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第四章 集結する思い
平穏
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世界の君主が消え去って、ふと聖堂内に蔓延していた君主とは別の力の波動が解かれる。それによって完全な自我を取り戻したディルク、アマデウス、クラリスの三人は一斉に後ろに振り返った。三人の視線の先には、教壇の前に立つカイル。かつて邪悪な魔術師であった者。
「そう警戒しないでもらえるかな……仮にも君たちの治療をしたのは僕だからね」
かつての低くのしかかるような声ではなく、穏やかで少しだけ頼りない声が弁解する。確かに様子が変わった相手に戸惑うも、三人は未だに警戒を解くことはしていない。
「どうやら元の人格が戻ったようだが……力は健在らしいな」
「その力、どうするつもりだ?」
ディルクの問いにカイルは狼狽える。
「どうするも何もないよ……。まだ悪魔は世界に放たれたままだ。そうだね……僕は罪滅ぼしに悪魔を元の世界に返すなり、浄化して対処するつもりだよ」
「本当ですか? それを素直に信じることはできませんが」
「僕だって好きであんなこと……」
カイルは眉を寄せて瞼を強く閉じる。眉間にはシワを沢山つくり、見たくないものを見ないようにしている様子だ。嫌悪、悲痛、罪悪感。それらに絡め取られて、彼の顔色は時間をおかずにどんどん悪くなった。
「曖昧だった記憶が戻ってきたか。操られて非道な行いをさせられたのは同情するが、わたしとしてもお前さんを自由の身にすることはできん。魔導書に乗っ取られた人間がどうなっていたかなど想像もつかんし、これからどうなるかもわからん」
「そもそも本当に操られていただけだったのかもわからないぞ。どちらにしろ殺戮は許されることじゃない!」
「それは……痛いほどわかってる。僕も罪を償いたい気持ちは、当然ある。でも僕の意志じゃないのに処刑されるなんて冗談じゃない。残虐な行いの記憶が残っているからって、それは本意じゃなかったんだ。だから……それなら僕がとれる選択肢は一つしかない」
カイルは一瞬にして宙に浮く。
「君たちが止めてくれて本当に感謝してる。もう問題は起こさないから。でも君たちには捕まらないよ。魔術師カイルは魔導書と共に死んだ。そういうことにしてくれ」
カイルは割れたステンドグラスの窓を抜けて外に出る。そして振り返って一言。
「じゃあね。三人に良い未来があることを祈ってる」
それからカイルはフッと暗闇に身を躍らせた。彼の姿が見えなくなるその時まで、誰も彼を止めようとはしなかった。止めるべきだと分かっていたのにだ。
止めようとしても無駄だと悟ったからか、あるいは操られただけの彼を憐れんだか。それは定かではないが、そのことが遠くない未来の、好転への兆しとなる。
カイルが去って数週間、それから悪魔からの被害はめっきり減った。各所で起きていた暴力沙汰、死傷事件等も落ち着いていく。人々は聖女の活躍だとはやし立てたが、それは完全なる事実ではない。
悪魔のいる場所に現れる灰色の髪の魔術師がいることには誰も気付いていないのだ。すっかり平穏の日々を取り戻したアマデウスは、ケレストロウズの街に戻ってささやかな隠居生活を送っている。彼がこっそり魔術を使っていることを、近隣の住民たちは知らない。
もちろん、彼が他国で大賢者と呼ばれていたことも。ところが、彼の元に通う一人の少年だけはこの老人が只者ではないことを知っている。
「アマデウス様、今日はどんな魔術を教えてくださるのですか?」
「ノルン。あまり大きな声を出すでない。未だ魔術は禁止されておるのだからな」
「すみません……何だか待ちきれなくて」
「その気持ちはわかるがな。わたしも幼い頃は魔術に夢中だった。他のことが見えなくなるくらいにな」
「そうなんですか?」
「そうでなければお前さんに忘却の魔術をかけておったわ」
「そうならなくて良かった……。初めてアマデウス様の魔術を見てしまってからわくわくしっぱなしなんです」
「そうか! それが聞けてワシも嬉しい。だが気を付けるんだぞ。見つかってはならないし、使い方を間違えてはいけないのだから」
「はい!」
アマデウスは幼き日の自分の影を見つめながら、その少年に魔術の知識を授ける日々を送った。
場所は変わって、聖女クラリスのいる聖堂。割れたステンドグラスは元に戻り、壊れた長椅子や柱なども修復されている。今日も“神の奇跡”を求めて、貧しい人々から華美な貴族まで様々な人々が平等に聖女の元にやって来る。
神界の魔導書はなくなっても聖なる魔力は彼女の元にあり、病の治療に支障はない。以前よりは時間がかかるが、それでも聖女は人々のために全力を尽くした。
カイルが聖堂から姿を消してから悪魔がいなくなり、彼女は日々の慈善に集中できている。彼女は時折、聖堂の窓から行ってしまったあの魔術師の後ろ姿を思い出す。
「彼には……平穏があるのでしょうか?」
「何か仰いましたか、聖女様?」
治療していた街の中年女性に問われる。
「いいえ。さあ、楽になさっていてくださいね」
彼女はそう答えるが、神妙な面持ちは消しきることはできなかった。
ディルクはゴスリック王国に帰り、騎士として復帰している。しかも再び騎士団長として騎士たちを指揮する立場でだ。それが可能だったのは、彼を待ち続けたミランダという女性がいたからだ。
彼女はいつでも退けるよう、一時的だと念を押して団長の座を引き受けていた。そしてディルクが戻った途端に以前の役職である副団長へと退いた。彼女は騎士団の修練場で、頬を赤らめディルクを迎える。
「やっと戻られましたね。旅は……終わったのですよね?」
「ああ。今まですまない、苦労をかけたな」
「とんでもありません。帰ってきてくださるならそれで十分ですから」
ミランダはまだ仕事中のため、きちんとした態度を崩さない。しかし彼女の機嫌が良かったのは誰もが気付くところとなった。
そして灰色の髪の魔術師カイルは、海の見える崖で一人、物思いにふけっていた。その手には黒い魔導書が握られて、それを手放すつもりはなさそうだ。
これから彼が何をするのかは誰も知らない。彼自身さえもわかっていないのかもしれない。だがカイルの瞳は神秘的な緑色をしている。
彼は君主たる魔導書をその手に持って、崖からフッと飛び去った。
聖堂の窓から姿をくらましたあのときからずっと、そしてこれから先、久遠の時と呼べるほどの時間が流れるまで、彼の姿を見たものはいなかったという。
「そう警戒しないでもらえるかな……仮にも君たちの治療をしたのは僕だからね」
かつての低くのしかかるような声ではなく、穏やかで少しだけ頼りない声が弁解する。確かに様子が変わった相手に戸惑うも、三人は未だに警戒を解くことはしていない。
「どうやら元の人格が戻ったようだが……力は健在らしいな」
「その力、どうするつもりだ?」
ディルクの問いにカイルは狼狽える。
「どうするも何もないよ……。まだ悪魔は世界に放たれたままだ。そうだね……僕は罪滅ぼしに悪魔を元の世界に返すなり、浄化して対処するつもりだよ」
「本当ですか? それを素直に信じることはできませんが」
「僕だって好きであんなこと……」
カイルは眉を寄せて瞼を強く閉じる。眉間にはシワを沢山つくり、見たくないものを見ないようにしている様子だ。嫌悪、悲痛、罪悪感。それらに絡め取られて、彼の顔色は時間をおかずにどんどん悪くなった。
「曖昧だった記憶が戻ってきたか。操られて非道な行いをさせられたのは同情するが、わたしとしてもお前さんを自由の身にすることはできん。魔導書に乗っ取られた人間がどうなっていたかなど想像もつかんし、これからどうなるかもわからん」
「そもそも本当に操られていただけだったのかもわからないぞ。どちらにしろ殺戮は許されることじゃない!」
「それは……痛いほどわかってる。僕も罪を償いたい気持ちは、当然ある。でも僕の意志じゃないのに処刑されるなんて冗談じゃない。残虐な行いの記憶が残っているからって、それは本意じゃなかったんだ。だから……それなら僕がとれる選択肢は一つしかない」
カイルは一瞬にして宙に浮く。
「君たちが止めてくれて本当に感謝してる。もう問題は起こさないから。でも君たちには捕まらないよ。魔術師カイルは魔導書と共に死んだ。そういうことにしてくれ」
カイルは割れたステンドグラスの窓を抜けて外に出る。そして振り返って一言。
「じゃあね。三人に良い未来があることを祈ってる」
それからカイルはフッと暗闇に身を躍らせた。彼の姿が見えなくなるその時まで、誰も彼を止めようとはしなかった。止めるべきだと分かっていたのにだ。
止めようとしても無駄だと悟ったからか、あるいは操られただけの彼を憐れんだか。それは定かではないが、そのことが遠くない未来の、好転への兆しとなる。
カイルが去って数週間、それから悪魔からの被害はめっきり減った。各所で起きていた暴力沙汰、死傷事件等も落ち着いていく。人々は聖女の活躍だとはやし立てたが、それは完全なる事実ではない。
悪魔のいる場所に現れる灰色の髪の魔術師がいることには誰も気付いていないのだ。すっかり平穏の日々を取り戻したアマデウスは、ケレストロウズの街に戻ってささやかな隠居生活を送っている。彼がこっそり魔術を使っていることを、近隣の住民たちは知らない。
もちろん、彼が他国で大賢者と呼ばれていたことも。ところが、彼の元に通う一人の少年だけはこの老人が只者ではないことを知っている。
「アマデウス様、今日はどんな魔術を教えてくださるのですか?」
「ノルン。あまり大きな声を出すでない。未だ魔術は禁止されておるのだからな」
「すみません……何だか待ちきれなくて」
「その気持ちはわかるがな。わたしも幼い頃は魔術に夢中だった。他のことが見えなくなるくらいにな」
「そうなんですか?」
「そうでなければお前さんに忘却の魔術をかけておったわ」
「そうならなくて良かった……。初めてアマデウス様の魔術を見てしまってからわくわくしっぱなしなんです」
「そうか! それが聞けてワシも嬉しい。だが気を付けるんだぞ。見つかってはならないし、使い方を間違えてはいけないのだから」
「はい!」
アマデウスは幼き日の自分の影を見つめながら、その少年に魔術の知識を授ける日々を送った。
場所は変わって、聖女クラリスのいる聖堂。割れたステンドグラスは元に戻り、壊れた長椅子や柱なども修復されている。今日も“神の奇跡”を求めて、貧しい人々から華美な貴族まで様々な人々が平等に聖女の元にやって来る。
神界の魔導書はなくなっても聖なる魔力は彼女の元にあり、病の治療に支障はない。以前よりは時間がかかるが、それでも聖女は人々のために全力を尽くした。
カイルが聖堂から姿を消してから悪魔がいなくなり、彼女は日々の慈善に集中できている。彼女は時折、聖堂の窓から行ってしまったあの魔術師の後ろ姿を思い出す。
「彼には……平穏があるのでしょうか?」
「何か仰いましたか、聖女様?」
治療していた街の中年女性に問われる。
「いいえ。さあ、楽になさっていてくださいね」
彼女はそう答えるが、神妙な面持ちは消しきることはできなかった。
ディルクはゴスリック王国に帰り、騎士として復帰している。しかも再び騎士団長として騎士たちを指揮する立場でだ。それが可能だったのは、彼を待ち続けたミランダという女性がいたからだ。
彼女はいつでも退けるよう、一時的だと念を押して団長の座を引き受けていた。そしてディルクが戻った途端に以前の役職である副団長へと退いた。彼女は騎士団の修練場で、頬を赤らめディルクを迎える。
「やっと戻られましたね。旅は……終わったのですよね?」
「ああ。今まですまない、苦労をかけたな」
「とんでもありません。帰ってきてくださるならそれで十分ですから」
ミランダはまだ仕事中のため、きちんとした態度を崩さない。しかし彼女の機嫌が良かったのは誰もが気付くところとなった。
そして灰色の髪の魔術師カイルは、海の見える崖で一人、物思いにふけっていた。その手には黒い魔導書が握られて、それを手放すつもりはなさそうだ。
これから彼が何をするのかは誰も知らない。彼自身さえもわかっていないのかもしれない。だがカイルの瞳は神秘的な緑色をしている。
彼は君主たる魔導書をその手に持って、崖からフッと飛び去った。
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