イーダ・オルマリン 〜青き星、その王女の物語〜

四季

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103話 静寂を揺らすもの

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 時は、ほんの少し遡り。

 イーダと別れたリンディアは、アスターの眠るベッドの脇に置かれた椅子へ、そっと腰を掛けた。
 リンディアの水色の瞳は、時折微かに揺らぎつつも、アスターの寝顔を凝視している。

「……アスター」

 部屋にはアスターとリンディアだけ。他には誰もいないため、室内は非常に静かだ。呼吸する音さえ聞こえそうなほどの静寂である。

 そんな無音の世界の中、リンディアは、脱力したアスターの手を握った。

「なーにやってんのよ」

 リンディアが吐き出した言葉。それはまるで、溜め息のようだ。

「ばっかじゃないの、アンタ。こんな怪我して……めーわくかけてんじゃないわよー」

 そんな風に彼女が声をかけても、アスターは何も返さない。
 彼はずっと眠ったままで、微かな反応さえない。

 リンディアは、アスターの目覚めを望んでいることだろう。けれども、その望みが叶うことはなく、ただ時間だけが過ぎてゆく。

「起きなさいよ、アスター」

 静寂の中、リンディアの声だけが空気を揺らす。

「アスター! こんなところで死んだら、あたしが死んだ後、さんじゅー年くらいしばき回すから!」

 リンディアは叫んだ。
 それでも、アスターからの返事はない。

 アスターの手を握る手に力を加え、彼女は目を細める。水色がかってはいるものの水晶のように美しいその瞳には、うっすらと、涙の粒が浮かんでいた。

「そんなの嫌でしょー。帰ってきなさいよ」

 彼女は独り言を発し続ける。
 唇を震わせながら。

「アスター、起きてちょーだいよ……」

 ベッドに横たわるアスターは、確かに呼吸している。だから、もう二度と帰ってこないような状態ではないはずだ。意識が戻りさえすれば、きっと、また再び動き出すことだろう。

 けれど、なかなか動き出さない。

「アスター……」

 リンディアの声が震える。
 その息さえ、今は掠れている。

 そんな時だった。

「……っ!?」

 握っていたアスターの手——否、指が、ぴくりと動いた。

 リンディアはすぐに気がつき、驚きを露わにしながら顔を上げる。その瞳は、アスターの手を暫し見つめた後、顔へと視線を移す。

「アスター?」

 悲しげな色を湛えていた彼女の双眸に、僅かではあるが希望の光が宿る。

 直後、再び彼の指が動いた。

「目が覚めそーなの?」
「…………」

 反応はない。

 再び静寂が訪れる。
 二人きりの空間は痛いほどに静かで、心音まで他人に聞こえそうだ。

「ちょっと、ねぇ、どーなのよ」

 リンディアはそうやって声をかけるのだけど、何かが返ってくることはなくて。彼女は、はぁ、と、小さな溜め息を漏らした。

 そして、諦めたようにアスターから視線を逸らした——その刹那。

「……リン、ディア」

 低い声が発された。

 突然のことに驚き、リンディアはアスターの方を向く。

「アスター!?」

 リンディアが叫んだのは、アスターの目が微かに開いていたから。

「……赤い、髪」
「もしかして、目が覚めたのー!?」
「やはり……リンディア、なのだね……?」

 アスターは確かに、自分の力で声を発していた。

「そーよ!」

 リンディアは泣きそうな顔で、彼の手を強く握る。

「覚えてるんじゃない!」
「……もちろん、覚えている……とも……」

 ベッドの上に横たわったままのアスターは、まだ、目が開ききらないようだ。瞼が上がりきらないのか、うっすらとしか目を開くことができていない。

 だが、意識ははっきりしている。

「私が何をしていたかは……よく思い出せないが……」
「が?」
「今はただ……綿菓子が食べたい」

 いつもと変わらないアスターの発言に、リンディアは呆れたように笑う。

「……相変わらずねー」

 彼女は呆れているようだ。しかし、嫌そうではない。いつも通りな彼を見て、安心しているのだろう。

「リンディア、私は……記憶がはっきりしない」

 今度はアスターの方から手を握る。

「何がどうなって……こんなことになったのかね?」
「こっちが聞きたいわよー。誰かにやられでもしたーってわけ?」
「いや、それが……私もあまり記憶がなくてだねー……ん」

 唐突に眉を寄せるアスター。

「ちょっと、どーかしたの?」

 リンディアは怪訝な顔をする。

「今、ふと思い出したのだよ」
「ふと思い出した、ですって? なーによ、それは」
「確か私は、あの侍女の娘に起こされて……その後、もう一人の女に襲われ……いつの間にか意識が」

 アスターが記憶をたどりつつ話すと、リンディアの表情がみるみる固くなっていく。頬だけではなく、口角までもが強張っている。

「侍女の娘というのは、フィリーナ?」
「そんな名前だったか……記憶は怪しいのだがね……」
「急に王女様の侍女になった、あの女の子でしょー?」
「そうそう」

 横になったまま、アスターは頷く。

「それでー、もう一人の女っていうのは?」
「前にホテルで会った……あの女だよ。私が……ランプで殴った」

 アスターがそう述べると、リンディアの目つきが急激に鋭くなる。女性のそれから一変、まるで肉食獣のような目つきへと変貌した。

「やーっぱねー」

 リンディアの片側の口角が、くいっと持ち上がる。

「いーわ。その女、あたしが叩きのめしておいてやるわー」
「……相変わらず、血の気が多いね」
「ちょっと、何よそれ。あたしが可愛くないとでも言いたいのー?」
「いいや、そんなことを言えるはずがない。……可愛いよ、君は」

 リンディアは頬を赤らめ、全力でアスターをビンタした。

 ぱぁん、と乾いた音が響く。

「ふざけてんじゃないわよっ!」

 きょとんとした顔をするアスター。

「言っておくけどねー! あたしからすれば、アンタみたいなジジイ、どーでもいーんだから!」
「おや、心配してくれたのではなかったのかね?」
「そーんなわけ、ないでしょー!」

 恥じらいを隠すように、リンディアは鋭く放つ。そして、アスターに視線を合わせないまま、彼女はバッと立ち上がった。

「目が覚めたって、王女様に伝えてくるわー」
「そうかね」
「ちゃーんと起きてなさいよ!」

 そそくさと去ってゆくリンディア。

 その後ろ姿を眺めながらアスターが微笑んでいたことを、彼女は知らない。
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