イーダ・オルマリン 〜青き星、その王女の物語〜

四季

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29話 人影

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 その晩は自室へ戻った。

 正直なところを言うなら、まだ不安があるので、父親のいる部屋にいたかった。
 大勢でいれば、怖くないし寂しくもないから。

 けれど、怪我しているわけでもない私がいつまでもそこにいたら、迷惑でしかないだろう——そう思ったから、自室へ戻ることに決めたのである。

 数日前までずっと閉じ籠もっていた自室だが、久々に戻ると、何だか寂しい気がした。

 ……なぜだろう。

 ついこの前までは、ここが唯一の安息の地だった。自室で過ごす時間だけが穏やかで、外へは極力行きたくないと思っていた。

 それは揺るぎないものだったのだ。

 それなのに今は、自室内にて一人で過ごす時間を、妙に寂しく感じる。

 ベッドに入っても、頭には、ベルンハルトやリンディアばかりが浮かんできた。夜分にもかかわらず、会いたい、なんて思ってしまう。

「明日になれば会える」

 私は自分に言い聞かせるように、そんなことを呟く。
 そうして横になっているうちに、いつの間にか、眠ってしまっていたのだった。


 ……。


 …………。


 風が頬を撫でる感覚に、私はふと意識を取り戻した。うっすらと目を開くが、灯りの消えた部屋ゆえ、あまり何も見えない。ただ、視界の端にぼんやりと、白いものがひらめいている様子が入った。色と動きから察するに、カーテンだろう。

 その直後、私の瞳は人影を捉えた。

 ベルンハルトかリンディアか、あるいは侍女か。きっと何か用事で入ってきたのだろう。
 最初はそんな風に思ったが、どうやら違うらしい、と気づく。

 刹那、人影と目が合った。

「——おや」

 目が合うや否や、信じられないほどの恐怖感が私の全身を駆け巡る。訳が分からないが、首が粟立つのを感じた。

「起きてしまったようだね」

 私が目覚めたことに気づいたらしく、男性の影が近づいてくる。足音をたてない歩き方だが、接近してきていることは、影の動きと気配で十分に分かる。

「助け——っ!?」

 咄嗟に助けを呼ぼうとしたが、それより早く、男性の手が私の口元を塞いだ。

 黒い手袋をつけた大きな手は、呼吸すらも十分には許してくれない。口だけではなく、鼻までも押さえられているため、息苦しい。

「おっと。騒ぐのは止めていただこうかね」
「……んんっ!」

 何か発するよう試みるが、声はやはり出なかった。

 その頃になり、ようやく、男性の姿がはっきりと見えてきた。

 白い髪はきっちりとセットされていて、極めて紳士的。また、若干柔らかさのある目つきをしている。しかし、単に優しい人といった雰囲気とは異なり、その瞳からは力を感じる。鋭く研がれた刃を瞳の奥に隠し持っているような、そんな目だ。

 ちなみに、服装は黒い布をまとっているため見えない。

「何も心配することはない。私はべつに、不潔なことをしにやって来たわけではないのだよ」

 夜に勝手に他人の部屋へ侵入している時点で、そこそこ不潔だと思うのだが。

「だから、そんなに警戒しないでくれたまえ」
「んんんんっ!」

 するわよ、と言ったつもりだったのだが、やはりまともに発することはできなかった。口元を押さえられているせいだ。

「では、少し失礼」

 次の瞬間、私の体はふわりと持ち上がった。

 どうやら男性に抱えられたようだ。見知らぬ男性に体を持ち上げられるというのは、どうもしっくりこない。

「おぉ、案外軽い」

 今はあまり嬉しくない。

「ガラスのように繊細な腕に、陶器のように滑らかな顔。私もできるなら、君みたいな娘が欲しかった」
「……離して!」

 口元を押さえていた手が離れた隙を逃さず、私は叫んだ。そして、手足を動かし抵抗する。こんな怪しい男性に誘拐されるなんて、恐ろしすぎるから。

「おっと。あまり暴れないでくれるかね? 落としてしまいかねないのだが」
「暴れるわよ!」

 むしろ、落としてくれた方がありがたいのである。

 何としても男性から逃れ、部屋の外まで出なくてはならない。そうしなければ、どんな目に遭うか。だが逆に、扉の向こう側へ行けさえすれば、私の勝ちだ。

 四肢をばたつかせ、身をよじる。けれども、男性は離してくれない。

「さて。では行くとしよう」
「ちょっと!」
「大丈夫、動かなければ、危険なし」
「…………」

 こうして私は、またしても、渦に巻き込まれていく。

 平穏はまだ戻りそうにない。


 あれから、どのくらいの時間が経過したのだろう。よく分からない。ただ、男性に抱えられたまま、長い時間が過ぎた。

 父親、ベルンハルト、リンディア——みんなは心配するだろうか。私の身を案じてくれるのだろうか。

 そんなことを考えながら、夜を駆け抜けていった。


「さぁ、着いた」

 男性が足を止めたのは、いつも私たちが暮らしている星都から少々離れた場所。周囲に建物はあまりなく、木々が生い茂っている。都会、という感じではないところだ。

「私を……どうするつもりなの」
「ひとまず中へ。自己紹介はその後にしようではないか」
「まさか殺すつもりで……?」

 そう問うと、男性は首を左右に動かす。

「今のところその予定はないよ。状況が変わらない限りは、だがね」

 男性が私へ向ける眼差しは、柔らかく優しげなものだった。

 ……どこまでも不思議な人。

 彼は、わざわざ私の部屋へ侵入し、この身を捕らえ、連れ去った。本来なら、そこには悪意しかないはずだ。身代金を要求するにせよ、自身の好奇心を満たすために使うにせよ、である。

 しかし、彼の視線から悪の色が伝わってくることはない。それどころか、優しいのだ。

「そう……」

 私はそれだけ返すと、口を閉ざした。まったく知らないところなので逃げ出すには適さないが、だからといって彼と何かを話す気にもなれなかったから。

 その後、私が連れていかれたのは地下室。
 だが、牢屋のような部屋ではない。本やらビニール袋やらが散らかった、生活感たっぷりの部屋だ。

「君にはしばらく、ここで過ごしていただこうかね」
「……暗いわ。それに、凄く散らかっている」

 すると男性は口角を上げる。

「ははは。それは失礼」

 笑っているようなことを言っているが、心は笑っていないことがまるばれだ。ぎこちなさが凄まじい。

「さて。では自己紹介といこうか」
「…………」
「私の名は、アスター・ヴァレンタイン。呼び方は——ヴァレンなどはどうかね。ま、そこは指定しないが」

 アスター。

 彼はヴァレンタインの方に重きをおいて名乗ったが、私としては、アスターの方が気になった。というのも、以前リンディアの口から聞いたことのある単語だったから。
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