暁のカトレア

四季

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episode.73 優しい言葉と懐かしい香り

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 ゼーレをトリスタンに託した後、私はもうしばらく戦いを続けた。シブキガニからダリアを護るための戦いを。

 その中で私は、フランシスカによる上空からの攻撃や、グレイブの迫力がある槍術を、じっくりと見ることができた。
 シブキガニと戦いはしたが、最前線に合流したわけではなかったためだ。入った位置がやや後方寄りだったため、多少は余裕があったのである。

「大丈夫か、マレイ」

 シブキガニ退治がある程度済んだ時、グレイブが私のところへやって来てくれた。

「あ、グレイブさん! はい。大丈夫です」

 長きにわたる激しい戦いで、彼女は汗だくになっていた。だがそれでも美しい。汗で湿った黒髪が心なしか肌に張り付いている様は、言葉にならない色気を醸し出している。

「ゼーレは撤退したのだったな」
「はい。宿で手当てしてもらえていると思います」
「そうか。それなら——」

 首を傾げていると、グレイブは私の肩をとんと押した。

「様子見に行ってやれ」

 グレイブの血のように赤い唇から出たのは、思いの外優しい言葉。

 彼女はゼーレを憎んでいる。そう思っていただけに、少々意外だ。
 ……いや、もしかしたら、彼女が気を遣っているのはゼーレでなく私なのかもしれないが。

「え、でも……」
「構わん、行ってくれ。ここは私たちに任せておいてくれればいい」

 潤いのある漆黒の瞳は、私の姿をくっきりと映していた。それに気づくと、一層じっと見つめられているような気がして、何とも言えない気持ちになる。

「こちらのことは気にするな」

 そう言って、ふふっ、と笑みをこぼすグレイブ。
 いつも引き締まっている美しい顔が僅かにでも緩むと、なおさら魅力的に見える。完璧な者のちょっとした隙が良いのかもしれない。

「あ、ありがとうございます」

 私はグレイブの言葉に甘えることにした。

 戦場において、甘えなど許されたことではない。それは私だって分かっている。けれども、彼女が言ってくれたのだから、今くらいは甘えたって、ばちは当たらないだろう。

 そして私は、高台の方へ走り出す。
 目的地は、ゼーレがいるであろうアニタの宿だ。


 アニタの宿へ着き、中へ入ると、料理中のアニタとばっちり目が合ってしまった。久々だからか少し気まずい。

「マレイ、久しぶりだね」

 フライパンを動かし卵料理を作っている最中のアニタは、入ってきた私にすぐ気づいた。そして声をかけてきた。
 私が少し気まずい思いをしていることなど、微塵も考慮しない。

「お久しぶりです、アニタさん」
「仕事頑張っているのかい」
「少しずつですが、頑張っています」

 こうして言葉を交わす間も、アニタは、地道に料理を続けている。
 スクランブルエッグの上にかける胡椒の香りが懐かしい。

「そうかい。それなら良かった」

 彼女はそこで言葉を切った。トリスタンやゼーレのことは何も言わない。どうやら、こちらから聞かなくてはならないようだ。
 なので私は尋ねてみる。

「少し前に怪我人が運ばれてきませんでしたか?」

 いきなりこんなことを尋ねて、おかしくはないだろうか。そんなことを思い、一瞬躊躇いそうになってしまう。だが、だからといって放置するわけにもいかないので、はっきりと聞いてみた。

 するとアニタは、思い出したように、はっとした顔をする。

「そうだった、忘れていたよ。怪我人の手当てはちゃんとしたから」

 フライパンから皿へ、スクランブルエッグを移しながら、アニタは述べた。
 そして、スクランブルエッグの乗った皿へ胡椒をかけつつ、続ける。

「あっちの個室へ案内したから。会いたきゃそっちへ行ってみな」
「ありがとうございます!」

 アニタに言われた通り、私は一階の個室へと向かった。

 一階にある個室は三つだけ。しかも、そのうち二つは客用ではない。だから、アニタが「そっち」と示す部屋がどこなのかは、すぐに分かる。一階にある唯一の客室は、一人客用の狭い部屋一つだけなのだ。


 コンコン、と軽くノック。
 そして、ゆっくりと扉を押し開ける。施錠されていて開かなかったら少し恥ずかしいなと思ったが、扉はいとも簡単の開いた。鍵はかかっていなかったようだ。

「マレイちゃん!」

 室内へ入って数秒も経たないうちに、トリスタンの声が耳へ飛び込んできた。

「トリスタン! それに、ゼーレも!」

 二人の姿を見つけ、私は思わず駆け寄る。
 ゼーレは一つだけあるベッドの上で横たわっており、トリスタンはその付近に置かれた木製の椅子に腰かけていた。
 無事な二人の姿を見ることができ、非常に嬉しい。

「トリスタン。運んでくれて助かったわ! ありがとう!」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」

 まず最初に、ゼーレをここまで運んでくれたトリスタンへ、感謝の意を述べる。するとトリスタンは、顔面に花を咲かせていた。

 そして次はゼーレだ。
 私はベッドの方へ視線を向け、仰向きでベッドに横たわるゼーレに声をかける。

「ゼーレ。体は平気?」
「……カトレア、ですか」

 顔を覆っていた銀色の仮面は、やはり、ところどころ割れている。そのせいで、一部肌が露出していた。こちらをぼんやりと見ている瞳は、まだどこか虚ろだが、翡翠のような色である。

「やっぱりまだ辛い……わよね?」
「いえ。もう問題ありません」

 ゼーレはきっぱりと答える。
 だが、様子を見ている限り、「もう問題ない」といった感じではない。

「ごめんなさい、こんなことに巻き込んでしまって。どうか、せめて今はゆっくり休んで」

 するとゼーレは、金属製の片腕を、音もなくそっと伸ばしてくる。

 私はその手を握った。

 彼の意図は不明だ。ただ、なんとなく、その手を握らなくてはならないような気がしたのである。これといった具体的な理由があるわけではないが、その手をとった方がいい気がした。

 つまりは、「握りたくなった」ということなのかもしれない。

「……カトレア」
「何?」
「くれぐれも……自身を責めたりはしないで下さいよ」

 なぜこんなことを言うのだろう。今私の脳内には、疑問符しかなかった。

 ゼーレはひねくれた人だ。根っからの悪人ではないが、事あるごとに嫌みを言う、厄介な性格の持ち主。

 そのはずなのに、どうして——。
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