奇跡の歌姫

四季

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96話「ウィクトルの瞳」

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 フィルデラでの暮らしが幕開けた。
 自然豊かな美しい風景を有するその土地で迎える最初の朝は、生憎の雨。

「今日もまた雨ね、ウィクトル」
「そうだな」

 雨が降ると風景が霞んでしまって鮮明に見えない。それゆえ、美しい風景がある土地にいる時だからこそ、残念な気分になる。これが人工物ばかりの街中ならば、そこまで残念でもないのだが。
 ただ、髪のまとまりが良いところは、雨降りの良い点と言えるだろう。髪の毛一本一本がぱさつかないので、上手くまとまって、整った髪に見える。

 そんなことを考えていると、ノック音が耳に入ってきた。
 ソファに腰掛けていたウィクトルが扉を開けようと立ち上がろうとする。それを私は止めた。

「ウィクトルはそこにいて」
「なぜに?」
「怪我してるでしょ。下手に動かない方が良いわ」

 この土地でなら、訪ねてくるのが悪人ということもないだろう。ノックに応じるのが私であっても問題はないはずだ。

 はーい、と返事をしつつ、扉を開ける。
 扉の向こう側に立っていたのはアンヌだった。

「アンヌさん!」
「これはウタ殿。おはようございます」

 斜め掛け鞄を所持しているアンヌは、私の顔を見ると、丁寧に頭を下げてくれた。彼女だけに頭を下げさせるのも申し訳ないので、こちらも軽くお辞儀しておく。

「ウィクトル殿はいらっしゃいますか?」
「あ、はい」
「傷の様子を確認させていただこうかと思い、参りました」

 訪ねてきた理由を私に申告する必要なんてないはずなのだが、アンヌは敢えてそれを言った。

「どうぞどうぞ」
「それでは、失礼します」

 垂直に真っ直ぐ伸びた背筋。両足をほぼぴったり揃えたままの歩き方。それらは、彼女の人柄を表しているかのようだ。


「調子はいかがです?」

 アンヌはウィクトルに上衣を脱ぐよう促しつつ、問いを放つ。

「特に問題はない」
「ウィクトル殿はいつもそればかりですね」

 私は医療的な面では何かできるわけではないので、本来ここにいるべき人間ではないのだろう。ただ、アンヌが「いてもらって構わない」と言ってくれたので、私はまだ室内にいる。

「以前は死にかけていても仰っていましたね『問題はない』と」
「そうだったか……記憶にない」

 ウィクトルの髪をすべて体の前面側へやり、背中がすべて見える状態にする。それからアンヌは慣れた手つきで包帯を外していく。絡まりそうで眺めているこちらがハラハラするのだが、案外絡まることはない。無論、素人がやれば滅茶苦茶なことになるのかもしれないが。

「ところで、髪は切らないのですか? そろそろ邪魔では」
「切らない」
「何か理由でも?」
「そうだな……過去の自身を思い出したくないというのはあるかもしれない」

 アンヌは淡白に「そうですか」とだけ返した。

 そして静寂が訪れる。僅かに聞こえるのは雨音。それ以外に音は聞こえてこない。アンヌは黙々と手を動かし、ウィクトルはじっと佇んでいる。そんな静かな空間では、私も口を開けない。口を開いても叱責はされないだろうが。

 音のない時を生きているうちに、気づけば二十分ほどが経過していた。
 ウィクトルの傷の治療は終了したようだ。

「今日のところはこれで終わりです」
「そうか。助かった」
「何か異変があればいつでも仰って下さい。それでは失礼します」

 アンヌは真っ直ぐ前だけを見つめて、扉に向かって歩いていく。が、私の前を通る時、数秒だけ私を見る。そして「お邪魔しました」と言ってくれた。唐突なことだったので、私は会釈することだけしかできずじまいだ。

「怪我、治りそうなの? ウィクトル」

 彼女が出ていってから、私は何となく話を振る。

「もちろん。もうかなり治っている」
「それなら良いのだけど……無理しちゃ駄目よ?」
「分かっている」

 私はその場で立ち上がり、ウィクトルが座っているソファの方へと移動。さりげなく彼の隣に腰を下ろす。

「……これから、どうするつもり?」

 元々二人掛け用のソファだ。それゆえ、二人で座ってもそこまで狭くはない造りになっている。だが、それでも、こうして隣に座ると近さを感じることは事実。

「どうする、か。……ビタリー側の動きによるだろう、それは」
「ごめんなさいね、ウィクトル。ビタリーと敵対しなくてはならないような状況にしてしまって」

 ウィクトルはきちんと話し相手をしてくれる。
 それでいて、一切私に触れはしない。
 やたら触れられるのは厄介だ、このくらいがちょうどいい。そう思いつつも、心なしか残念さを抱いている部分もあるような気もする。

「なぜ? 君は関係ないだろう」
「でも……勝手に脱出してきてしまったでしょ。そのせいで、関係が余計に悪くなったかもしれないわ」

 私の勝手な脱出でウィクトルの立場が悪くなった可能性はゼロではない。

「君は関係ない。元々私は嫌われていた」
「貴方は優しいのね、私を責めないの」
「必要がない。それに……君も私を責めなかっただろう、母親を殺したのが私だと知った時も」

 ウィクトルの瞳はどこか遠くを見つめているようだった。
 彼は何を見ているのだろう。それが分かれば、もっと近くなれるのだろうか。もっとも、彼の眼球を私に入れでもしない限り、分かりようがないけれど。

「……もし、私に今の地位がなくなったとしても、君は今と変わらず私の傍にいてくれるか」

 雨のせいだろうか、今日のウィクトルは妙に悲しそうに見える。

「キエルの軍人でなくなったら、ということ?」
「そうだ」
「それは、もちろんよ。貴方であることに変わりはないもの」

 衣服が擦れ合いそうなほど近くにいて、それでも、彼の心のすべてを覗き見ることはできない。目に見えぬ存在である心には、この瞬間でさえ手が届かない。もしかしたら、手が届かないままの方が良いのかもしれないが。ただ、こうして近くで見つめ合う時だけは、その瞳の奥に触れたくなる。

「どうしてそんなことを聞くの?」
「いや、気にしないでくれ。深い意味はない」
「帝国軍を辞めたいの?」
「……いずれその時が来るかもしれない、というだけの話だ」

 人生なんて曖昧な綱渡りのようなもの。安定しているように見えてもそれがまやかしであることは多々あって、ある日突然道の先がなくなっているということだって十分に考えられる。だからこそ、いつか来る道の先が欠けた日に、備えておかねばならないのかもしれない。

「そうね。ビタリーが皇帝になったら、また環境も変わるでしょうし。まぁ、それはまだずっと先のことだろうけど……いつかは来るわね、その日も」

 私もまた、今のままではいられない日が来るのだろうか。変わらねばならない日が、私にも訪れるのだろうか。

 だとしたら、今から不安だ。

 でも、不安だからと震えているわけにもいかないのだろう。
 その時が来たら、嫌でも別の道へ。飛び移らなければ、谷底へ落ちて、迎えるのは死。それを避けるためには、覚悟して変わらなくては。

 けれど、今はまだ想像できない——運命が変わる瞬間のことなんて。
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