ロボ彼がしたい10のこと

猫屋ちゃき

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第九話

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「これがないと蚊に刺されちゃうから、我慢してね。あと、虫も来ちゃうし」
「まあ、仕方ないか。虫が嫌いなのはどうしようもない」
「うん、どうしようもない」

 星奈はこれからの人生で、虫嫌いが治ることはないだろうと思っている。たとえ、ソロキャンプにはまったとしても。
 瑛一には都会っ子と笑われたけれど、嫌いなのは不慣れながらではないとも思っている。

「そういえばね、瑛一のことを好きだなって再確認するエピソードはたくさんあるんだけど、私の中ですごく思い出深い話があるんだ」

 虫の話つながりで、星奈は瑛一と付き合い始めたばかりの頃のことを思い出していた。

「ある夜、バイトから帰ったらね、ものすごく大きいゴキブリがいたの。もう半端なく、冗談にもならないくらいの大きさで、怖くて絶望して、それで半狂乱になって瑛一に電話しちゃったの。瑛一は私が電話口で怖がって泣いて要領を得ないから、変質者でも出たんだと思って慌てて来てくれたんだよ。夜中に、バイクを飛ばして」

 思い出しながら、星奈はあのとき本当に瑛一に申し訳ないことをしたなと改めて思っていた。
 夜中に泣きながら恋人が電話をかけてくるなんて、何事かと思っただろう。それなのに彼は、とりあえず駆けつけてくれたのだ。

「瑛一ね、私が無事だってわかったら、すごくほっとした顔をしたんだ。それで、ゴキブリが出てパニックになってただけだってわかっても、全然怒ったりしなかったの。むしろすごく心配してくれて、しっかり退治までしてくれたんだよ。そのときに私、思ったんだ。こんなに優しい人、ほかにいないって。この人が恋人でよかったって」

 きっと他の人にとっては何でもない、ありきたりな話だ。特段感激する要素なんてない、心に残らない話だろう。
 でも、星奈にとってはそうではなかった。このことがあって、星奈はより一層、瑛一のことが好きになったのだから。

「こういうささやかなことを積み重ねて、ずっとずっと、私たちの関係は続いていくんだって思ってたんだ……」

 ずっと続くものなどないと、永遠などないと、星奈は身を持って知った。
 だからこそ、特別ではない、あのささやかなものの積み重ねの日々が尊いと理解できたのだ。

「セナは、ひとりでゴキブリ退治もできるようにならなきゃな」

 星奈の話を聞いて、エイジはしみじみと噛みしめるように言う。
 茶化しているわけではなく、真剣に言っているのがわかって、それが逆におかしくて星奈は笑ってしまった。

「そうだね。ゴキブリが出るたびに誰かに泣いて助けを求めるわけにはいかないしね。殺虫剤とか寄せつけない対策とか、いろいろ考えてみるよ」
「そうして。これから、いろんなことをひとりでやっていかなくちゃいけないんだから」

 そんなことを言うエイジは、まるで兄か親のようだ。
 そう感じて、星奈はいつの間にかエイジが自分の精神年齢に追いついたのだと気がついた。来たばかりの頃の、無垢で無機質な感じはもうない。


「雨、止まないね」

 サンルーフに雨粒が落ちるのを、星奈とエイジはもう長いこと見つめていた。
 昼食を済ませて、二人がキャンプ場内を散策していると突然雲行きが怪しくなり、そこから一気に天気は崩れた。
 慌ててタープを片づけ、レジャーシートを畳んで逃げ込んでからは、ずっと車の中に閉じ込められている。

「……せっかく車の中から見られるようにと思って、サンルーフの車にしたのにな」

 キャンプ場は暗くなるのも早い。そのうちに真っ暗になって、この雨粒すら見えなくなるだろう。

「梅雨だから、天気が崩れるのは覚悟してきただろ」
「うん」
「セナは、本当に星が見たかったんだな」
「……うん」

 エイジは特に残念がるでもなく、しょんぼりしている星奈をなだめようとしていた。
 それがまた、星奈にとっては気がかりだった。
 他の人との約束なら、こんな残念なことになっても「またの機会にね」と言うことができる。
 でも、エイジとは“またの機会”がないかもしれないのだ。あるかもしれないけれど、ない可能性も高いのだ。
 ずっとこうして、一緒にいられるわけではないから。
 そう考えると、どうしても気持ちは沈む。
 それに、雨というものが星奈の気を滅入らせるのだ。
 あの日以来、大雨の事故で瑛一が亡くなって以来、星奈にとって雨は憂鬱なものだ。嬉しいことも楽しいことも、すべて星奈から遠ざけてしまう気がする。

「俺は、星が見られなくても、ずっと雨でも、別にいいけどね」

 落ち込む星奈の頭にポンと手を乗せ、エイジは言う。その声に取りつくろう様子はなく、明るい。

「……何で? 〝星が見たい〟ってリストが達成できないよ?」
「いいんだよ。代わりに別の体験ができてるから。こうしてセナと二人で車の中で雨の音を聞くっていうのも、俺にとっては大事な体験だ。いつかまたこんなふうに雨が降ったときに、セナが俺と雨音を聞いたことを、少しでも楽しい気持ちで思い出してくれたら嬉しい」
「エイジ……」

 エイジの言っていた「楽しいことをしよう」というのがそういう意味だったのだとわかって、星奈は泣きそうになった。
 楽しいことは、こんなにもすぐそばにあるのに、自分は一体何をすねていたのなろうと。
 楽しいか楽しくないかなんて、きっと自分の気持ち次第の部分が大きいのだと、エイジの言葉によって気づかされた。

「そうだね。こうしてエイジと一緒に雨音を聞いたことを思い出せば、雨の日も嫌なことばかりじゃないかも」

 涙がにじんでくるのをこらえて、星奈はにっこりしてみせた。すると、エイジも優しい笑顔で応じてくれる。

「一晩待って雨が止まなかったら、朝すぐにキャンプ場を出よう。それでさ、ちょっと遠くではあるんだけど県内にプラネタリウムがあるから、そこに行って星を見てみない? せっかく明日も休みだし」

 星奈は、スマホで検索しながら言う。気持ちが上向きになったことで、そういう発想の転換ができたのだ。

「いいな、プラネタリウム。明日そこに行って星のことを知っておけば、本物の星空を見上げるのも楽しくなりそうだ」
「本当だね。……私、もっと早くにこうやって気持ちの切り替えができてればよかったのにな」

 星奈は、これまでの自分を振り返って嫌になった。
 楽しいことが好きで、いろんな計画を立てるのが好きで、でもその計画が思い通りにならないとすぐに不機嫌になっていた。
 だからあの雨の日の喧嘩も、すごくくだらない、ささいなことが原因だったのだ。
 あのとき、星奈が不機嫌になって喧嘩にならなければ、気持ちを切り替えて笑顔で送り出すことができていれば……そんなことを考えると、やるせなくなる。

「大丈夫だよ、セナ。雨音を聞きながら眠るのも悪くないし、明日のプラネタリウムはきっと楽しいよ」
「うん、そうだね」

 また塞ぎ込みそうになる星奈の気持ちを、エイジがそっとつなぎとめてくれた。
 ポンポンと頭を撫でてくれるだけで、前向きな言葉をかけてくれるだけで、星奈は泣きたい気持ちを抑えることができた。

「すごいね。エイジといると、何でも楽しい気がしてくる」
「そうか。だったら、その気持ちをずっと忘れないでいて。セナは何でも楽しむことができる能力を手に入れたんだよ」
「そっか。……うん、忘れない」

 魔法のように胸に響くエイジの言葉を、星奈はしっかりと噛みしめた。
 これは、エイジがくれたものだ。絶対に絶対に、なくしたりしない。

 
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