奇跡の歌姫

四季

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60話「ビタリーの求歌」

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 突然のビタリーの出現に私は愕然とすることしかできなかった。

 だって、彼が現れる可能性なんて、まったく考えていなかったのだもの。
 数秒前までの私は、ビタリーのことなんてほぼ完全に忘れていたくらいだったのだ。そんな状態で彼の登場を想定するなんて、可能なわけがない。

「さぁ、歌を」
「聴きたいなー! お歌!」

 ビタリーに圧をかけられるだけでも、そこそこ、心理的にダメージを受けそうなもの。しかし今は、「歌え」と言ってきている者が二人もいる。しかも、女の子の方は無垢な瞳でこちらを見つめてきているのだ。なおさら、断りづらい空気になるではないか。

「わ……分かりました。では一曲だけ」

 そう宣言する私の右隣にリベルテは張り付いていた。
 彼は柔らかい表情をしている。だが、その双眸は、ビタリーをじっと捉えていた。明らかに警戒している人間の目だ。

 道端で歌うのは初。舞台上での歌唱は視線を浴びるので緊張するが、道端での歌唱には、また違った種類の緊張感があった。おかしなことをしている人というような視線を向けられるのではないかという不安が入り込んだ、複雑な心境に陥る緊張感だ。

 でも、そんなことを考えていても、何も始まらない。

 他者からの視線など、この際どうでもいい——そう思うように心がけ、私は息を吸う。

 まともに歌ったのは久々。伸びる声を出すのは心地よい。ただ、ホールで歌うのとは違って、声があまり響かない。周囲に大量の色々な物体があるからか、空中に浮かんだ声はすぐに吸収されて小さくなってしまう。

 それでも諦めず、腹の底から声を発する。
 そして奏でるのだ。旋律を。


 一曲歌い終えた時、拍手が起こった。気づけば周囲には人だかりができている。もちろん、舞台に立って歌った時よりかは、人の数も拍手の量も少ない。けれども、忙しそうな人たちの中にもわざわざ足を止めてくれた人がいるということは、私にとっては嬉しいことだった。そして、緊張感がようやく落ち着いてきた頃に、「可愛いー」「なんかいいー」などという声が聞こえてくる。それらの呑気な発言に、私は、いつになくホッとさせてもらった。

「お歌! 素敵!」

 最前列で聴いてくれていた女の子が駆け寄ってきて、満面の笑みで抱き着いてくる。

「あ、ありがとう……」
「どこでも歌ってくれるんだねー!」
「余裕があれば……」

 誰かと専属契約をしているわけではないから、歌うのは自由。どこでだって、誰のためにだって、私が歌おうと思いさえすれば歌える。

「やはり君の歌は興味深いね」
「……ありがとうございます」

 愛らしい少女に喜んでもらえたのは嬉しいが、ビタリーに「興味深い」と言われてもあまり嬉しくない。ウィクトルに褒めてもらうのとは、まったくもって別物。ビタリーには自分の思い通りにならない者に牙を剥く性質があると知っているから、評価してもらえても、素直には喜べないのだ。

「まぁ、今の歌でこの前のことは水に流すとしよう」
「助かります」

 集まってきていた人たちは徐々に解散していく。
 街中の人だかりはあっという間になくなった。

「容姿もそこそこ、歌は見事。これで忠実ささえあれば、完璧な理想の女なのだけどね」
「……では失礼します」

 ビタリーの理想の女性像など聞く気はない。そんなのはどうでもいいことだ。

 それより、この少女をどうにかせねばならない。
 母親とはぐれたのか? あるいは、親など最初からいないのか? その辺りはまだ尋ねることができておらず、どうなっているのか状況が分からない。まずはそこを知ることから始め、もし親がいるのなら、合流できるよう手伝わねば。

 私は少女を連れ、歩き出す。
 取り敢えずビタリーから離れるためである。

 リベルテは私の後を追ってきてくれる。彼は、私の思考をまだ何も知らないはずだが、それでも何も聞かず共に来てくれた。ビタリーから離れたい、という気持ちを、察してくれていたのかもしれない。


 時折振り返りビタリーが追ってきていないかを確認しつつ歩くことしばらく。
 大通りから一本外れた、人の気配の少ない道へたどり着いた。
 舗装された道を挟むのが背の高い建築物であることに変わりはない。だが、今いる通りは、どことなく薄暗かった。窓ガラスが光を反射し、道に僅かな光を注いでいる。けれど賑わいはなく。ほぼ誰もいないし、道の端に置かれたゴミ箱からは異臭が漂うばかりだ。

「ウタ様……この辺りは危険でございます。戻りませんか」
「えぇそうね。ここはさすがに危険そ——」

 言いかけた時だ。
 背後から人の足音が聞こえ、振り返ると、見知らぬ男が立っていた。

「女が釣れるとはな!」

 ゴーグルで目もとを隠した不審な男は、いきなりそんなことを言う。しかも大きな声で。
 直後、警戒心を剥き出しにしたリベルテが、私とゴーグル男の間に入った。
 私を護るよう前へ進んだリベルテを目にしたゴーグル男は、ぺろりと出した下で、自分の唇をねっとりと舐める。右の口角から、一筋、よだれが垂れていた。

「姉ちゃんだけならず嬢ちゃんも釣れたか。はは、オレァ嬢ちゃんの方が好みだ」
「失礼。男ですよ」
「ナァ!? ……お、男だって? フザケンナ! どう見ても可愛いだろうが!」
「よく言われます」

 最初、嬢ちゃんというのは女の子のことかと思ったのだが、それは違っていたようだ。男が嬢ちゃんと呼んだのは、どうやら、リベルテのことらしい。確かにリベルテは、髪はボブだし柔らかな顔立ちだし、中性的な印象を与える存在だ。しかし、さすがに、彼を嬢ちゃんと呼ぶという発想はなかった。初見の相手からすれば、男か女かなんてパッと分からないものなのかもしれないが。

「しっかし、上手くいったなぁ。まさか、こーんなあっさり釣れるとはな思わなかったぜ。なぁ? 餌」

 ゴーグル男は、怪しい笑みを唇に浮かべながら、誰かに話しかける——その対象は、私の傍に立っている女の子だった。

「え。どういうこと……」
「ごめんね、お姉ちゃん」

 私の歌にあんなに感動してくれた少女が、不審な男の味方だなんて。
 とても信じられない。

「貴女、彼の知り合いなの?」
「うん。ママはあの人に捕まってるから、言うこと聞かなくちゃいけないの。ごめんね」

 よりによって、こんな幼い子に裏切られるなんて。
 言葉が見つからない。

 もし彼女が言う母親の話が事実なのならば、何とかしたいと思わずにはいられない。母親のためにこんな幼い子が犠牲になるなんて、良いことではないから。けれど、今はもう、彼女の言葉を迷いなく信じることはできない。嘘をつかれて、それでも信じられるほど、私はお人好しではないのだ。

「ウタ様、ここを出ましょう」

 女の子に裏切られたことで呆然としていた私に、リベルテがそんな風に声をかけてきた。

「付き合うことはございません」
「で、でも……」
「申し訳ございません、今はウタ様のお言葉が理解できないのです。翻訳機がないので。……ひとまず、このまま脱出しましょう」

 迷いはあった。けれども、このままここにいたら危険な目に遭うことは避けられないだろうということは理解していたから、私は足を動かすことを選んだ。このような危険な地域からは、一刻も早く脱出せねばならない。
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