暁のカトレア

四季

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episode.47 すべてを削いでも、生き残る

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 命の次に大切と言っても過言ではない腕時計を取り戻すべく、トリスタンは、リュビエに無謀な戦いを挑む。

 リュビエの戦闘能力は、人間を遥かに超えている。人間の女性のような姿かたちをしているが、人間ではないということなのだろう。そんな彼女に何の強化もない体で挑むとは、トリスタンらしからぬ無謀さだ。
 そんな明らかに不利な状況にあっても、トリスタンは懸命に戦った。怯まず、持てる力をすべて出し、勇敢に向かっていったのである。

 ——けれども、残念な結果に終わってしまった。

「レヴィアス人風情にしては頑張ったと思うわよ。でも、あたしの相手にはならなかったわね」

 リュビエは笑みを浮かべながら、黒い床に倒れ込んだトリスタンの右足首を曲げる。
 本来曲がるのとは逆の方向に。

「……くっ」

 トリスタンは、その整った顔を歪めた。
 額には汗の粒が浮かんでいる。

「力の差は歴然。これに懲りたら、無駄な抵抗は止めることね」
「抵抗は止めない」
「まだ分からないというの? ならばお前が理解するまで痛い目に遭わせてあげるわ!」

 鋭く言い放ち、トリスタンの足首を強く曲げるリュビエ。苛立ちも加わっているからか、先ほどよりも曲げ方が大きい。

 しかし、大人しく痛めつけられ続けるトリスタンではない。
 彼はリュビエに掴まれていない方の脚を反らせ、大きく振りかぶる。そして、遠心力を利用しつつリュビエの喉元を蹴った。

 直前で気づいたリュビエは、咄嗟に手を離す。

 二人の距離が離れた。

「この期に及んでまだ抵抗するのね」
「言ったはずだよ。抵抗は止めない、って」

 トリスタンは速やかに体勢を整え直す。
 一つに結われた金の髪がさらりと揺れた。

「馬鹿ね、お前は」

 強気な発言を耳にしたリュビエは呆れたように言う。やれやれ、といった雰囲気で、首を左右に動かしている。

「大人しく助けを待つ方が賢いんじゃないかしら?」
「みんなに迷惑はかけられないからね」
「しっかりしているのね。でもそれは、無謀だとしか思えないわ。この飛行艇から自力で逃れるなんて不可能よ」

 二人きりの空間に漂う空気は真冬のように冷たかった。そしてもちろん、冷たいのは空気だけではない。金属製と思われる床も、氷のようにひんやりしている。

「仮にあたしを突破できたとしても、逃れられはしないわ。ここにはいくらでも兵がいるもの」
「兵?」
「お前たちが化け物と呼ぶ生き物たちよ」

 トリスタンは立ち上がろうとするが、右足首の痛みに、膝を軽く曲げてしまう。しかし彼は挫けない。数秒後には、精神力だけで無理矢理立ち上がった。

「剣のないお前など、牙のない獣も同然。何もできやしないわ」
「それは、やってみないと分からないと思うけどね」

 彼の肉体は既にかなりのダメージを受けていることだろう。
 細い蛇の雨を浴び、蹴られ、しまいには足首を強く折り曲げられたのだ。ダメージがないわけがない。
 今彼がこうして立てているのは、ひとえに、心の強さゆえだと思われる。容姿の繊細な美しさからは想像もつかないような、人を越えた太い心が、彼にはある。

「ならば試してみても良いわよ?」
「初めからそのつもりだったんじゃないのかな」
「ふふ。気づいたことは褒めてあげる」

 リュビエがパチンと指を鳴らすと、一面の壁がガガガと音を立てつつ上がった。

 そこにいたのは——狼型化け物。

 前に戦い、激しい戦闘の末倒したものと、同じタイプの化け物だ。

「これだけ貸してあげるわ」

 目の前に現れた数匹の狼型化け物に身構えるトリスタンへ、リュビエは一本のナイフを投げた。彼はよく分からぬままナイフを手に取る。開いた手の手首から指先程度の刃渡りの、決して長くはないナイフだ。

「何のつもりかな」
「あたしからの贈り物よ。何も無しじゃ、すぐに殺されて終わり。そんなのは面白くないものね」
「要らない。心配しなくていいよ、素手でもそう簡単にはやられないから」

 ナイフをリュビエへ投げ返そうとするトリスタンだったが、リュビエはそれを制止する。

「贈り物を返すなんて禁止よ。ありがたく受け取っておきなさい」

 彼女は黒い笑みをこぼす。

「それにね、単なる好意ってわけでもないのよ。それを使って抵抗すれば、恐怖を覚える時間が増えるでしょう? ボスがそれをお望みなの」
「……ボスが?」
「そうよ。だから精々抵抗することね。その方が、ボスはお喜びになるわ」
「ボス、嫌なやつだね」

 トリスタンは吐き捨てるように言った。

「足が潰れるが先か、心が潰れるが先か……楽しみにしているわね」

 冷たい空気に満ちた空間の中、狼型化け物たちの瞳は爛々と輝いている。今にも襲いかかりそうな表情だ。戦う気は満々の様子である。

「化け物が潰れるのが先、が有力だと思うよ」

 トリスタンはリュビエから受け取ったナイフを握り直す。

 目つきは研がれた刃のように鋭い。青い瞳に優しさはなく、それこそ人を捨てたような、そんな顔つきをしている。

 腕時計による強化ができない。白銀の剣も使えない。けれども何体もの化け物と戦わなくてはならない。負ければ待つのは死。あまりに厳しすぎる条件が、彼から人の心を奪いつつあるのだろう。

「それじゃ。精々頑張って」

 他人事のように言い、リュビエはその場から去っていった。恐らく、巻き込まれないようにだと思われる。
 冷たい場に残されたのは、狼型化け物たちとトリスタンのみ。

「生きて帰る。絶対」

 トリスタンは高い天井を見上げて、神に誓いでもするかのように呟く。小さな声だが、そこには、彼の決意のすべてが存在していた。

「早く帰ってマレイちゃんの指導をしないと」

 目を閉じて深呼吸をした後、彼は目を開く。その瞳に迷いはなかった。
 化け物たちへの恐怖もすべて消え去った。彼にはもはや、恐れるものなど存在しない。

「……待っててね」

 トリスタンの口元にうっすらと笑みが浮かぶ。
 人の心が消滅しつつあることを映し出すかのような、不気味な笑みだった。
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