イーダ・オルマリン 〜青き星、その王女の物語〜

四季

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119話 あの日々という幻影

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「母さん……?」
「そうです」
「一体、何の話?」
「王妃様は、貴女が幼い頃に亡くなられたのでしたよね」

 シュヴァルは、唇を私の耳へ寄せ、そっと述べる。

「えぇ、確か。よく覚えてはいないけれど」

 私の中には、母親の記憶がない。
 日常生活においてそういった話題が出ないというのもあり、これまで、母親の存在について考えたことはなかった。それが普通だった。
 けれど、よくよく考えてみれば、それはおかしなことなのかもしれない。

「……疑問に思ったことはないのですか? なぜ母親がいないのだろう、と」
「私が幼い頃に亡くなったと聞いているもの。敢えて『なぜ』とは思わないわ」

 シュヴァルの手に握られている拳銃の口は、まだ、私の首筋にひんやりした感触を与え続けている。

 彼が引き金を引けば、私の命は——そういう意味では、私の命は今、彼の手の中にあると言えよう。

「それはそれは。実に幸福なことですね。……親の仇が目の前にいるとも知らず」
「シュヴァル……もしかして、貴方が?」

 これまで心を隠し続けてきた彼が、自らの罪をこんなにもあっさりとばらしたりするものだろうか?

 いや、それはあり得ない。
 普通起こり得ないようなことだ。

 しかし、もし彼が勝ち誇ってかなり油断しているとしたら……うっかりばらしてしまうということも、考えられないことはない。

「そうです」
「……っ!」

 シュヴァルが機械的な声で発した言葉に、私は、思わず短い音を発してしまった。

 動揺しているのもあり、緊張しているのもあって、まともな言葉にはならなかった。今の私には、まともな言葉を発するような余裕はなかったのである。

「そして、次は貴女」

 背中に軽い膝蹴りを入れられた。
 そのせいで、背の中央辺りに鈍い痛みが広がる。

「イーダ王女。次は貴女に、消えていただきます」

 シュヴァルの声は冷たい。
 氷のような、金属のような、そんな声色だ。

「……本気、なのね」
「それはもちろん。このシュヴァル、冗談でこんなことをするほど馬鹿ではありません」

 そうだろうと思った。

 が、本音を言うなら、「冗談でしたー」と笑って言ってほしかった。
 そうすれば、今起こっていることのすべてが、一つのほろ苦い経験で済むから。

「貴女が大人しくしていれば、今すぐここで殺すようなことはしません。餌としての利用価値は十分にあるからです」
「利用価値がある、ですって? よく言うわ!」

 可愛がってくれとは言わない。大事に守ってくれとも言わない。けれど、「利用価値がある」なんて言い方をされるのは気に食わなかった。物のように扱われるのは不愉快だ。

「私が相手だから、簡単に勝てる気でいるのね。分からないではないわ、私は弱いもの」

 弱虫な私だって、時に怒りはする。

「でもね! 思い上がっているシュヴァルなんかに、そう易々と屈する気はないわよ!」

 はっきり言ってやった。

 するとシュヴァルは、首筋に当てていた銃口をこめかみまで移動させる。

 冷たい感触が皮膚上を動く。
 その感覚は、なかなか不気味なものだった。

「あまり生意気な口を利くなよ、イーダ・オルマリン……!」

 シュヴァルが私に向ける視線が変わった。

「生意気な口、ですって? それはこちらのセリフよ!」
「調子に乗るなよ! 女の分際で……!」

 彼が拳銃を握る手に力を加えたのが、視界の端に入る。

 ——今撃たれたらまずい。

 それが本心だ。

 怪我は何度かしたが、こめかみを撃たれた経験はない。だから、頭部を撃たれた時どうなってしまうかは分からない。が、とんでもないことになることは確かだろう。

 今この場所で動けなくなったりしたら、致命的だ。
 それだけは避けたいところである。

「あまり苛立たせないで下さいよ!」

 シュヴァルの指が、微かに動く。

 ——撃たれる。

 そう思った瞬間、脳内に映像が流れ込んできた。

 それは、従者との穏やかな日々。

 ベルンハルトとの運命的な出会いから始まって——ヘレナの葬儀にリンディアと参加したり、最初は敵として出会ったアスターが仲間になったり、みんな揃って視察に行ったり。

 望んで始まった関係ではなかったけれど。
 でもそれが、いつしか幸福となり、そして当たり前へと姿を変えて。

 ……ごめんなさい。

 私はもう、ここで終わるかもしれない。

 でも、これだけは言わせて。

 私は後悔はしていないわ。オルマリンの王女であれたことを、今は誇りに思っているの。


 ——ありがとう。


 こめかみの近くで、何か火花のようなものが散るのが見えた。
 きっと、シュヴァルの拳銃から放たれたものなのだろう。


 でも、痛みはなかった。
 死ぬ時って、案外痛くないのね。


 薄れてゆく、意識が。


 消えてゆく、すべてが。


 何もかも……。


 ……………………。




 闇の中、目を覚ます。

 瞼を持ち上げる。でも、ぼやけてしか見えない。

 頬に感じるのは、微かな風。
 その正体は分からない。

 分からないけれど——どこか優しげだ。

「……ょ」

 声が耳に入る。
 少し掠れた、乱雑な声。

 どことなく懐かしい。故郷に帰ったみたいな気分。

「……じょ!」

 徐々に近づいてくる。大きくなってゆく。けれど、言葉をきちんと聞き取ることは難しかった。前の方が特に聞き取りにくい。

「……なに?」

 唇を動かす。
 呼び掛けてくれている者に、意識があると伝えたかったから。

「……だれ?」

 意識がぼんやりしているせいか、視界もぼやけてしまっている。だから、黒い影が見えはするけれど、それが誰かまでは分からないのだ。

「……おねがい、もういちどいって?」

 この言葉は、ちゃんと届いているだろうか? 私の名を呼ぶ誰かに、聞こえているだろうか?

 そこは少し心配だ。

 でも、きっと大丈夫。
 呼び掛けてくれるような優しい人なら、私の声にも気づいてくれるはず。
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