黒猫、とんぱらり

猫屋ちゃき

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縁切鋏 肆

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 それからしばらく小夏は眠り続けていた。
 次に目が覚めたときには、部屋の中がすっかり暗くなっていた。
 のろのろと起き出してまずベッドサイドのスタンドを点け、カーテンを閉める。それから、机の上に置いたままになっていたスマホで時間を確認した。
 午後七時前。もうそろそろ両親のどちらかが帰ってくるだろう。二時には帰宅していたのだから、五時間近く眠っていたことになる。
 その間にメールが何通も届いていた。
 早退することを伝えていなかったため、米を研いでおいてほしいと母親からメールが来ていた。あとは、すべて友達からきた体調を心配するメール。その中には、由里香からのものもあった。
 帰ってから今まで寝ていたら咳は止まったと、みんなに返信する。
 すると、直後に着信があった。ディスプレイに表示されているのは、由里香の名前。

「もしもし」

 小夏は、少し逡巡してから受話ボタンを押した。

『小夏、もう大丈夫なの?』
「うん。寝つくまできつかったけど、寝たら咳止まってた」
『じゃあ、もう平気なんだね』
「うん。……怖い夢見て、ちょっと疲れちゃったけど」

 スマホ越しに届く由里香の声はいつも通りだ。だが、怖い夢という単語を聞いて、息を飲む気配がした。
 小夏は、そろそろ本題に入るだろうかと考えた。由里香が口を開かないのなら、自分から言い出そうかとも考える。
 わざわざ電話してきたということは、おそらく話したいことがあったのだ。それはきっと、小夏が見た怖い話に関係がある。

『怖い夢ってどんな?   そういうのってさ、人に話したほうがいいっていうじゃない。話してみなよ』
「……それがね、よく覚えてなくて。ただ、すっごく怖くて疲れたのは覚えてるんだけど」

 由里香の声音は何かを知っているふうではなかった。それに気づいて、小夏はそれもそうかと思い直す。あれは夢の中の出来事で、起きて学校にいた由里香が何かを知るわけはないのだ。知っていても、それは無意識下のこと。
 それなら、そんな怖い夢の話をするよりも、もっとしなければならない話があると小夏は思った。

「そんなことよりね、あたし、由里香に聞きたいことがあったんだけどさ」
『え?   なになに?』
「由里香って、村瀬のこと好きだよね?」

 軽く、何てことのないように尋ねたのだが、返ってきたのは沈黙だった。それは、どんな答えよりもわかりやすい。

「それでね。もしかしたら由里香が勘違いしてるんじゃないかなって思ったんだけど、あたしは村瀬のこと何とも思ってないからね」
『……本当?』

 おそるおそるといった様子で由里香は尋ねる。そんなことを尋ねるということは、もはや隠す気もないのだろう。
 小夏はそのことが何だかおかしくなって、気づかれないようそっと笑って、安心させるように言葉を紡いだ。

「うん、本当だよ。ただ同じ中学出身ってだけ」
『でも、村瀬くんは』
「関係ないよ。とにかく、あたしは村瀬のことどうだっていいから、由里香はあいつのこと、堂々と好きだって思っていいんだよ!」

 再び、由里香は沈黙した。だが、今度はすぐに啜り泣きが聞こえてくる。涙を拭う音や洟をかむ音が続いたが、しばらくするとそれも収まった。その間、小夏はただひたすら友達の言葉を待った。

『……よかった。小夏が村瀬くんのこと好きだったらって思ったら毎日苦しくて、辛くて……小夏にも言い出せなくて……だから、ありがとう』
「別に、お礼なんて……とにかくさ、村瀬のお守りは由里香が作りなよ!   応援するから頑張って」
『うん!   でも、本当に?   小夏、私に遠慮して嘘言ってるとかない?』

 やっと声に元気が戻った由里香に小夏はホッとしたが、まだ完全に信用されていないことに少し困る。さすが、嫉妬ゆえに友達の首を髪で絞めるほどの念を持つ女の子だと、小夏は内心怖くなった。怖くなったが、大好きな友達のために、ひとつ嘘をつこうと決める。

「大丈夫だって!   ……あたしもね、好きな人がいるんだもん」

 それは、小さな嘘だ。友達に安心感を与えてやるための、罪のない嘘。
 ……そのつもりだったのだが、恋バナは年頃の女の子の大好物なのだ。
 小夏はそれから、由里香に根掘り葉掘り、その好きな人とやらのことを尋ねられた。そしていつのまにやら励まされ、なぜか一緒に恋の成就目指して頑張ることとなった。




 小夏との電話を切って、由里香は安堵していた。今までずっと胸につっかえていたものが取れたような、そんな安堵。もっと言えば、憑き物が落ちたかのような晴れやかな気持ちがする。
 長い間抱えていた苦しさが、今はすっかりなくなっていた。
 仲の良い小夏の周りをうろちょろする村瀬という男子を意識するようになったときから、由里香の苦しみは始まる。
 元来おとなしい由里香は、男子と話すのが苦手だ。年頃になって異性と話してみたいという気持ちはあっても、そんな機会も勇気もないまま過ごしていた。
 だが、小夏と同じ中学から来たという村瀬は、小夏に話しかけるついでに由里香にもよく話しかけてくれた。だから、明るく社交的な村瀬のそういった振る舞いに、由里香は少しずつ惹かれていくようになった。
 だが、そうなると気になるのは小夏の気持ちだ。小夏は村瀬に対して、由里香に接するのとはまた別の気安さで接している。それは由里香が密かに憧れていた、男子とフランクに接することができる活発な女の子像とちょうど一致した。
 おっとりとして穏やかな由里香を小夏が好きなように、由里香も活発な小夏を羨ましく思っていた。
 だからこそ、その小夏が村瀬をどう思っているのかはすごく気にかかることだった。
 気にかかるが、聞くのが怖い。
 村瀬が小夏のことを気に入っているのはわかっている。その上小夏も村瀬のことが好きだとしたら、それは即ち自分の失恋を意味するのだから。
 そんなことを考えるのが辛くて、由里香はなかなか小夏に自分の思いを打ち明けられずにいた。
 そんなふうに悶々とするうちに、変な夢を見るようになったのだ。
 それは、全身髪の毛のような化け物になって小夏を傷つける夢。
 言い出せずに澱のように降り積もっていく自分のヤキモチがそんな夢を見せているのがわかって、由里香はずっと怖くて苦しかった。
 小夏のことを大事な友達だと思っているはずなのに。たとえ村瀬と小夏が両思いであったとしても、変わらず小夏と友達でいたいのに。
 由里香の心とは裏腹に、夢の中で小夏を傷つけ続ける日々が続いた。
 だが、その重苦しい気持ちから今日、唐突に解放された。 
 ひとりで部室へ向かう途中でまるで白昼夢のように不思議な夢を見たのだ。
 夢は終わった途端にパチンと弾け、どんなものだったかは正気に戻ったときには忘れていた。あとに残ったのは妙な開放感と、小夏に打ち明けなければという焦燥感だった。
 だから、体調が回復したというメールを受け取って、待ち切れずに電話をかけていた。
 小夏の口から“怖い夢”という単語を聞いてヒヤッとしたけれど、そのことについて詳しく語られることはなかった。そのせいで結局自分が最近見続けている夢のことは話せなかった。
 だが、村瀬のことを好きだということはわかってもらえた。わかってもらえた上で、応援してくれると言ってもらえた。
 そのことは、どんなことよりも由里香の心を軽くしたのだった。
 おまけに、小夏に好きな人がいるということまでわかってしまった。
 活発な小夏の思い人は、意外な人物だった。
 自分の恋のこれからと、小夏の恋の行方を思って、その日久々に由里香はぐっすりと眠りに着いたのだった。




 それから数日後。
 まだかまだかと待ちわびて、もう待つのをやめようかと思っていた善之助のところへようやく小夏の訪れがあった。

「善さん、こんにちは」

 くぐり戸を抜けて飛び石の上を軽やかに駆けてくる小夏の姿を見て善之助は心底ホッとしたのに、それを表に出さないよう努めた。

「ふん、小娘……無事だったんだな」
「おかげさまで」

 安堵を隠して普段より一層気難しげに見える善之助を小夏は気にする様子もない。促される前に図々しく縁側に腰かけ、スカートのポケットをまさぐった。

「これ、ありがとうございました。あの……ちょっと血がついてしまったんですけど、拭いて消毒はしておいたので」

 小夏の言葉にギョッとしつつも、善之助はそれを受け取った。小夏に貸していた、年代物の糸切り鋏。拭いて消毒したというだけあって、血のようなものは見受けられない。だが、心なしか禍々しさが増したように思える。

「血って君……傷害事件でも起こしたのか?」

 鋏を渡したきり、どことなく落ち着かない様子を見せて何もしゃべらない小夏を、善之助は訝しげに見つめた。
 これまでだったら聞いてもいないことを話し、勧めてもいないのに用意していた食べ物に手を伸ばすのに。ちなみに今日は初心に帰り、落雁などの軽くつまめる和菓子を並べている。

「確かにその鋏で刺してしまったんですけど、正当防衛というか……それに、現実には怪我もしていません」
「話すなら私にもわかるように説明してくれ」

 ジッと善之助が見つめると小夏は慌てて顔をそむけた。だが、ひと呼吸おくと落ち着いたのか、ポツリポツリとことの顛末を語り始めた。
 仲の良い友人が、小夏の中学からの同級生の男子を好いていること。おそらくそれでヤキモチを焼いてしまった結果、その嫉妬が髪の毛に形を変えて小夏の首に巻きついていたのだろうということ。

「寝てたら夢を見て、その夢に友達が出て来たんです。それで、馬乗りになって首を絞められて、咄嗟に鋏で刺して蹴っ飛ばして……そのあと、抱き合って仲直りしたところで夢は終わったんですけど」

 のんきに「あはは」と笑って小夏は頭をかいた。なぜそこで照れるのかと、善之助は内心おののいた。
 あの石蒐集家の親父の言うとおり、小夏は強かにやってのけたのだ。つまりは、子供ではなく女、ということなのだろう。
 そのことに気がついて、ある種の恐ろしさを感じて善之助は小夏を見つめた。

「まぁとにかく……小娘が無事でよかったよ」
「もー小娘じゃなくて小夏ですってば。ふふ」

 善之助の小娘呼びに不服そうな顔を見せたが、小夏はすぐに笑いはじめた。善之助は思春期特有の情緒不安定かと呆れたが、どうにもそうではないらしい。

「何でさっきからニヤニヤしたりクスクスしたりしているんだ?」

 これは話したいことがあるのにこちらが水を向けなければ口を開かないというあれかと思い、善之助は尋ねた。どうやらそれは当たりだったらしく、小夏はひとしきりクスクスしたあと、とんでもないことを打ち明ける。

「友達のヤキモチを落ち着けるために、あたしは好きな人がいるんだよって嘘ついたんです。それで、まぁ、適当な相手がいなかったので……善さんがその好きな人ってことになってます」

 言い切って、小夏は大笑いをはじめた。さすがは箸が転げても可笑しい年頃。善之助が「なぜそこで笑うんだ」と憤慨しても、しばらく小夏の笑いはおさまらなかった。

「まぁとにかく、君が無事でよかったよ」
「ありがとう、善さん」
「縁を切らずにすんで、よかったな」
「うん」

 縁側に並んで腰かけ、ポカポカとした春の陽射しを浴びているうちに、善之助は小夏に笑われたことなどどうでも良くなっていた。
 ひとしきり笑って落ち着いた小夏は、ポリポリと花をかたどった落雁をかじる。善之助はそんな小夏の横で庭を眺めながら茶をすすっていた。

「善さん、心配してくれたんですか?」

 ボーッとしていたところへ突然声をかけられ、善之助はすぐに答えられなかった。庭先から隣の小夏へと視線を移すと、悪戯っぽく笑っている。
 どう答えようか善之助は迷ったが、正直な話、心配していなかったといえば嘘になるため、誤魔化すこともないかと笑い返した。
 最初はここへ紛れ込んできた以上面倒をみてやるかという義務感だったが、今では小夏が無事で良かったと思っている。

「ああ、心配したさ。何せ君は、久々にできた私の友人だからな」
「友人?   あたしまだ高校生だけど、友達になれますか?」
「茶飲み友達なら、年は関係ないだろう。これからも気が向けば来るといい」

 善之助の答えに気を良くした小夏は、またコロコロと笑った。
 その鈴の音のような軽やかな笑い声を聞きながら、善之助は立ち上がった。そして茶飲み友達のために新しくお茶を淹れてやろうと台所へ向かった。
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