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悪魔の奏でる不協和音

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 私立探偵の路地黒雄が、その馬靴毛市立文化会館にやってきたのはたまたまだった。助手を自称する親戚の女子高校生の皆藤天音に引っ張り出されることになったのである。
「お師匠も、たまには音楽とか聞いとかないと、ダメになっちゃうよ」
「何がだよ」
「推理力に決まってるじゃない。シャーロックホームズだってバイオリンを嗜んでいたんだし」
 そんな意味のない会話をした後に、皆藤が親戚にもらったというとある吹奏楽団の定期演奏会のチケットを渡してきたのである。

 その吹奏楽団の名前は『ホースシューズ』。「馬靴」毛の名前は英語に変えただけの、なんとも言えない雑な名前である。一応、「馬の足(靴)のように力強い足取りで歩める楽団」という意味があるらしいが、後付けとしか思えない。
 馬靴毛市内の有志たちによって構成された楽団で、基本誰でも入団できる。その気になれば赤ちゃんでも(もちろんそんなことはないのだが)入ることができる。そして、その団員の三分の一ほどは大学在学中の人を含む。若い力が豊富というのもこの楽団の売りの一つなのだ。

「……それで、その楽団の定期演奏会に行け、と」 
 皆藤が路地に渡したのは、その定期演奏会のチケット一人分だったのだ。
「どうしてお前が行かないんだよ」
「この日、友達と映画見に行く約束があって。だけど、その約束が決まった後にこのチケットを渡されて、演奏会の感想を教えてあげてとか言われちゃって。
 適当に言っとけばいいやって思ったんですけど、これ、第一部は何演奏するかわかってるけど、第二部の内容は秘密みたいで」
「だから、俺に第二部まで聞いて、その感想を教えろと」
「そうです。大正解」
「そんなこと自分でやれ」
「いいじゃないですか。無料でチケット貰えるんですよ。それに、二部でどんな曲をやったのかさえ教えてくれれば、感想は自分で考えますから」
 路地はそれはもう面倒臭がったが、皆藤が取り出した麦チョコの袋を見て、首を縦に振ったのだった。

 しかし、実際に会場である馬靴毛市立文化会館を前にして、路地は少し楽しみにしていた。正直にいうと、路地にも少し音楽の経験があったのである。特別何かの楽器を練習したというわけではなかったが、オケの曲やバレエ音楽が好きで小さい頃からよく聴いていた。だから、このチケットは正直嬉しかった。
 入場口の受付の前にある看板を見る。第一部の欄には、「バレエ音楽『眠れる森の美女』」や「惑星より」などの楽曲名が名を連ねている。
 これは十分に楽しめそうだ。路地は嬉しそうに、受付の団員からパンフレットをもらった。
 
 すでに開場していたため、路地は中に入って席に着く。
 ステージ上にはすでに、椅子と譜面台、打楽器たちが並んでいる。パンフレットを読みながら時間を潰すことにした。
 第一部の欄にはさっきと同じ楽曲名が並んでいるが、第二部の欄には「団員企画ステージ」と書いてある。ポップスなどを演奏するのだろうか。
 次にパンフレットの団員紹介の欄を見た。団員の顔写真と簡単な自己紹介が、担当楽器ごとに載っている。そして、その中で一際大きい枠が、指揮者の枠だった。
「江本康之ねぇ」
 中肉中背で、少々神経質そうな顔をしている男。江本康之というのが、今回の演奏会の指揮者だという。
 幼少期にはピアノ、小学校ではバイオリンなどの弦楽器、中学校以降は管楽器・打楽器などを経験しながら、指揮法も学び、〇〇芸術大学(それなりに有名。名は伏せる)在学中。
 などなど、退屈な文章が綴られていた。
「まあ、トーシロではないようだな」
 そこで路地はトイレに行っておこうと思い、手荷物を置いて席を立った。

 用を済ませてトイレから出ると、ちょうど近くに『関係者以外立ち入り禁止』の看板が見えた。
「行ってみようか」
 関係者という単語の意味を脳から排除して、路地は興味のままに看板を越えてその先まで歩み行った。

 路地が忍び足で進んだ先には、出演者たちの楽屋と舞台袖につながる通路があるようだった。楽屋①、②、③と振られた部屋のドアに『指揮者』『女性団員』『男性団員』と紙が貼られていた。
 何人かの団員がトイレに出たりするので、時々身を隠したりしながら路地は楽屋の廊下に立った。部屋の中からは団員たちの声が聞こえる。
 なんにもねえな。路地がそう思って、その場からさろうとした時、
「ぶっ殺すぞ」
 という不穏な声が聞こえた。
 聞こえたのは野太い男性の声。声の主は、『指揮者』の部屋の中にいるようだ。
 路地は至極興味を決めして、その部屋の前に立った。周りに人の目がないのを確認して聞き耳を立てる。
 曇りガラスの窓の中を見ると、中には五つの人影が見えた。実際にみてみないとわからないが、五人のうち二人は女性、三人は男性のようだ。
「てめえ、いい加減にしねえと…」
「だから、あれは正当な評価がされただけだ。あの時、留学生に俺が選ばれて、あいつが落ちたのは」
「違うだろう、お前があの時教授に金を掴ませたって知ってるんだぞ」
「さあ、そんなこと知らねえな」
「嘘つかないで! あのせいで、飯田くんは……飯田くんは…!」
「だから言ってんだろ、内海。あいつは才能がなかっただけだ。それを苦にてめえでおっちんだだけだ」
「江本、てめえ…」
「ちょっと暴力はやめて、鍵山くん」
「望月、俺はこいつが許せねえんだ。藤野、お前だってそうだろ」
「あぁ、誰もいなければ、俺が息の根を止めてたさ」
「お前は、不正をしただけじゃねえ、その上に……あんなことまで……」
「ほんっと…許せない…」
「それに……聞いたわ。
 今日のあの曲を選んで提案したの…江本くんなんでしょ」
「あぁ、そうだよ、何が悪い」
「てっめえ!」
「やめろ鍵山!」
「おお怖え怖え。こんな奴らと今日同じステージに立たなきゃいけねえのかよ」
 四人対一人の構造がそこにできていた。責め立てる四人を、一人はヘラヘラかわしている。
「ほら、そろそろ開演だろ。さっさと準備しろよ、ただでさえ下手なんだから」
 一人の声がそう言った。路地は急いでドアの影に身を隠す。
「クソッ」
「覚えてろ…」
「…許さない」
 四人が口々にそう言いながら部屋を出てくる。男性が二人と女性が二人。全員スーツを着ていて、その顔はパンフレットに載っていたものだ。パンフレットの説明と目の前の本人たちを脳内で組み合わせる。
 男性の方は、チューバ担当の鍵山真と打楽器担当の藤野龍樹。女性の方は、フルート担当の望月流花とアルトサックスの内海ゆうひ。
 確か、パンフレットの自己紹介によれば、四人とも同じ大学に在学中で、その大学は○○大学……指揮者の江本と同じ大学である。
「あの野郎!」
 鍵山が拳を握りしめて言った。
「落ち着こう、とりあえず、今は今日の本番のことを」
「そうね……私も許せないけど…」
 望月と内海が続けて鍵山をなだめる。
「そうだ、真。今は観客のことだけを…」
「あぁ…わかったよ」
 藤野が鍵山の方に手を乗せながら連れて行く。開演まで時間があるから、ロビーに行って客に挨拶をするようだ。
 路地は四人を見送りながら、改めて指揮者の部屋を見た。
 部屋に残ったもう一人、あの江本が出てくるところだった。
「ったく、めんどくせえ奴らだ」
 舞台袖の方からガムテなどを腰に巻いた青年がやってきた。
「あ、ちょっと、きみきみ」
 江本が呼び止める。
「指揮者の譜面台の上に僕が今日使う譜面はあった?」
「今日使う譜面ですか?」
「あぁ、僕は毎日新しい譜面で振らないと気が済まないんだ」
「はぁ…、確かあった気がします」
「そうか、それならいいんだ」
 青年は再び作業に戻っていく。江本も襟を直すと、ロビーへ向かっていった。
 毎日新しい譜面って…どこぞの御坊ちゃまかよ…。路地は江本の変な習慣に苦笑いしながらも、この楽団に流れる不穏な空気を薄々感じ始めていた。

 路地が会場に戻ってきた頃には、周りには客が埋まってきていた。
〝ヴーーーーー〟
 ブザーがけたたましくなった。
「ご来場の皆様へ……」
 マナーモードの準備などを促す、お馴染みのアナウンスが流れる。
 そして、いよいよ始まるとばかりに、会場の照明がゆっくり暗くなっていく。
 完全に照明が落ちた時、そこには緊張感と高揚感が充満していた。

 ついに始まる…。
 路地が椅子に深く座り直した時、ステージの照明が明るくなった。
 下手側から打楽器担当の団員たち、上手側から管楽器・弦楽器の団員たちが、楽器を手に続々登場してきた。各々の席に座り、譜面台の調節などを始める。しばらくして、準備が整ったようだ。
 上手側から指揮者が出てきた。もちろん、江本康之である。
 客席から拍手が起こる。江本が手を振りながら、まるで名俳優のようにあちこちに頭を下げる。
 そんな中、路地はつい、フルートとアルトサックスとチューバと打楽器の方を見てしまう。そう、あの時部屋に集まっていた江本以外の団員たちの楽器である。
 やはり、フルートの望月、アルトサックスの内海、チューバの鍵山、打楽器の藤野の四人は、江本を睨んでいる。やはりあの五人には何か不穏な関係があるようだ。それも、『ぶっ殺す』などという単語が出るほどの。

 指揮台に江本が立つ。譜面台の上の譜面をめくって、五秒ほど一読してから、指揮棒を持った手を上げた。そして、そのまま手を動かす。
 江本が指揮を降り始めた時、会場に音楽が響いた。
 ポケモンか何かのゲームで聞き覚えのあるメロディー、『アルヴァマー序曲』だ。演奏会で最初の曲にはもってこいだろう。
 周りの客が聞き惚れている。路地もまたその音色は美しいと思った。

 しかし、さっきのやりとりを耳にしたからだろうか…。その美しい音色の中にある、かすかな不協和音を、路地は感じていたのだった。

 一曲目が終わって、会場の明かりが少し明るくなる。団長が出てきて、指揮者紹介がされる。
「指揮者の江本康之くんは、〇〇大学に在学中であり、指揮法を専攻。また、その指揮の実力を認められ、海外留学も決定しています。その留学も一ヶ月後に迫り、この演奏会は、彼が我々と同じステージに立つ最後の機会なのです」
 白髪の優しそうな団長はピアノを担当するという。その彼は、江本の肩を持つと、誇らしそうにそういった。
 江本はにんまりした笑みを貼り付けたまま、恭しく頭を下げた。
「……彼のラストステージを、ごゆっくりお楽しみください」
 少し話したあと、団長はそういって話を締めると、ピアノのところに戻っていった。江本はまた頭を下げて、団員の方に向き直る。次の楽曲に行くようだ。
「次にお送りするのは、ウェーバー作曲「歌劇『魔弾の射手』序曲」です」
 女性の司会者がそう話した時、再び会場の明かりが暗くなった。
 
 「魔弾の射手」とは「意のままに命中する球を所持する射撃主」という意味を持つ。ドイツの民間伝説に登場し、七発中六発は射手の望むところに必ず命中するが、残りの一発は悪魔の望むところに命中するという。
 その伝説をもとに書かれた「オペラ『魔弾の射手』」
 射撃大会に優勝して恋人と結婚したいと思う青年が、ライバルの策略により悪魔から魔弾を授かり使ってしまい……という物語である。

 悪魔の望むところに必ず命中する一発の魔弾、か……。
 路地は何やら嫌な予感を感じながら、意識を舞台の上の楽器たちに向けた。

 数分経った。路地が心配したことは起こっていない。
 杞憂だったか……。
 そう路地が思った時だった。

〝ドサッ〟
 鈍い音がステージ上に響いた。
〝カラン〟
 続けて指揮棒が落ちる音。
 ステージ上の指揮台の隣に、江本が横たわっていた。指揮を振ってる最中に倒れたのだった。
 指揮が消えたことで楽曲も止まり、最後の音の響きだけが今会場に充満していた。
 数秒後それすらも消え、ようやく会場にどよめきが起こる。
 ステージ上で、一番手前のシロフォンについていた打楽器の藤野が、一番初めに動いた。
「おい、江本! どうした!」
 それを機に、数人の団員たちが楽器を置いて駆けつける。
 藤野が江本の体を抱える。集まってきた団員たちが江本を見つめている。
 そして集まった団員の中には、藤野の他にも、望月、内海、鍵山の姿もあった。
 はっとして路地も動き出す。隣の人の膝の間をすり抜け、ステージへ走る。
 望月がつぶやいた。
「ねえ……それ…」
 肩を指差す。
「これって…!」
「ダーツ…?」
 内海と鍵山が言葉をつづける。
 ステージに飛び乗った路地は、藤野が支える江本の体をみた。
 江本の右肩には、ダーツのような細い矢が深々と刺さっていたのである……。 

 江本は意識不明のまま救急車に運ばれたが、その車内で死亡が確認された。
「正確にいうと、被害者はこの矢で刺されたから死んだんじゃない。この矢に塗られていた、即効性の毒物で死んだんだ」
 そうぶっきらぼうにいったのは、馬靴毛市警の塚江である。
「強い毒らしいから、刺さった瞬間に痛みを感じる暇もなく……」
 塚江はそこで言葉をためると親指で首を切るような動作をしてから「お陀仏だ」といった。
 その悪趣味な行動に団員の何人かは塚江を引き気味に見ていた。
「被害者はこのホースシューズの指揮者、江本康之さんでしたね」
 塚江の後ろから若い男の声が聞こえる。
 どこか間の抜けた顔をしている(そして実際に間抜けの)名井だ。塚江と同じく馬靴毛市警である。
「今日は定期演奏会で、その指揮を振っていた時に突然倒れた。そして、駆け寄ってみると右肩に矢が刺さっていた。そういうことですね」
 名井がそうまとめる。
「えぇ、そうです」
 団長が顔をしかめながらいった。
「うーん……まあ、普通に考えて、演奏中に矢を放ったってことっすかね…」
「あぁ、そうなるんだが…となると容疑者は…このステージ上にいた団員全員…?」
 刑事二人が面倒臭そうにそうぼやいているなかで、
「いや、絞れるかもしれねえぜ」
 路地が声を上げた。
「おお、路地じゃねえか!」
「路地さん、どうして今日はこんなとこに」
 路地の姿を見た刑事二人が目を輝かせる。
 路地は私立探偵、そして塚江と名井はその路地に、解けない事件をよく持ち込むのである。しかも、ほとんど(というか毎回)依頼料は払わず、全て路地の大好きな麦チョコで誤魔化してきた。
 とにかく、刑事二人にとって路地はいいカモ、路地にとっては刑事二人は暇潰しを持ち込んでくれる馬鹿コンビという認識なのである。お互いに。
「今日はたまたまだ。ここのチケットを手に入れたもんでな」
「路地、お前音楽の嗜みなんてあったのか」
「ほんと、意外です」
「馬鹿にするな、お前らとは違うんだぞ」
 殺人の現場で不毛なやりとりを少し交わした後に、刑事二人は路地を捜査に引き込むことにした。

「それより、路地。容疑者を絞れるかもしれねえ、ってどういうこった?」
「それは、当の本人たちならわかるんじゃねえか…?」
 路地は、団員たちの方に目を向ける。ちょうど、望月、内海、鍵山、藤野の四人は固まってしゃべっていた。
 路地に見られていることに気づくと、四人は顔を見合わせて不安そうな顔をした。
「なるほどね…」
 それを見て塚江も事情をある程度把握する。塚江は面倒臭がりのダメ刑事だが、一応それなりに観察眼は持ち合わせているのだ。まあ、それで初動捜査を見誤ることもあるのだが。
 名井だけは何もわからずに、塚江と路地の顔を交互に見ていた……。

「…あぁ、俺らは全員あいつのことを恨んでたさ」
 鍵山がそう答えた。
 路地たちは楽屋を取調室がわりにして、そこに四人を集めた。そして、路地が聞いたことの話を尋ねたのだ。
「ぶっ殺したい、そう願ったことも何度あるか」
 鍵山は椅子に座って、机に肘をつきながら言った。
「ここにいる四人、全員そうですよ」
 壁に寄りかかるようにして立っている藤野が、腕を組みながら言った。
「私たちは全員彼のことを忘れていませんから」
 内海の隣に座っている望月が言った。
「彼…ですか?」
 塚江が聞いた。
 望月、鍵山、藤野は三人顔を見合わせて内海の方を見た。内海はそれに対して力強く頷き、話し始めた。
「飯田真斗くんのことです」
 路地は、あの楽屋の言い争いで名前が上がっていたなと思いながら話を聞いていた。
「彼は私たちの同級生でした。もちろん、江本くんとも」
「ちょっと待ってください?」
 名井が声を上げた。
「僕、その飯田真斗って名前聞き覚えあります。他の刑事から」
 内海たちは悲しそうな顔になると話を続けた。
「そうです。彼はすでにこの世にいません。自殺したんです」
「なんと…!」
「マジか…」
 刑事二人が驚きの声を上げる中で、路地も顔を険しくした。
 内海はそこで口を閉ざしてしまったため、隣で寄り添うようにしている望月が変わって話し始めた。
「彼は小さい頃から指揮者を目指していたんです。小さい頃から音楽が大好きで、もちろん私たちも音楽が好きなんですけど、飛び抜けて音楽が大好きだったんです。
 それで私たち……江本くんも入れて六人はみんなで同じピアノ教室に通ったりして、お互いに音楽の力を高め合ってきたんです。数年前までは……」
 四人の顔が曇る。
「〇〇大に入った頃です。その頃にはとっくに、江本くんと飯田くん以外の四人は自分の好きな楽器を見つけてそれを極めていました。江本くんと飯田くんは二人とも指揮者の夢を追い続けていました。
 でもそのせいで、いつしか江本くんは飯田くんをライバル視するようになっていたのです」
「正直に言うと、指揮の腕は飯田の方が何倍もマシだった。江本の指揮は確かにうまいけど、表現力に乏しいんだよ。
 毎回毎回、改善点とかがあったら、それを全部書き留めるんだ。そして、次に振る時はその楽譜を見て、楽譜の指示にただただ忠実に振るだけ。
 まあテンポとか強弱とかにブレはないんだけど、つまんないんだよ」
「挙句の果てには、合奏練習も終盤になって来れば、書き込むことも多くなるから、毎回毎回譜面を変えて…。ほんとめんどくせえやつなんだよ」
 鍵山、藤野も続けて言う。
「それで、それがどうして飯田真斗の自殺に繋がるんですか?」
「それは……」
 話が江本に対するダメ出しになりそうだったので、塚江が軌道修正のための質問を投げかけると、再び四人が静まり返った。
「あいつの…不正のせいだ…」
 沈黙を破ったのは鍵山だった。
「……〇〇大学では年に一人、技術が優れている生徒を選出してその生徒の海外留学を支援する制度があるんだ」
「それってもしかして」
「団長が言っていた、江本くんの海外留学がそれです」
 路地の質問には望月が横から答えてくれた。鍵山も話をつづける。
「支援って言いますけど、大学としてもその名を売ることのできるまたとないチャンスだから、留学のための費用はほぼほぼ出してもらえるんです。なんなら、小遣いまで…」
「飯田はその留学に行きたいと前々から言ってたんだ。見たことのない海外の音楽をもっと知りたい、そう顔を輝かせて話してくれた。
 そして、江本と対立することになったんだ」
「そのせいで? 当たり前じゃないですか?」
「そうじゃねえ!」
 ぼそっとつぶやいた名井に、鍵山は怒鳴った。
「それはわかってる。江本も指揮者を目指して留学を狙ってたから、飯田と江本がライバルになるのは当たり前だ。もちろん、少し性格はきつかったけど音楽に向き合ってる江本は、俺らだって応援してたさ……。
 けれど……あいつは、俺らを……飯田を…裏切ったんだ」
 鍵山の声が小さくなっていく。
「裏切った?」
「大学の先生たちの評価の結果、留学者の選考で最後まで残ったのは、飯田と江本の二人だったんだよ。音楽の知識も指揮の技術も授業態度も、二人とも同点だったんだ。飯田か江本、どちらかしか留学にいくことができないと言う状況になったんだよ」
 鍵山の後を継いだのは藤野だった。
「そして、それを決める最終選考。それは、指揮の技術を比べる選考で、楽器専攻の生徒たちで吹奏楽構成のグループを作って、飯田と江本は同じグループの前で指揮を振って、その技術と曲の仕上がりが審査対象になったんだ。
 俺たちもそこに入った。あの頃は複雑な気持ちだったよ。友達二人が争っていて、その勝敗は俺らにもかかってるんだからな」
 藤野は悲しそうに笑った。
「二人はそれぞれの振りやすい曲を選ぶことが許された。
 江本は昔の作家のそれなりに有名な曲を持ち出してきた。
 そして、飯田が選んだ勝負曲が…『魔弾の射手』の序曲だったんだよ」
「それって…」
「そうだよ。今日、江本が倒れた時に演奏してた曲だよ」
 藤野がどこか複雑な表情で言った。
「ったく、人生ってのは面白いもんだよ。
 江本だって、まさか自分が負かした男のお気に入りの曲を振りながら殺されるなんて、思ってもいなかったろうな。
 しかも、不正で負かした男のな」
「負かしたということは、飯田さんは…」
「あぁ、負けたんだよ。最終選考に。
 ……不正して勝った江本のせいでな」
 名井の問いに鍵山が憎しみを込めた声で言った。
「不正?」と塚江が訝しげに尋ねた。
「あぁ。選考員の教授の何人かに、金を掴ませたのさ」
「…賄賂…だな」
 路地の呟きに、鍵山たち四人は頷いた。
「元々あいつの親は金持ちだったんだ。ボンボンだったんだよ。あいつの親も親で、あいつの言う通りに金を出して、教授たちに貢いだんだ」
「でも、それが本当かどうかは…」
「一目瞭然なんだよ! 江本の指揮が下手で、飯田の指揮の方が上手いってことは。
 特に最終選考の時の江本の指揮は酷かった。緊張してたか知らんが、いつもの正確さすら欠けてたんだ。表現力もなし、正確さもなし、しかも動きも硬い、そんな奴が選ばれるなんておかしい。音楽を嗜んでる奴ならそれくらい簡単にわかる」
 確かに、ステージ上での江本の指揮は、下手ではないが留学に行くほど上手いものでもなかった。路地もそう思いながら鍵山の話を聞いていた。
「逆に、あの時の飯田の指揮は鳥肌もんだった。あの場に流れる音楽の全てを、飯田は操っていたんだ。江本の指揮が作り出していたあの一体感、あの感覚は俺らは絶対に忘れない…」
 鍵山の声が震えた。他の三人も目頭を抑えたりしている。
「……最高の指揮だった。
 だから、江本が勝ったなんて信じられなかった」
「どうやって、江本さんが賄賂をしていたと知ったんですか?」
「……聞いちゃったのよ…」
 名井に答えたのは望月だった。
「私がバイトしてる居酒屋に、江本くんが友達を連れてやってきたの。元から誰にも言ってなかったバイトだから多分江本くんも知らなかったと思うんだけど。
 驚かせようと思って身を隠しながら働いてたの。そうしたら…あんなこと話し始めて……」

『それでさ、俺、どーしても海外行きたかったわけ。当たり前でしょーよ、だって無料で海外旅行できるようなもんだぜ。
 ん? 指揮はどうすんのか、って? んなもん、テキトーにやっときゃ大丈夫だよ。確かに指揮者にはなりたいけど、そんなもん、遊びの二の次に決まってんだろ。それに、今回だって、練習しなくても絶対俺が勝つって決まってたんだから。
 だって、金掴ませといたんだもん、ーー先生にもーー教授にも。オトナのお約束したんだもん、そりゃ俺を選んでくれるさ。
 毎日毎日練習してた飯田のやつには申し訳ねーけど、はっはっはっは』

「これは…ひどい…」
 名井が耐えきれずにつぶやいたところで、望月はスマホを切った。
「録音したんです。テーブルを回ってる時、江本くんとその友達が悪ノリしてたので、つい……」
「これは公に?」
「してません。これを知ってるのは、ここにいる私たち四人だけです。元々、わたしたちで江本くんを説得するつもりでしたから」
「なるほど…」
「それを被害者は裏切った、と」
「裏切ったなんてものじゃない!」
 内海が叫ぶように言った。
「江本くんは、本当に最低なやつだった…」
「奴は金を払ってまで飯田を負かしただけじゃなくて、飯田を嵌めたんだよ。ありもしない噂広めて。中学生の頃に暴力沙汰を起こしたとか、高校生の頃は女遊びが激しかったとか。全部、真っ赤な嘘だよ。
 きっと、自分のやったことがバレるのが怖くて、担保をかけてたんだろうな。もし誰かが自分の不正を告発しても、飯田の味方を減らすために」
 鍵山が内海を庇うように続けた。
「演奏会の前に話していたのはそのことだったんだな」
 路地が言った一言に、四人は一瞬驚いたが四人とも苦笑した。
「聞いていたんだな、あんた」
「それじゃあ、俺たち四人があいつのことを恨んでるなんてバレバレだよな」
 男二人が言った。

「話を戻そう。
 君たち四人が、被害者の江本を恨んでると言うことは十分にわかった」
 塚江が、江本の過去の不正の話から、今回の事件の話へ話題を変える。
「今回の事件の話をしようじゃないか。
 さっきも言ったが、江本康之の死因は、右肩に刺さった矢に塗られていた毒だ。それも強力な毒で、刺されたらあっという間に死に至るほどの」
「あぁ、聞いたさ」
「それで、だ。
 実はねぇ、私たちの方で、犯人は絞られていましてねぇ」
 塚江が、さっきまでの聞き取りのための優しそうな雰囲気から一変させて、犯人逮捕のためならなんでもすると言うような貪欲な雰囲気を醸し出した。刑事としての塚江の顔だ。
「犯人?」
「えぇ。毒矢が刺さっていたのは、被害者の右肩でした。つまり……矢はステージ上の上手側から放たれたのです」
「それって…」
 望月と藤野が、鍵山と内海の方を見る。
「そう。チューバとアルトサックスは、上手側に配置されていますよね」
「…おい、まさか、俺か内海のどちらかが犯人だとでも言うのか」
「えぇ、そうですよ」
 普通の刑事だったらここである程度言葉を選ぶのだろうが、塚江は言い切った。
「そして、特に…内海さん」
「え」
 塚江に名指しされて、内海がビクッとする。
「鍵山さんのチューバは、指揮台から結構離れてしまっていますよね。それに、チューバはずっと支えていなくてはいけないから、常にどちらか片手は塞がってしまう。そんな状況で、正確に被害者に矢を命中させられるとは思えない。
 一方、アルトサックスは二列目に座っている上に、ストラップがあるため、いざとなれば両腕を自由にすることも可能。
 それに、さっきの会話を聞いていると……」
 塚江が怪しげな視線を内海に送る。
 俯いて震える内海を、望月が抱き寄せた。
「刑事さん、言い過ぎです!」
「いや、こちらも仕事でしてね…」
 望月と塚江の言い合いが始まるかと思った刹那、
「ありがとう、流花」
 内海がはっきり言った。一呼吸つくと、話だした。
「えぇ、そうです。私は飯田くん…真斗と付き合っていました。そして、将来は結婚も考えていたんです」
 塚江と名井、そして路地もこの告白に興味を示した。
「大学に入ってすぐ、真斗から告白してきたんです。それも、結婚を前提に。しばらくお付き合いをして、私から改めて告白を受けました。
 ずっと続くと思った私たちの幸せを壊したのは、あの最終選考でした。
 あの後、真斗はショックを受けていました。でもそれは、負けてしまったんだというショックで、すぐに、次頑張ろうと前を向こうとしていたんです。
 けれど……その後すぐに、真斗の様子はおかしくなったんです。その頃にはもう、江本くんが広めた嘘の噂が学内に広まってしまっていました。多分そのせいだったんだと思います。
 私たちの前では笑ってくれるんですけど、でもそれは頑張って笑ってるのがすぐにわかってしまうような笑顔で、それを見るのが辛くて辛くて…。
 流花たちと、真斗を誘って五人で旅行に行こうって話が出始めた頃でした。真斗が…真斗が…」
「もういい。それ以上喋るな」
 路地が内海の話を止めた。塚江と名井も神妙な顔つきでその話を聞いていた。名井に至っては涙を流している。
 塚江は鼻を啜ってから、また刑事の顔に戻って話を続けた。
「…悪いが、こっちも仕事でな。疑わなくちゃいけないんだ。とりあえず、内海さんには署に…」
「ちょっと待って、刑事さん。本当に内海を疑ってるのか?」
 鍵山が止めた。
「えぇ、動機も十分、そして状況的に一番怪しいのも内海さんですから」
「何にも証拠がないじゃないか」
「そうだ!」
「……そうよ!」
 藤野も鍵山に加勢する中、望月が何か気づいた素振りを見せた。
「凶器は矢だっんでしょ。しかも、強い毒が塗られたやつ。
 そんなの素手で持ち運びできるわけがない、だとしたら、何か容器みたいなのに入れてたのよ、きっと。
 そんな容器、私たちの誰も持ってないわよ」
 塚江と名井がハッとして、路地を見る。路地は四人の容疑者を興味深そうに見ていた。
「そんなことなら、さっさと証明してやるよ」
 真っ先に立っていた藤野が、左手をあてがいながらスーツのズボンの右ポケットを漁ってみせた。左ポケットも同じように、右手をあてがいながら漁った。
「ほら、何も入ってないだろ」
 藤野は、ジャケットのポケットを漁りながら堂々と言った。
「俺も俺も」
 座っていた鍵山が立ち上がると、ズボンの両ポケットに一気に両手を突っ込んで、ポケットの中身をひっくり返した。
「ほら何にもないだろ」
 鍵山はジャケットの方のポケットも同じようにひっくり返した。
「私たちもやろ」
「うん」
 望月と内海も立ち上がって、二人とも続けてポケットの中身を漁ってみせた。
「ほら、誰も持ってないじゃないですか」
 望月が少し怒りを含めた物言いで言い切った。
「ムムム」
「ありゃ本当だ」
 『ムムム』と本当に口に出して悔しがっている塚江と、あわあわと焦っている名井。二人の刑事の後ろで、路地もじっとその様子を見つめていた。

 路地は、鍵山たち四人を塚江と名井を任せて、部屋を抜け出した。
 ステージ上の現場へ戻っていく。
「なあ、譜面一枚足りなくないか?」
「本当だ」
 そんな会話が譜面台の方から聞こえてきて、路地もそこへ向かう。
「どうした?」
「誰すか?」
 若い捜査員たちが路地を怪しむ。
「黙って答えろ。塚江に言いつけるぞ」
 若い捜査員は嫌な顔をしたが、塚江に絡まれるのはもっと嫌なようで、仕方なく話し始めた。
「今日の第一部で演奏する曲は五曲らしいんですけど、今譜面台の上にあるの四曲分の譜面しかないんですよ」
「!」
 路地は指揮台に飛び乗る。若い捜査員が「っておい!」と驚いたが、気にすら止めない。
 路地が譜面台の上の譜面をめくりながら見る。
「ない…」
 「歌劇『魔弾の射手』序曲」の譜面だけが、そこにはなかった。
 路地は前を向く。目の前に広がる、椅子と譜面台と楽器たち。目の前に、演奏中のステージの光景が蘇る……。
 
 四人を名井に任せて息抜きに出てきた塚江が、指揮台に立ち尽くす路地を見つける。
「おい、路地? 何かわかったか?」
「なあ…」
 路地は空な目のまま、塚江に語りかける。
「『魔弾の射手』の魔弾がどんなものか知ってるか?」
「いや、知らん」
「七発あってな、そのうち六発は射手の思い通りに命中するんだ」
「すごいじゃないか。それが本当にあったら、犯人逮捕も楽だろうな」
 塚江が馬鹿にするように話を交わす。しかし、路地は気にせず話を続ける。
「ただ、残りの一発は……悪魔の思い通りに命中するんだ」
「ヘェ~…。それで?」
 望月の言っていた、矢が入っていたケースがステージ上に無いかどうか探していた塚江は面倒臭そうに言った。
 路地はステージ上を回し見てから言った。
「だから、その悪魔の正体が見抜けたって言ってんだよ」
「え⁉︎」
 塚江が驚いて路地の方を見る。
 路地は、右の口角だけ上げて右目だけを細める、奇妙な笑みを浮かべていた。

 路地の命令で、団員全員がステージ上に集められた。
 名井に連れられて、鍵山たち四人も姿を表す。
 そして、ステージ袖から椅子が追加される。団長と打楽器パートの人数分だ。
「これは、一体何ですか?」
 おっとりした口調で団長が尋ねる。
「……」
「ちょっとした、えっと……謎解きです」
 黙りこくっている路地にかわり、名井があたふたと説明する。
 団長が不思議そうに見つめながらも自分の椅子の近くへ去った後、路地が名井に尋ねた。
「なあ」
「何ですか?」
「あの四人、俺が部屋から出た後、個人行動を許したか?」
「いえ、あの後がここに連れてくるまで、僕もずっとついていました」
「そうか。それでいい」
 そう呟くと、路地はまた喋らなくなった。

 数分とせずに、全員が集まった。事件の時、ステージ上にいた全員である。
「これから、この事件の謎を解く」
 路地が指揮台の上に立って、そう宣言した。
 ざわざわする団員たち。各々、座ったり立ったりして、仲の良い団員たちで集まっているらしい。
「まず初めに」
 少々うるさくなった舞台上を、路地が声で静める。
「江本康之が『魔弾の射手』の指揮を振ってる時に倒れた。それは確かだな」
 団員たちが頷く。
「えぇそうです」
「お客さんもそう言ってたじゃないですか」
 団員たちの何人かがそう答える。
「確かに江本康之は『魔弾の射手』の指揮を振ってる時に倒れた。

 ……しかし、それは、毒矢で射られたからではない」

 路地の言葉に、一斉に場がざわめく。
 もちろん、路地の近くにいた塚江と名井も。
「路地、どういうことだ!」
「被害者が、矢で射られていないのに、倒れたっていうんですか?」
「あぁ。もちろん」
 路地はあっけらかんとしている。
「まあ、とりあえずこの話は後にとっておこう」
 ざわめきを無視して、路地は話を続けた。

「これから、犯人を特定する」
 路地の言葉に、今度はみんなが静まり返った。
 演奏会が始まる前とはまた違った緊張感が漂う。
「犯人…?」
 そう呟いたのは内海だった。
「あぁ。犯人だ」
 路地は、内海の顔を見ずに、そう答えた。内海は、少し複雑そうな顔で俯いた。
 路地は今一度舞台上の全員を見回すと、一層虚ろな目をして言った。
「これから俺が言うことに、忠実に従え。なに、簡単なことだ……」
 路地は少しためると、大声ではないがしっかり響く声で、
「座れ」
 と言った。

〝ガタガタ〟
〝ギシギシ〟
 椅子が動かされてステージ床とぶつかり合う音や、体重分の重さを預けられて椅子が軋む音が響く。
 しかし、一言目で素直に座ったのは全員ではなかった。
「刑事さん、これ本当に座らないといけないの」
「座ってなにがわかんだよ……茶番はやめてくれ」
 あの四人を含めた一部の団員は立ったままだった。
「おい、路地、なにがしたいんだよ」
 塚江が焦って路地に耳打ちして尋ねる。
 しかし、路地はステージ上の全員の顔を見回しながら、ただ、
「座れ」
 と言うだけだった。
 しばらくざわついたステージだが、路地の物言わぬ圧に屈したのか、一人また一人と腰を下ろしていく。
「お前らも座れよ」
 との路地の合図で、仕方なく塚江と名井も用意された椅子に座る。

 数十秒経った時。ステージ上には、また別のざわめきが起きかけていた。
 塚江と名井もその異変に気づいて騒ぎ始めた。
「どう言うことだ、一体……」

 たった一人。椅子に座らない人がいた。
 真っ直ぐに立ち、その拳は太ももにしっかりつけたまま固まっている。
 その表情には、焦りや恐怖、怯えなどのいろんな感情が混ざり合っている。そんな中でも、自分が罠にかけられたと言うことを自覚しているような真っ直ぐな視線で、自分の足元のただ一点を見つめるだけだった。

「座れといったじゃないか。どうして座らない。
 ……いや、座れないのか」
 路地はあえてその一人と目を合わさずにそう呟くと、今度はしっかりその人の目を見て捉えた。

「そうだろ。藤野龍樹」

 名を呼ばれた藤野は肩をビクッとさせた。
「おい……おい、藤野! 座れ!」
「どうしたの、藤野くん、座ればいいのよ!」
「座るだけ、座るだけよ。お願い、座って!」
 耐えきれず立ち上がった鍵山が、望月が、内海が、願うように藤野に叫ぶ。
「座ればいいんですよ、藤野さん」
 名井も藤野に言葉をかける。
 塚江はすでに何かを察したように、真っ直ぐ藤野を見つめている。
「座れ」
 路地が追い打ちをかけるようにもう一度言った。

「……座れねえよ」
 藤野はそう呟いて、大きくため息をついた。

「どうして……」
 内海が言った。

「……」
 藤野は寂しそうな目で内海を見ると、目線を上げてから、再び足元に下ろした。
「隠すの、頑張ったんだけどな……」
 そして憑き物が落ちたような顔で、今度は素直に腰を下ろした。
 座ったことでズボンが引っ張られて、ズボンの裾が少し上がった。
「それ…何…?」
 名井が気づく。藤野の靴下と肌の隙間に何やら挟まっている。
 藤野はズボンの裾を捲り上げると、それを取り出した。
 細い矢が一本入りそうな、透明なケースであった。
「マウスピースブラシのケースとは、考えたもんだな」
 路地がそれを見てつぶやいた。
 藤野は塚江に歩み寄り、それを手渡した。
 塚江はそれを回し見ると、
「毒矢を入れていたものだな」
 と言って、証拠品用の袋に入れた。
 藤野は両手を突き出した。
「僕が、江本を殺した」

 塚江と名井が両脇について、藤野を連行していく。
 藤野が立ち止まって、振り向く。
 その目線の先には、音楽を共に奏でてきた仲間、鍵山と望月と内海がいる。
「すまない。みんなの音楽が、俺のせいでダメになってしまった」
 藤野は振り返って歩き出す。
「飯田に伝えてくれ。打楽器パートが一人減った、って」
 藤野が背中で訴えた言葉を、鍵山たちは確かに受け取る。目に涙を溜めながら。

 去りゆく藤野を、路地はその姿が見えなくなるまで見つめ続けた。

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

「ふぅ~ん、そんな事件があったんだ……ずるいな」
「ずるいな、って、お前不謹慎すぎだろう」
「だってー私もその事件同行したかったんだもん」
 ここは、馬革ビルディング三階、路地の探偵事務所である。
 高校終わりの皆藤がやってきて、事務所で唯一綺麗なソファーにごろ寝している。いつもの風景だ。
「それで、その飯田真斗って人の敵討ちで、藤野って人は江本って人を殺したのね」
「そう、って人のために、って人が、って人を殺したんだ」
 皆藤の言い回しを馬鹿にするように路地が言う。
 皆藤はムスッとしながらも話を続ける。
「でも、どうして藤野さんが?」
「それがな……」
 路地は、取調室での藤野の言葉を思い出していた。


『……俺だったんです。飯田が最終的に自殺するきっかけを作ってしまったのは。
 鍵山たち三人と話して、江本の不正のことは、まず江本を説得してから飯田に話そうって言ってたのに。
 俺は、本当に馬鹿だった。飯田と飲みに行った時に、俺は江本への恨みつらみを話した末に、江本の不正のことも話しちまったんだ。
 それからすぐ飯田は様子がおかしくなった。あいつは優しいやつだったから、自分が江本に騙されたってことにひどくショックを受けてた。
 多分、そのせいで……飯田は……』
 机に突っ伏して泣いた藤野。
 それは、自分の軽はずみな言動のせいで、一人の友人を亡くしたかもしれない上に、さらにもう一人の友人の命を奪うことになってしまった男の、悲しい咆哮だった……。


「なるほどね……確かにそれは辛いわね……」
「まあ、なんとも言えねえ結末だよな……」
 少し暗い雰囲気のまま、藤野の話は終わった…。

「そういえば、お師匠はどうして、藤野さんが矢をしまうケースを持ってたってわかったの?」
 皆藤は路地のことをお師匠と呼んでいる。路地は「老人ぽくて嫌だ」と止めるように言ってるのだが、そんなこと一切聞かないのが皆藤である。
「簡単なことだよ。
 藤野は靴下の隙間にそれを隠していた。そして、それをズボンの裾で見えないようにしてたんだ。
 だけど、この隠し方には一つだけ短所があった。座ろうとすると、ズボンの裾が捲れるから、中に隠しているのがバレてしまうってとこだ。
 元々、藤野が担当する打楽器はあの編成の中で、唯一演奏中も立っていられるものだから、藤野はそこに隠すことを思いついたんだろう。藤野にとっては一番の隠し場所のはずだった。
 けれど、あの時俺は座れという指示を出した。あそこで座ったら、裾に隠しているものがバレてしまう。だから、藤野だけすぐに座ることができなかったんだよ」
「でも、もし、その時にはもう靴下のところからそれを取り出して、別なところに隠していたらどうしていたの?」
「いや、それはない」
 路地は手のひらで皆藤を黙らせると、話を続けた。
「俺は名井に、四人を楽屋に呼んだ後で個人行動をしたかと尋ねた。そして、個人行動はしていないと名井は言った。
 藤野は楽屋で話を聞いていた時にはまだ、矢をしまうケースを隠し持っていたから、そのままあの場に来たのならケースは隠し持ったままだと読んだんだ」
「どうして、楽屋にいたときにケースを持っていたってわかるの?」
「だって藤野はあの時、ポケットを漁っていたが、その時、右ポケットを漁るためにわざわざ左手をあてがっていた。左ポケットを漁るときも同様」
 路地は立ち上がると、自分のよれよれズボンを皆藤に見せた。
「ポケットの中に何も入っていないことを証明したいのなら、片方ずつやらなくたって……」
 路地は一度に両方のポケットに手を突っ込むと、中身をひっくり返した。
 中からパラパラと小さなゴミや砂が落ちて、皆藤が顔をしかめる。
 路地は気にせず続けた。
「こうすればいいだけだ。実際、鍵山はそうしていたしな。
 藤野がああやって面倒なことをしたのは……ほら」
「あ!」
 路地はズボンの両ポケットの中身をひっくり返したまま、足元に目線を落とした。皆藤もその方を見て声を上げる。
 路地がズボンのポケットをひっくり返したことで、その部分に引っ張り上げられ、ズボンの裾が捲れてしまっていた。
「藤野はこうなることを恐れてああやって丁寧にポケットを漁ったんだ。つまり、あの時にはもう、ケースを隠し持っていたのさ」
「なるほど……」
 路地は座ると、机の上の麦チョコを摘んだ。ちなみに、それは塚江と名井が路地にあげたものだ。
 皆藤もまた、座ってそれを摘みながら、さらに尋ねた。
「そう言えば、どうして江本さんが曲の最中に倒れたのか、まだ聞いてないや」
「ん、あぁ、そのことか」
 路地は口にためた麦チョコを飲み込むと、また話を続けた。
「江本は毒矢に射られて倒れたんじゃない。
 そうするよう、指示されたから倒れたんだ」
「指示⁉︎」
「あぁ」
「でも、どうやって」
 皆藤がはてなを頭に浮かべながら、路地に聞いた。路地は淡々と、答える。
「楽譜だよ、楽譜。『魔弾の射手』の楽譜に指示が書いてあったんだ。
 曲中の、ちょうどあのあたりの楽譜に〝倒れて〟とね」
「はぁ……でもそんなことが?」
「ありえるよ。
 音楽家ってのは変な奴が多いもんだ。まあ、そんな変なやつじゃないとあんな素晴らしい曲は作り出せないんだろうけど。
 そして、その変な作曲家の中には、曲中の指揮でとんでもないことを指示する奴もいる」
「でも、〝倒れて〟だなんていくらなんでも無茶じゃ……」
「あるんだよ」
 路地はニヤリと笑った。
「マウリシオ・カーゲルの『フィナーレ』と言う楽曲、そこには〝倒れる〟と言う指示がある」
「マジで?」
 
 路地の説明に付け足そう。
 マウリシオ・カーゲルの『フィナーレ』と言う作品だが、そこには実際にこんな指示がある。
〝指揮者:突然のけいれんに見舞われたかのように硬直する〟
〝後ろの床(聴衆側)に頭をむけて倒れる〟
 また、彼の作品にはユニークな指示が多い。打楽器の一つ・ティンパニの革を破るという指示もあるのだ。
 是非とも調べてみることをおすすめする。

「他にもあるさ。最近の吹奏楽曲の中からあげれば、福島弘和の『走れメロス』、そこには冒頭部分に〝激怒して〟と言う指示がある。
 ポップス曲だって、ジャッキーチェンの映画のテーマ『燃えよドラゴン』には〝半裸で〟なんて指示もある。
 音楽って、馬鹿らしいけど、面白いだろ」
「激怒に半裸、ねぇ……」
 皆藤は明らかに引いている。
「まあ、常人には考えられねえことだけどな」
 路地も苦笑いしてから、続けた。
「とにかく、あの時の『魔弾の射手』の楽譜にはそんなことが書かれていたんだ。
 江本はいちいち楽譜を変える面倒臭いやつだ。だけど、それを逆手にとって、あの時使う楽譜にこっそり〝倒れる〟と言う指示を書き込んだんだ。
 毎回改善点などは楽譜に書き留めて、いつも楽譜に忠実に振る江本は、その指示に従って倒れただけなのさ。まあ、もし江本が怪しがってもいいように、その隣に〝団員と観客へのサプライズです〟とでも書き添えておけば、確実に江本を倒れさせることはできる。
 実際、藤野はそれがバレないように、現場から『魔弾の射手』の楽譜を持ち出したようだったしな」
「なるほど……その後は私にも分かる」
 皆藤はそう言って、路地に代わって自分の考えを話し始めた。
「江本さんは楽譜の指示通りに倒れた。もちろん、わざとだから倒れた時点では生きていた。
 だけど、その後一番に駆けつけた藤野さんが、隠し持っていた毒矢を右肩に刺して江本さんを本当に殺した……ってわけね」
 路地はニヤリと笑って頷いた。
「その通り。
 真っ先に駆け寄って毒矢を刺すチャンスがあった人物は、打楽器担当で楽器を下ろす手間がかからない藤野しかいない。だから、犯人を藤野に特定できたってわけさ」
 路地はそこで一息つくと、
「音楽ってのは、面白かったり怖かったり、ちょいとしたことで人の人生を大きく動かしちまったり……不思議なもんだよなぁ」
 と呟いて、麦チョコを一粒頬張った。

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