春は夢を見せるだろうか

四季

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後編

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「私のです」
「あ、やっぱり。どうぞ……」

 緊張気味に言うと、彼女は丁寧な言葉を返してくれる。

「教えていただけて助かりました」

 レース生地の白いハンカチをそっと受け取る彼女は、恥じらっているのか、微かに俯いている。視線を合わせてはくれない。もっとも、僕も彼女に視線を合わせられずにいたのだが。

 彼女はそのハンカチを、大事そうに、上着のポケットへしまう。

 それから数秒後、彼女は初めて僕に顔を向けた。

 僕を見つめる彼女の瞳は、満天の星空のようだ。夜のような黒色なのに、瑞々しく輝いている。大自然の中で見上げる星空を想起させるような、煌めく瞳。それは、僕の中の何かを崩した。

 彼女の初めて見た時と同じような感覚である。
 自分の中の何かが壊れる音がする。それなのに、どこか温かくて、言い表せないような幸せな気分になるのだ。

「ありがとう」

 最後に彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。

 そして、僕と彼女は別れた。

 耳に残るのは、金平糖のように甘く小さな声。心に残るのは、すぐ近くにいても手が届かないような気のする、儚い美しさ。

 でも、また明日の帰りになれば会える。

 明日からはきっと、今までより話せるだろう。一言でも二言でも、交わす言葉は増えていくはずだ。ゆっくりで構わない。ほんの少しずつでいい。徐々に距離を縮めていけば、いつかは親しくなれるに違いない。

 その日の帰りは、いつになく軽い足取りだった。


 ——しかし、翌日、帰り道に彼女の姿はなかった。

 晴れの日も雨の日も、夕方の時も夜の時も。いつだって彼女は、僕と同じ道を歩いていたのに。言葉を交わしたことはなかったけれど、いつだって彼女は手の届きそうな距離にいたのに。

 ずっと見ていた。憧れていた。

 だけど僕は、彼女のことをほとんど知らない。

 僕が彼女について知っているのは、一瞬にして他人の心を奪う容姿と、白いハンカチを大切にしていることだけだ。


 以降、彼女が僕の前に姿を現すことは一度もなかった。
 もしかしたら夢でも見ていたのかもしれない——そう自分を疑ってしまうほどに、彼女は忽然と消えた。


 僕は今でも、ふと思う時がある。

 あれは暖かな春が見せた夢だったのではないか、と。

 ただ、一度だけ聞いた彼女の声と微笑みは、この脳に鮮明に焼き付いている。夢とは到底思えないほど、しっかりと思い出せるのだ。

 だから僕は信じている。

 いつかまた、どこかで彼女に会えると。


◆終わり◆
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