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第25章 王子様にさよならを言ってきました

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5分か10分のちロナンが姿を現した。彼の姿を見てバイオレットは反射的に全身の力を抜いた。一瞬だけだがふわっと気が抜け、それまで体ががちがちになっていたことにやっと気が付いた。テーブルの上に一凛の黄色い花が飾られていたこともそこで初めて知ったくらいだ。

いつもの控えめな笑顔を浮かべてロナンは席に着いた。もっとも、どんな話が待っているか事前にマットから示唆されていたようで、バイオレットが話を切り出しても大きな驚きは見せなかった。

バイオレットは緊張で口がカラカラになりながらも、自分の言葉で説明した。途中何度も涙が出そうになったが、彼の前で涙を流すのはずるい、涙で人を動かすのは卑怯だという気持ちが手伝って、歯を食いしばり腕に爪を立てながらぐっと我慢した。

バイオレットが話を切ると、少し間を置いてロナンが口を開いた。

「どんな話か想像はしてました。結論から言うとやっぱりか、というのが本音です」

そこで悲しそうに笑って見せたので、バイオレットはますます申し訳ない気持ちになって思わず下を向いた。

「更に言うと、あなたの心の中に誰がいるのかも何となく分かります。私がこないだホテルに行った時宿泊していた方が前に話に出た幼馴染なんですよね?」

「そこまで知っていたんですか!?」

バイオレットは思わず顔を上げた。ヒースのことはロナンに紹介してなかったから、自分のいないところで二人で会っていたということになる。

「先日ホテルで偶然お会いして少し会話をしました。名前を聞いてピンと来たのです。アップルシード村で聞いた人物と同じだと。そこで、あなたをよろしくお願いします、と言われました……」

「ヒースが!? あなたにそう言ったんですか?」

知らないところでそんなことになっていたとは。バイオレットは驚くばかりだった。

「それを聞いて何とも言えない気持ちになりました。何か、私が踏み込んではいけないものが二人の間にあるのかと。しかし、それならばなぜ彼は私にあなたを託すようなことを言ったのかと。いくら考えても謎のままでした」

「……それは、彼は私の隣に立つ資格はないと考えているからなんです。私も望みがないのは分かっています。でも、自分を偽ってあなたを繋ぎ留めておくのは、侮辱することだと思うから……」

そこまで言ってとうとう涙があふれてしまった。いけない、絶対彼に見せては。バイオレットは急に後ろを向いてハンカチで涙を拭って何度も深呼吸して気持ちを無理やり鎮めてから向き直った。でも目と鼻が真っ赤になっているのは誤魔化しようがなかった。

「私が去っても、彼が一緒になる気がないのならあなたは独りぼっちのままですが、それでもいいんですか?」

「いいんです……元々一人でしたから。私にはホテルがあるから恋にうつつを抜かしてる暇はないと思ってきたので元に戻るだけです……」

しかし、そのプライドも今では根底から覆されてしまった。自分の力で困難を潜り抜けたと思い上がっていたのが、実は見えないところで全て他人のサポートが入っていたのだ。彼女自身は、人の助けを借りなければ何事も成し遂げられない非力な人間だ。もう心の中はからっぽだ。それを直面化させられるのは身を切るより辛い。

ロナンは最後まで紳士だった。それ以上何も言わず、あなたのご多幸をお祈りしていますとだけ告げて、立つ鳥跡を濁さず帰って行った。それに対しバイオレットはただごめんなさいと繰り返すしかなかった。

ロナンが去ってやっと気持ちが緩んだバイオレットは、しばらく涙が止まらなかった。確実に得られる幸福を自ら手放したのだから。ヒースに再び会えばまた傷つく結果になるのは分かっていた。でも合理的でないと知りつつも突き進まざるを得ない場合もあることを、この年になって初めて知った。

やっと涙が止まり席を立った。勘定を済ませようと思ったら、ロナンが先に済ませてくれたことを知った。最後の最後まで彼に頼ってしまった自分をここでも恥じた。

よろよろとした足取りでカフェを出て、エレンのいる場所へと向かった。帰りの道もずっと泣いていて、我ながらよくこんなに涙が出るものだと呆れるほどだった。しかし、これで一区切りついた。新たな命を宿しているエレンにこれ以上迷惑はかけられない。翌日、ここを発つと伝えた。

「えっ、それじゃヘイワード・インに帰るの?」

「いいえ、あそこへはしばらく戻らない。従業員には迷惑をかけてしまうけど、一度距離を置いて自分の人生を見つめ直したいの。今までホテルと一心同体だったから」

そう言うバイオレットを、エレンはどうすることもできなかった。ヒースに対する感情は単純な「好き」だけではないことをエレンも分かっていた。もっと複雑な感情が絡み合ってバイオレット自身心の整理がつかないのだろう。それまでそっとしておくのが友人としてできる最良のことだと思った。

「そうか、それもいいかもね。今まで働き詰めだったんだし。ただ、連絡だけはしておいた方がいいわよ」

「あっ! 忘れた! 私がここにいることも連絡してなかったわ!」

バイオレットは、沈んだ心も一瞬忘れ、泣き腫らした目をまん丸に見開いた。

「えっ! そうだったの!? じゃあ今頃あっちは大騒ぎになってるわよ!」

「置き手紙は残したわ。行き先は書かなかったけど、変な気は起こさないから心配しないでって」

「でも一報入れておくべきよ! いいわ。私からやっておく」

今回は何から何までエレンの世話になってしまった。一人だと何もできないのだとつくづく今回のことで思い知った。

(逆に、今までの根拠のない自信は一体どこから来ていたのだろう……一歩外を出ただけでこんなに使えないなんて、まるで私の方があのホテルに守られていたみたい)

バイオレットは、自分のいた世界がどれだけ狭かったか、身をもって思い知ったのであった。

**********

ミデオンで最も大きいカジノ「エルドラド」は今日も盛況だった。しかし、その裏側ではちょっとした騒ぎが起きていた。

「はっ!? なんでそれを俺に言うんだよ!? お前がボスに直接伝えればいいだろ?」

「ボスは面倒だからお前の方から知らせろよ。これも秘書の仕事だろ?」

ウィルは秘書室でトーマスと電話で会話をしていた。トーマスは、バイオレットの消息が分かったことを伝えに来たのだ。

「そうやって厄介な仕事を俺に押し付ける気だろ? お前の魂胆なんか見え見えだぞ!?」

「ああ、そうだよ。今のボスの首に誰が鈴を付けられる?」

「それが俺なのか? ふざけるな! そんな貧乏くじは御免だ!」

「じゃあな、用件は伝えた。仕事中で長話はできないからここで切るぞ。また後で」

「おい! 待てよ!」

ウィルの耳にガチャンという無情な音が響いた。ウィルは呪詛を吐きながら受話器を置いた。

(今のボスを見たら誰だって近づきたがらないぞ……ましてやバイオレット嬢の話題なんて自ら火薬庫に突っ込むようなものだ)

ウィルは頭を抱えた。しかし自分にボールが回って来たのだ。実際はボールというよりいつ爆発するか分からない爆弾と言った方がふさわしいが。早くパスを回さないと自分の手の中で爆ぜてしまう。ウィルは何度か深呼吸してから、ヒースの執務室のドアをノックした。

返事がない。最近はもう慣れているので、構わずに再びノックした。何度目かでやっと低くうなるような返事が返ってきた。ウィルは覚悟を決めてドアを開けた。

ヒースは見る影もなくやつれていた。もともと骨と皮だけといった感じが文字通りそうなり、目の隈は一層強くなっていた。それなのに仕事ぶりは変わらず、いや、前より一層打ち込むようになった。何かから目を逸らすかのように仕事に没頭する姿は、傍で見てると鬼気迫るものがある。ミデオンに戻って来てから家には帰らなくなり、仮眠室で寝泊まりするようになった。代わりにウィルに衣類や身の回りの物を取りに行かせた。ウィルは、ヒースの自宅に足を踏み入れ、その異様さにぎょっとした。ただ寝るだけの部屋という殺風景さに驚いたのではない、壁にまんべんなく貼られたバイオレットの写真の多さに恐れおののいたのだった。それは、ヒースがヘイワード・インに送り込んだ使用人たちから定例報告の手紙と一緒に同封された写真だった。ご丁寧に一枚一枚額に入れられ、壁に飾られていた。ヒースは、手紙だけでなく、バイオレットの近況が分かる写真を送るよう言いつけていた。だから、使用人たちは、何かと理由を付けてバイオレットを被写体に写真を撮ることが多かった。ヒースは「バイオレット一人が写ったもの」と指定していたので、バイオレットが誰かと一緒に写りたがるのを止めなければいけないという厄介な仕事もついて回った。

(まあ……あの家には帰れないだろうな。あれだけたくさんのバイオレット嬢に見つめられたら)

ウィルは、ヒースから何があったか詳しく聞いたわけではないが、彼のやつれようと、「もう終わったんだ」という手短な説明を聞いて大体を察した。更に、先ほどトーマスから電話でもう少し詳しい経緯を聞いて自分の予想が大方合っていたことを確認した。それにしても、これからしなければいけないことは余りにも荷が重い。しかし、今言っておかなければ後になってウィルが隠していたことになってしまい、余計立場が悪くなるのも事実だ。どのみち、早く済ませておかなければならなかった。

「あーボス、ただ今トーマスから電話がありまして——」

「トーマス!?」

ぎょろっとした目がこちらを向いただけでウィルの心は縮み上がった。これが敵相手ならとっくに喉元にナイフを突きつけられている。ウィルはもう一度呼吸を整えてから言い直した。

「トーマスの報告がありまして、行方の分からなくなっていたバイオレット嬢ですが、ご友人のエレン殿の家に滞在していたことが分かりました」

ヒースがミデオンに戻って間もなく、バイオレットが姿を消したという知らせが飛び込んだ。もしかしたらミデオンに行ったかもしれないという考えからだったが、それがヒースの心を余計にざわつかせる結果となった。だから、バイオレットの近況を伝えればヒースは安心すると思われたが、トーマスの報告には続きがあった。

「エレン殿の家を出てからは、ヘイワード・インには戻らず、ミデオンに行くとのことです」

「なんだって!?」

ヒースは手に持っていた書類を床にぶちまけて立ち上がった。一体ミデオンに来てどこに行くと言うのだろうか?

「まさか……ここに……?」

ヒースは、既にやつれ切ってこれ以上白くなりようがない顔から更に血の気が失せた。

「ミデオンは初めてのはずだから、誰か知っている人を頼るはず。まずは奥様のアパートに行く可能性が高い。奥様には俺がここにいることを口留めしておかねば。いや、俺の思い過ごしかもしれんが念には念を入れた方がいい……」

親指の爪を噛みながら思案顔でぶつぶつ呟きだしたヒースを見て、ウィルは自分の役目は終わったと思い、静かに部屋を出て行こうとした。その時。

「ウィル!」

「は、はい!」

「バイオレットがミデオンの母親のアパートに着くまで、無事を確認しろ。ミデオンはバイオレットのような女性には危険な場所だ。母親のところに着けばそれでいいから」

ウィルは「全て終わったんじゃないですか?」という問いをぐっと飲みこんだ。そこを突いたら自分が大変なことになるのは火を見るより明らかだったからだ。
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