奇跡の歌姫

四季

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156話「ウタの一時の協力という選択」

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 自動運転車に乗ってウィクトルたちがいるところへ帰ろうとしている最中、突如奇妙な現象に巻き込まれた。そして、気づけば見たことのない地に。谷底のような不気味な場所に移動していた。

 しかも、付近にはビタリーが倒れていて。

 私やウィクトルに危害を加えてきた彼とはもう関わりたくなかったけれど、一人で谷から脱出することは難しそうなので、話しかけてしまった。

 声掛けによって目を覚ましたビタリーは、今のところ攻撃してきそうな様子はない。
 でも、まだ油断はできない。完全に安心するにはまだ早いだろう。途中で豹変する可能性だって低くはないのだから。

「怪しい刺客と交戦はしたかな」

 ビタリーはそんなことを言いながら体を起こしてくる。だが、その途中に、唐突に右脇腹を締めた。顔面には苦痛の色が滲む。

「どうしたの!?」

 直前まで真顔だったビタリーが突然苦痛の表情を浮かべたので驚いた。
 反射的に手が伸びて、彼の体に触れそうになったが、その動作はぎりぎりのところで止める。許可なく触れて怒られたら困るから。

「……いや、何でもないよ」

 ビタリーは、僅かに顎を引きつつ、眼球だけをやや上向けて私を見た。

「何でもない人の顔じゃないわ……」
「……鋭いね」
「鋭いも何も。このくらい見ていれば分かるわ」

 彼は、自分がここまで分かりやすい顔をしているとは気づいていないのかもしれない。自分のことというのは案外分からなかったりするものだ。

「怪我してるの?」
「僕にもよく分からない。気づかないうちに打っていたのか……」
「打ち身? 脇腹?」
「そうだね。そんな感じだと思うよ」

 少し間を空けて、ビタリーはイタズラっ子のような笑みを浮かべる。

「それにしても、案外普通に話すんだね」
「……どういう意味?」
「もう少し恐れているかと思ったよ」

 恐れている、か。

 それもまんざら間違いではない。

 今でもビタリーは苦手だ。どんなことを仕掛けてくるか分からないところが、底の見えない沼みたいで、関われば関わるほど不安が生まれてしまうから。

「貴方のことは好きじゃないわ。今も」
「随分な言いぶりだね」
「ごめんなさい。でも、貴方だって知っていたでしょう」
「まぁ……そうだね。好かれているとはちっとも思っていなかったよ」

 ビタリーは腰元の拳銃を確認しつつ言葉を発する。
 いきなり攻撃されたりしないだろうか。そこだけが心配だ。

「でも、今は関係ないわ。今はもっと別にすべきことがあるんだもの」
「ここからの脱出」
「そうね。正解よ。分かっているじゃない」

 その後、私は彼とここに来るに至った経緯について話した。互いに己のことを打ち明け、状況を整理する。その結果、『アナシエアの術を受けてここへ飛ばされたのではないか』という話にまとまった。

「巻き込んだことは申し訳ないけど、運が悪かったと諦めることだね」
「……えぇ。文句を言っても仕方ないわ」

 ビタリーと二人きりになってしまったなんて知ったら、ウィクトルはどんな顔をするだろう……。

「見た感じここは谷のようだから、上がらなくてはならないね」
「同感。でもどうするの? 斜面を登る?」
「いや、それは難しいだろうね。僕も君もロッククライマーではない」

 今や空は遥か上にある。
 普段ですら手の届かない場所にある空だが、今は、虚しくなるほど遠い。

「じゃあ道を探す?」

 もしかしたら地上へ戻る道があるかもしれない。

「それしかなさそうかな」
「今は協力するわ」
「……共に来る、と?」
「えぇ。二人の方が退屈しないはずよ」

 ビタリーが危害を加えてこないという保証はどこにもない。それに、もし仮に私に敵意を抱いていないとしても、ウィクトルを釣るための餌に私を使う可能性はおおいにある。そういう意味では、彼と二人で行動するのはリスクが高いと言えるかもしれない。

 けれど、私一人でできることなんて限られている。

 このまま永遠に谷底にいたら、ここが最期の地になりかねない——それだけは何としても避けたい。

「面白いことを言うね、君は」
「光栄だわ」

 生き延びるためなら、何でも利用しなくては。


 ビタリーは立ち上がる。右脇腹はまだ痛むようで、時折顔をしかめていた。けれども歩けないほどの激痛ではないようだ。彼は今まさに自ら歩き出そうとしている。
 私は負傷していない。掠り傷一つさえ今のところ発見されていないのだから、かなりの幸運と言えるだろう。周囲の風景の不気味さに心理的に圧されている部分はあるが、この状態であれば進めないことはない。

 やがて、私とビタリーは歩き出す。
 ビタリーが前を行き、私はその後を追うように足を動かしていく。

「どこに向かっているの? 滅茶苦茶?」
「……さりげなく失礼だね」
「じゃあ、根拠があって歩いているというの?」
「……キエルとファルシエラの間にある深い森には言い伝えがあってね」

 私は少し歩く速度を速め、ビタリーの横に並ぶ。

「迷った時は風上へ進むと良い。そう言われているよ」
「本当なの?」
「知らない。試す機会もなかったからね」

 確かにビタリーは風上へと歩いていっている。
 だが、今一番重要なのは、ビタリーの行動ではない。その言い伝えが事実なのかどうかだ。
 その言い伝えが正しいものであるなら問題ない。だが、もし間違ったものであるとしたら、無駄に歩くことにもなりかねない。体力だけを消耗して結局ここから抜け出せない、なんてことも、起こらないとは言えないのだ。

「へぇ、そうなの。……まぁそうよね。貴方みたいに大事にされている人が迷子になんてなるわけないものね」

 直後、ビタリーは微かに俯いた。
 様子がおかしい。

「……どうかしたの?」

 いつもは全身から溢れている自信が今はあまり感じられない。

「いや、べつに」
「話なら聞くわよ」
「要らない」
「そう? まぁ無理にとは言わないけど」

 谷底に落ちて弱気になっている?

 でも、ビタリーはただの青年ではない。皇帝の座を戦いで奪ったくらいの人だ、普通の人間と同じような精神状態になるとは思えない。
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