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157話「ビタリーの生まれ」
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突然の出来事。そして未来が定かでない現状。頼れる者は最大の敵であるビタリーしかおらず、彼と二人で行動しているという状況。
どこからどう考えても危険としか思えない。
こんな方法を選択したことは、もはや馬鹿の域を超えているかもしれない。
けれど私はこの選択肢を選んだ。その訳は、この選択肢を選ぶことが生存率を高めるのではないかと考えたからだ。
心強い仲間がいるなら、あるいは無関係な者がいるなら、ビタリーと行動を共にする必要なんてなかった。
だが現実は厳しくて。
自分以外の人間はビタリーしかいない、という状況におかれてしまった。
だから私はこの選択肢を選んだ。けれども、それを後悔するつもりはない。すべては無事この谷から抜けるため。緊急時においては、リスクのない道を選ぶことだけが最善ではない。
「ここはどこなのかしら……」
この星にはまだ、私の知らない土地が広がっている。それは当然のことだ。全部を理解できている、なんて考えているわけではない。だが、それでも、このような深い谷があることは想像してみなかった。
「何独り言を言っているんだい? 怪しい娘のようだよ」
「そうね、変だわ。ごめんなさい」
正面から風が吹いてくる。前髪が乱れ、しかも顔にかかってきて、さりげなく不愉快だ。段々目が痒くなりそうである。一回二回なら問題はないが、長時間続くと不快感を抱かずにはいられない。
「歩いている間に少し話をしても良いかしら」
「……何だい?」
風に煽られる前髪を手で直しつつ、私はビタリーと話す。
緊急時だからか、彼が相手でも案外楽に話すことができた。自然に口から言葉が出てくる。
「貴方のことについて、聞かせてもらっても構わないかしら」
「……僕のこと?」
ビタリーが怪我しているのは脇腹だけではなかったようだ。右脚も負傷しているようである。
彼の歩き方を見ていて気づいたのだ。
最初の数分は目立たなかったのだが、歩き続けているうちに、段々歩き方に異変が出てきた。心なしか引きずるような歩き方になっている。歩く際のバランスが悪い。
「ならこちらからも質問をするよ」
「答えられる保証はないわよ」
「構わない。君とウィクトルは、なぜ、イヴァンの下から逃げ出したんだい」
こちらから問いを投げかけるつもりが、いつの間にやら、こちらが問われる側になってしまっていた。
「選びたい道を選んだ。それだけよ」
取り敢えず一番簡潔な答えを述べておく。
賢くない私にはどうやっても難解な答えは導き出せないから。
「あの男は、イヴァンにはそれなりに忠誠を誓っているようだったけどね?」
「そうね。確かに、ウィクトルはイヴァンに従っていたわ。でも……妄信していたわけじゃない」
疑うこともせずただひたすら忠実な部下であり続けることと、やむを得ず単に従っていること、その二つには大きな違いがある。ウィクトルが前者であったとしたら、きっと、あの時私を殺したのだろう。
「……確かに、あの男は読めないところがあるね」
それは貴方でしょう? と言いたくなるのを、私は堪えた。
せっかく険悪になっていないのだから、敢えて刺激するようなことを言うべきではない。
「答えたわ。もうこちらも質問して良いわね?」
「好きにするといいよ」
ビタリーは悪魔。血も涙もない、人の姿をしているだけの化け物。かつてはそんな風に思っていた——否、今もその捉え方が変わったわけではない。それでも、言語があれば意志疎通を図ることはできるかもしれない。そんな僅かな希望を胸に、こうして言葉を交わしている。
「貴方の生まれについて聞かせて?」
私の口から問いが出た瞬間、ビタリーは足をぴたりと止めた。
彼はその元々細い目で驚いたようにこちらを凝視する。
「……なぜ?」
そんな言葉が彼の口からこぼれるのに、時間はそれほど必要ではなかった。
「言いふらす気はないわ。誰にも言わないと誓うことだってできる」
「そうじゃない。僕の生まれを聞く理由を尋ねているんだ」
「純粋に興味があるから、それだけよ。それ以上でもそれ以下でもない。単なる興味からの問いだわ」
第三者がいるところでは聞けない。
機会のない問いだからこそ、今こうして発したのだ。
「それと。貴方とは何度もあったけど、貴方について聞いたことはあまりなかったなと思って」
視界の端で、葉が一枚地面に落ちた。
「……なるほど。分かった。いいよ、話そう」
「ありがとう」
「いや、礼を言われるほどのことではないよ」
ビタリーは再び歩き出す。私もそれに合わせて足を動かし始めた。
止まっていた時計の針が動き出したかのようだ。
それから私は、彼自身から彼のことについて聞いた。
イヴァンの父親には二人の女がいたという。
一人はイヴァンを生んだ正式な妃。皇帝の妻という位に実際に座っていた女性。そして、もう一人は、二人目の妻のような存在の女性。その女性は、身分が高くなく正式な妻としては迎え入れられなかったため、妻ではない微妙な位置に据えられていたらしい。
その女性が生んだ二人目の子が、ビタリーの父親にあたる人だそうだ。
いわば、ビタリーは二番手だった女性の孫と言えよう。
「父は厄介な人でね、不機嫌になるとすぐに母に当たり散らすような人だったよ。少し気に入らないことがあればギャーギャーと喚き、酒を飲んでは暴れ、とにかく愚か者だった」
ビタリーには兄がいて、その兄は父親に気に入られていた。だが、兄も年を取るにつれ段々父親に似てきて、しまいには母親に暴力的な接し方をするようになったという。
「だから、二人とも僕が消した」
「……え」
「躊躇いはなかったよ。なんせ、僕を可愛がってくれたのは母だけだったからね。父も兄も、『女みたい』だの何だの言って、いつも僕を嫌っていた。そんな輩を消し去るんだから、躊躇なんてあるわけがなかった」
いや、どんな嫌な奴が相手でも殺めることには躊躇するだろう。
そんなことを思ったが言わなかった。
「でも予想外だったのは、母がショックを受けたこと。あんな乱雑に扱われてきたのだから、『消えてせいせいする』と言ってくれると信じていたんだけど、母は予想以上に落ち込んだ。僕が殺したとは知らなかったにもかかわらず、ね」
正直、ここまで色々聞かせてもらえるとは思わなかったので、少し戸惑っている。
どこからどう考えても危険としか思えない。
こんな方法を選択したことは、もはや馬鹿の域を超えているかもしれない。
けれど私はこの選択肢を選んだ。その訳は、この選択肢を選ぶことが生存率を高めるのではないかと考えたからだ。
心強い仲間がいるなら、あるいは無関係な者がいるなら、ビタリーと行動を共にする必要なんてなかった。
だが現実は厳しくて。
自分以外の人間はビタリーしかいない、という状況におかれてしまった。
だから私はこの選択肢を選んだ。けれども、それを後悔するつもりはない。すべては無事この谷から抜けるため。緊急時においては、リスクのない道を選ぶことだけが最善ではない。
「ここはどこなのかしら……」
この星にはまだ、私の知らない土地が広がっている。それは当然のことだ。全部を理解できている、なんて考えているわけではない。だが、それでも、このような深い谷があることは想像してみなかった。
「何独り言を言っているんだい? 怪しい娘のようだよ」
「そうね、変だわ。ごめんなさい」
正面から風が吹いてくる。前髪が乱れ、しかも顔にかかってきて、さりげなく不愉快だ。段々目が痒くなりそうである。一回二回なら問題はないが、長時間続くと不快感を抱かずにはいられない。
「歩いている間に少し話をしても良いかしら」
「……何だい?」
風に煽られる前髪を手で直しつつ、私はビタリーと話す。
緊急時だからか、彼が相手でも案外楽に話すことができた。自然に口から言葉が出てくる。
「貴方のことについて、聞かせてもらっても構わないかしら」
「……僕のこと?」
ビタリーが怪我しているのは脇腹だけではなかったようだ。右脚も負傷しているようである。
彼の歩き方を見ていて気づいたのだ。
最初の数分は目立たなかったのだが、歩き続けているうちに、段々歩き方に異変が出てきた。心なしか引きずるような歩き方になっている。歩く際のバランスが悪い。
「ならこちらからも質問をするよ」
「答えられる保証はないわよ」
「構わない。君とウィクトルは、なぜ、イヴァンの下から逃げ出したんだい」
こちらから問いを投げかけるつもりが、いつの間にやら、こちらが問われる側になってしまっていた。
「選びたい道を選んだ。それだけよ」
取り敢えず一番簡潔な答えを述べておく。
賢くない私にはどうやっても難解な答えは導き出せないから。
「あの男は、イヴァンにはそれなりに忠誠を誓っているようだったけどね?」
「そうね。確かに、ウィクトルはイヴァンに従っていたわ。でも……妄信していたわけじゃない」
疑うこともせずただひたすら忠実な部下であり続けることと、やむを得ず単に従っていること、その二つには大きな違いがある。ウィクトルが前者であったとしたら、きっと、あの時私を殺したのだろう。
「……確かに、あの男は読めないところがあるね」
それは貴方でしょう? と言いたくなるのを、私は堪えた。
せっかく険悪になっていないのだから、敢えて刺激するようなことを言うべきではない。
「答えたわ。もうこちらも質問して良いわね?」
「好きにするといいよ」
ビタリーは悪魔。血も涙もない、人の姿をしているだけの化け物。かつてはそんな風に思っていた——否、今もその捉え方が変わったわけではない。それでも、言語があれば意志疎通を図ることはできるかもしれない。そんな僅かな希望を胸に、こうして言葉を交わしている。
「貴方の生まれについて聞かせて?」
私の口から問いが出た瞬間、ビタリーは足をぴたりと止めた。
彼はその元々細い目で驚いたようにこちらを凝視する。
「……なぜ?」
そんな言葉が彼の口からこぼれるのに、時間はそれほど必要ではなかった。
「言いふらす気はないわ。誰にも言わないと誓うことだってできる」
「そうじゃない。僕の生まれを聞く理由を尋ねているんだ」
「純粋に興味があるから、それだけよ。それ以上でもそれ以下でもない。単なる興味からの問いだわ」
第三者がいるところでは聞けない。
機会のない問いだからこそ、今こうして発したのだ。
「それと。貴方とは何度もあったけど、貴方について聞いたことはあまりなかったなと思って」
視界の端で、葉が一枚地面に落ちた。
「……なるほど。分かった。いいよ、話そう」
「ありがとう」
「いや、礼を言われるほどのことではないよ」
ビタリーは再び歩き出す。私もそれに合わせて足を動かし始めた。
止まっていた時計の針が動き出したかのようだ。
それから私は、彼自身から彼のことについて聞いた。
イヴァンの父親には二人の女がいたという。
一人はイヴァンを生んだ正式な妃。皇帝の妻という位に実際に座っていた女性。そして、もう一人は、二人目の妻のような存在の女性。その女性は、身分が高くなく正式な妻としては迎え入れられなかったため、妻ではない微妙な位置に据えられていたらしい。
その女性が生んだ二人目の子が、ビタリーの父親にあたる人だそうだ。
いわば、ビタリーは二番手だった女性の孫と言えよう。
「父は厄介な人でね、不機嫌になるとすぐに母に当たり散らすような人だったよ。少し気に入らないことがあればギャーギャーと喚き、酒を飲んでは暴れ、とにかく愚か者だった」
ビタリーには兄がいて、その兄は父親に気に入られていた。だが、兄も年を取るにつれ段々父親に似てきて、しまいには母親に暴力的な接し方をするようになったという。
「だから、二人とも僕が消した」
「……え」
「躊躇いはなかったよ。なんせ、僕を可愛がってくれたのは母だけだったからね。父も兄も、『女みたい』だの何だの言って、いつも僕を嫌っていた。そんな輩を消し去るんだから、躊躇なんてあるわけがなかった」
いや、どんな嫌な奴が相手でも殺めることには躊躇するだろう。
そんなことを思ったが言わなかった。
「でも予想外だったのは、母がショックを受けたこと。あんな乱雑に扱われてきたのだから、『消えてせいせいする』と言ってくれると信じていたんだけど、母は予想以上に落ち込んだ。僕が殺したとは知らなかったにもかかわらず、ね」
正直、ここまで色々聞かせてもらえるとは思わなかったので、少し戸惑っている。
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