しても咳が止まらないようなら咳喘息かもしれないから病院に行ってねと、養護教諭にはそう言われた。その言葉に小夏は頷き返すのがやっとだった。だが、この咳が病院に行ったとしても治らないことは何となくわかってしまっていた。
小学生のときに肺炎に罹ったことがあるが、あのときのほうがよほど楽だった。
こんなふうにどんどん酸素が欠乏していって、意識が混濁するようなことはなかったのだから。
帰宅して、小夏は自室へ直行してベッドに横になった。本当は咳止めシロップを飲もうとかうがいをしようとか考えていたのだが、帰り着くとそんな気力は残っていなかった。
咳が止まらない。これだけでもかなりの恐怖なのに、それに加えて今ははっきりと絞められている感覚がある。髪の毛が張り付いているのもわかる。鏡を見ても何も見えないのに。
横になって、咳の合間に深呼吸をするよう努めてみた。そうすると、ほんの少しだけ苦しさがやわらぐ気がする。
そうしているうちに、だんだんと眠気ざしてきた。……もしかしたら、意識が遠のいているだけかもしれないが。
髪の毛が喉元にまとわりつく不快感と、首がしまって息ができなくなる恐怖。
それらから逃れるために、小夏は眠りの世界へ逃避をはじめた。
目を閉じて、深呼吸。
そうすることによってかぎ慣れたルームフレグランスが香ってきて、少し落ち着く。
(このまま眠ってしまえば、大丈夫)
そんなふうに考えて、さらに深呼吸した。
怖いことも辛いことも嫌なことも、一晩寝てしまえば大抵何とかなる。
お母さんに叱られたことも、友達と喧嘩したことも、ホラーのDVDを見たあとも、そうして睡眠を味方にして乗り越えてきた。
そういったことは、疲れているのが何より良くない。だから、体と心を休めることが肝要なのだ。
咳は辛い。髪の毛は怖い。
由里香が自分を嫌いかもしれないということは、苦しい。
だから、とりあえず寝てしまおうと小夏は考えた。
目覚めれば、きっと多少体は回復して、重苦しい気持ちから逃れられているに違いない。
小夏はそう祈るように思いながら、ゆっくりと少しずつ、意識を溶かしていった。
「それにしても、いやぁ、これは良い石ですね」
「そうですか。気に入ったんなら、商談成立ってことでさっさと帰ってください」
「そんなぁ。善之助くん、もう少しおしゃべりってものを楽しもうよ」
のどかな春の昼下がり。
応接間で客の男をお茶とお菓子でもてなしながら、善之助はしきりに縁側を、庭を気にしていた。小夏は来ないだろうかと、つい気にしてしまうのだ。
ただでさえ好きではない客を相手にしているから、どうしてものんきなあの黒猫が恋しくなってしまっている。さっさと追い出して、早く小夏をおびき寄せる支度をしたい。今日はスルメでも焼いてみようかと考えている。
今相手にしているのは、小夏が初めてここへやってきたあの日、ドタキャンした例の客だ。祖父の代から伏せ猫屋には石を求めてやってくる、変わった客。しかも、求める石はすべて曰くつきのものときた。
「善之助くんも、石を集めたらどうだい? 石は存外おしゃべりなものでね、集めると一人暮らしの寂しさが少しはましになるよ?」
「いや、気味が悪いのは勘弁願いたい」
「わかってないねぇ」
この男が求めるのは、血が滲む石だとか、顔に見える模様がある石だとか、啜り泣きが聞こえる石だとか、そんなものばかり。
石に姿を変えた呪いだとか災いばかり集める、それがこの客の特徴だ。
ニヤニヤと楽しそうにコレクションの話を続ける男を見ながら、善之助はこの世の不思議を思っていた。
自ら進んで、呪いや災いを蒐集して楽しんでいても、何もならずどっこい生きている人間がいる。
かたや、わけもわからず身近な者に嫉妬され、それに絡め取られようとしている人間もいる。
罰当たりなのは明らかに前者なのに、どうしてこうも違うのか。
「善之助くん、何か気にかかることがあるんだね。さては、恋か? いいねぇ、若いって」
「そんなんじゃありませんよ」
物思いを男に悟られ、善之助は不快感を露わにした。そんなことでこの男は動じないし、気を悪くされても痛くも痒くもない。
この店を必要とする変わり者は、他にもいるのだから。店を継ぐ決心をしたのには、そういった客と店の繋がりを慮ったというのもあった。
「恋じゃなけりゃ、なんだっていうのさ。誰か待ってるんでしょー?」
もう還暦を超えたはずなのに、妙に肌にハリとツヤがある目の前の男は、楽しげに善之助を見つめている。不動産屋の社長であるこの男は、石だけではなく女遊びも確か好きだったはずだ。
だからなのだろうか。ニヤニヤと、若造の恋愛事情を知りたくてたまらないという顔をしている。
これは何か適当にでも話さないかぎり帰らないなと、善之助はうんざりとして思った。
「いや、近所の子供がちょっとした厄介ごとに巻き込まれていまして、無事に解決しただろうかと、それが気になっているだけです」
「厄介ごとって、そりゃまたどんな?」
「髪ですよ、髪。首に髪が巻きついてたから、そんなもん切ってしまいなさいと、縁切鋏を貸しました」
「髪ですか! 善之助くん、そりゃ子供じゃないよ。女か……でも、子供だなんていうってことは年下かぁ」
仕方なしにと話したことだったが、余計なことまで知られてしまった。男があまりにもニヤニヤするものだから、善之助は野良猫に餌付けを始めたとでも言えばよかったと後悔した。
男は恰幅のいい体を揺らしながら楽しげに笑っている。仮に善之助に思い人がいたとして、一体何が楽しいと言うのだろう。
「髪の毛ねぇ。厄介だねぇ」
「そうでしょうか。そんなもん、縁を切ってしまえば関係なくなるでしょうに」
「それがね、善之助くん。切れんから面倒くさいんだよ。そもそも簡単に切れる縁じゃなかったから、そんなふうに拗れたのさ。そういうもんなのよ」
狸親父のくせに、まるで女性たちのそういった機微に詳しいとでも言いたげだ。
善之助は面倒なことは嫌いだし、そっちの方面はぼんやりとしているため、悔しいが狸親父の言うことはさっぱりわからない。
わからないが、それなら一層小夏は今大変なのではないかと心配になってくる。
「まぁ善之助くん、そう心配しなさんな。その年下の彼女ちゃんも、子供に見えても女なんだ。案外、強かにやるもんさ」
「はぁ……そういうもんですか」
まだ楽しそうにニヤついている男に腹が立って、善之助は素っ気なく返した。
小夏はまた、夢を見ていた。
長く長く続く廊下に、ひとり佇んでいる。
何の変哲もない廊下に見えるが、ここは特別棟の、家庭科室などに面した廊下だとわかる。
ひた、ひた、ひた……。
誰かがゆっくり移動する音がする。
薄暗い、木目の床の上。小夏は足元に目をやって、その音に集中した。
音はまるで水の中で聞くかのように、濁って、どこか不思議な反響がする。
だから、足音が近づいてきているのか遠ざかっているのかも判然としない。
だが、小夏はそれが近づいてきていると信じていた。
なぜなら、首に巻きついた髪から気配を感じ取っていたからだ。
首が絞まっている上に、空気が重苦しい。まるで雨続きの日の空気のように、ありったけの湿度を含んだ陰鬱さだ。
その空気の中で、小夏は小さく浅く呼吸を繰り返しながら、“それ”が近づいてくるのを待つ。スカートのポケットを漁って、例の鋏をお守りのように握りしめて。
「……由里香……」
靄がかかったようにぼんやりとして見えなかった廊下の向こうから、唐突にセーラー服が現れた。セーラー服をまず認識してしまったのは、顔が見えなかったのだ。
長い髪に顔面が覆われ、一見すると後ろ姿のよう。本来の由里香の前髪はそんなふうに長くはないのに、小夏は“それ”が彼女だとわかってしまっていた。
胸元のポケットから覗く、ウサギのストラップ。それは、小夏があげた、お揃いのものだからだ。
小夏は中学時代はソフトテニス部に所属して、真っ黒になって走り回っていた。だが、高校では何か違うことがしたいと、文化部を中心に部活見学をしていた。そこで出会ったのが、由里香だった。彼女が持っていたペンケースがすごく凝って可愛いもので、小夏は初対面にもかかわらず、由里香に尋ねたのだ。「それ、どこで買ったの?」と。そしてそれが由里香の手作りで、彼女は中学時代から手芸部に所属し、高校でも手芸部に入ろうとしていることがわかった。
素敵で可愛いものを自分で作れるということに感動した小夏は、由里香の誘いもあって手芸部に入部した。初心者でおまけにあまり器用ではない小夏に、由里香は腹を立てずに根気良く手ほどきをしてくれた。そうした中で自然と仲良くなって、今では一番気の合う友達だと思っている。
その証である、小夏お手製のビーズマスコットのストラップだ。世界にふたつだけ。お揃いでスマホにつけている。
胸ポケットからそれが覗いているということは、目の前の女子生徒は由里香で間違いないのだろう。
「……由里香」
ジリジリと距離を詰めてくるセーラー服に、小夏は絞り出すように呼びかけた。
だが、近づいてくるにつれて、小夏の首は絞めあげられていく。
「……やめ、て……由里香……」
その声に反応するかのようにザンっと瞬時に距離を縮めて、首に両手を伸ばしてきた由里香を小夏は寸でのところでかわした。それによって、絡みついた二人の体は廊下の上に引き倒される。
なおも追いすがるように、由里香は這って小夏のところまでやってくると、あっという間に馬乗りになった。
今度はかわすことができず、小夏は体重を乗せた由里香の両手によって喉を押しつぶされた。
『いらないものなんて切ってしまいなさい』
頭の中で、善之助の声が蘇る。
死にたくなければ、由里香との縁を切ってしまえと彼は言ったのだ。縁を切れば髪の毛に苦しめられることもなくなる、と。
のしかかる由里香の手は緩むことはない。このままでは、小夏は殺されてしまうかもしれない。
だが、それでも小夏は縁を切るということが怖かった。縁を切ってしまえば、小夏と由里香はどうなってしまうのだろう?
これは夢の中で、なぜだかわからないけれど由里香の思いが流れ込んでいるのだ。その思いによって、小夏は今、苦しめられている。この夢の中で由里香との関係を断つということは、一体何を意味するのか……。考えると、小夏は怖くなった。
小夏は由里香が好きだ。おっとりとした雰囲気や、親切で根気のあるところが。小夏の子供っぽさも笑って許してくれる懐の深さが。
何より、由里香といると落ち着くのだ。彼女といるときは、小夏は陽だまりで眠る猫のように心地よい気持ちになれる。
そんな友達と縁を切るということが、小夏はとても嫌だった。
「……や、めて……!」
「……!」
小夏は力を振りしぼり、鋏で由里香の手を刺した。その痛みに一瞬怯んだ隙に、由里香を体の上から蹴り落とす。
それは、とても乱暴なことに見えたが、小夏の精一杯の抵抗だった。
大切な友達を失わないための、小夏の、女としての意地だった。
「やめてよ由里香! こんなこと、やめて!」
ガバッと半ば襲いかかるように抱きつきながら、小夏は叫んだ。抱きつかれた由里香は、身動きがとれない。
「あたし、由里香のこと大好きなんだよ? 一番の友達だって思ってる。なのに……なんの相談もしてくれなくて苦しんで、挙句こんなことするなんてやめてよ! あたし、友達に殺されるなんて嫌!」
さっきまで首を絞められて息ができていなかったとは思えないほどの大声で、小夏は叫んだ。そして、由里香を抱きしめる腕に力をこめる。首を絞めたお返しだと言わんばかりのその腕に篭るのは、友情と、愛情と、それから少しの恨み。
「不満があるなら、ちゃんと言ってよ。そんで、喧嘩して、仲直りして!」
ありったけの声で叫んで、小夏はより一層由里香を抱きしめる腕に力を込めた。由里香は身動きがとれず、ギチギチと軋むような音をたてる。
そうして潰さんばかりに抱きしめられた由里香の体は、突然ポンっと弾けた。弾けた欠片は、霧散していった。小夏の首に巻きついていた髪の毛も、一緒になってハラハラと散る。
長いこと首を絞められて、叫んで、思いきり腕力を使った小夏は、疲れ果ててその場にバタンと倒れこんだ。
ここは夢の中で、現実ではないはずなのに、早く寝たいなんてことを考えてしまう。
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