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168話「ウィクトルの心境とウタの新境地」
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舞台に立って、歌い、世界を織り上げる。
それがどういうことか、今の私にはまだ、よく分からない。
けれども、この歌を良い方向に使えるのだとしたら、きっと挑んでみる価値はあるのだろう。
人の前に立つことに理由など要らない。私の歌が必要とされているなら、どんな形だとしても、歌う理由になり得る。たとえそれが、誰かの夢の一部に過ぎないとしても。
一度は帝国を捨て、逃げ出して、そうやってこの平穏を手にした。
けれども私は、歌うためなら——。
「私は反対だ。あのような怪しい者に力を貸す必要はないと考える」
ミソカニと会って話をした帰り道、ウィクトルははっきりと意見を述べた。
石畳の地面は冷たく、靴を履いていても足の裏にひんやりとした感覚がある。ただ歩いているだけだが、舗装されていない砂利道や土の道とはまったく違う感覚。固く閉ざされた城門を目にした時のような気分になる。
「怪しいって……まだ言うのね」
「あぁ、私の考えは変わっていないからな」
私はミソカニを信頼している。初対面の時はうさんくささも感じはしたけれど、今はもう彼をうさんくさいとは考えていない。何度か顔を合わせ、話をしたからこそ、彼は詐欺師ではないと確信できる。
「やつは帝国の人間だ。刺客という可能性もゼロではない」
「……そんなに疑っているの?」
「数回話しただけの者を信じられるほど、私は純真無垢ではない」
「……まぁ、そうよね」
もしかしたら、私が人を信じやすいだけなのかもしれない。
皆が私と同じ感覚の持ち主でないことは、私だって知っている。だから、私とは違う意見を述べるウィクトルを悪と呼ぼうとは思わない。ただ、共感し合えない切なさは確かにあるけれど。
「ウィクトルみたいな人生だったら、私もそうなったかもしれないわ」
「……どういう意味だ?」
「想像してみたの。もし私の人生が貴方のような人生だったら、どんな風に考えただろうって。そうしたら、少し分かった気がしたわ。貴方がすぐに人を信じない理由が」
足は動かし続けたまま、ほんの少し顎を持ち上げて空を見る。
果てしなく続く空に、白い雲が滲み、全体を見ると水彩画のような空になっていた。
翼があればあの空を飛べたのだろうか、なんてふと考えて、馬鹿ね、と心の奥で呟く。そんな絵本みたいな夢は、何も成さない。
「信じない理由……難しい話だ。私にはよく分からない」
「いいの、分からなくて」
するとウィクトルは戸惑ったような顔をする。
「でもね、ウィクトル。私はこの歌を多くの人に聴いてほしい。今はそう思っているの。だから、ミソカニさんに協力するわ」
勝手なことばかり言う、と幻滅されるかもしれない——そういう不安がなかったわけではない。が、それでも己の心を偽ることはしたくなかったから、本当の気持ちを口にした。
一時的に心を偽ることは簡単だ。
けれども、作られた言葉はあくまで一時的なもの。それが本物になることはない。
嘘の仮面をつけ、嘘の言葉を発しても、きっと長続きしないだろう。そう思うから、シンプルに、気持ちと選択を述べる。結局私にはそれしかできない。
「そうか。決意は固いのだな」
「えぇ、決めたわ」
「君の歌が有名になるのは、私とて不愉快なことではない。ただ……くれぐれも気をつけてくれ」
そう言った直後、ウィクトルはそっと目を伏せた。
「どうか約束してほしい。無理はしない、と」
ウィクトルの表情が変わったことに違和感を覚え、彼の顔へ視線を向ける。すると、それを読んでいたかのように、彼は目を開いてこちらを見てきた。罠だったのだろうか、という疑問が湧いたのはともかくとして。こんなにもしっかりと目が合うのは久々な気がする。
石畳の無機質な感触さえ、今は心地よいもののように思えてきた。
頬を撫でてゆく微風さえ今は愛おしい。
「そ、そうね! 気をつけるわ!」
いざ目が合ってしまうと気恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまう。しかも、それだけではなく、発した声も妙な感じにうわずってしまう。歌う時には自由に操れる声も、今は上手く操ることができない。
「どうした? ぎこちないな」
何の前触れもなく吹いた風に髪を揺らされていると、ウィクトルがそんな風に声をかけてきた。
「……変だったかしら?」
「なぜ目を逸らしたのかが気になってな」
一番聞かれたくないところを聞かれて、内心「面倒臭い」と思ってしまった。
そんなことを思ってはいけないと思いつつも、思考というのはなかなか変えられない。
「何だか恥ずかしくて」
「恥ずかしい? 何だそれは」
説明させないでよ! なおさら恥ずかしいじゃない!
……そう叫びたい気分。
「見つめ合うのにはまだ慣れないの」
「視線を合わせ過ぎたか?」
「そういうこと! ……べつに、ウィクトルが悪いわけではないけれど」
少しして、再び彼の方へと視線を戻すと、彼が微笑んでくれていることに気づいた。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
特別な人の微笑みは、一種の魔法のようなもの。新芽に水を注ぐように、固まった雪を陽が溶かすように、私の胸に影響を与える。世ではそれを何と呼ぶのか、それは知らない。けれども、特別なものであることに変わりはないから、特別なものとして大事にしたい。
それからもミソカニと私の交流は継続した。
初期の頃は彼のことを怪しみ信頼できないと言っていたウィクトルも、徐々に馴染んで、ついにはミソカニに関する文句を言わないようになった。
ミソカニの夢、その第一歩は、ファルシエラ国内で公演を行うこと。その達成のため、私は積極的に協力していく。
私はただの歌い手であって演劇や芸術に関しては詳しくないので、サポートを行えるほどの知識も能力もない。ただ、ミソカニの夢を叶えるためにできることを、小さなことから進めていくことはできる。だから、雑用と呼んでも差し支えないような手伝いを、一生懸命行った。
それはいつの間にか、一つの生き甲斐となる。
敵から逃げるだけの人生だった。敵に見つからないよう陰に潜むだけの人生だった。そんな私の暮らしに潤いを与えてくれたのは、彼に協力するという行為で。細やかな仕事に励むことが、私に元気をくれたのだ。
日を重ねるごとに、目標が目に見えてくる。
その感覚は新鮮だった。
ビタリーがまた襲ってきたら、などという不安もないわけではないが、その不安も忙しさが掻き消してくれる。
それがどういうことか、今の私にはまだ、よく分からない。
けれども、この歌を良い方向に使えるのだとしたら、きっと挑んでみる価値はあるのだろう。
人の前に立つことに理由など要らない。私の歌が必要とされているなら、どんな形だとしても、歌う理由になり得る。たとえそれが、誰かの夢の一部に過ぎないとしても。
一度は帝国を捨て、逃げ出して、そうやってこの平穏を手にした。
けれども私は、歌うためなら——。
「私は反対だ。あのような怪しい者に力を貸す必要はないと考える」
ミソカニと会って話をした帰り道、ウィクトルははっきりと意見を述べた。
石畳の地面は冷たく、靴を履いていても足の裏にひんやりとした感覚がある。ただ歩いているだけだが、舗装されていない砂利道や土の道とはまったく違う感覚。固く閉ざされた城門を目にした時のような気分になる。
「怪しいって……まだ言うのね」
「あぁ、私の考えは変わっていないからな」
私はミソカニを信頼している。初対面の時はうさんくささも感じはしたけれど、今はもう彼をうさんくさいとは考えていない。何度か顔を合わせ、話をしたからこそ、彼は詐欺師ではないと確信できる。
「やつは帝国の人間だ。刺客という可能性もゼロではない」
「……そんなに疑っているの?」
「数回話しただけの者を信じられるほど、私は純真無垢ではない」
「……まぁ、そうよね」
もしかしたら、私が人を信じやすいだけなのかもしれない。
皆が私と同じ感覚の持ち主でないことは、私だって知っている。だから、私とは違う意見を述べるウィクトルを悪と呼ぼうとは思わない。ただ、共感し合えない切なさは確かにあるけれど。
「ウィクトルみたいな人生だったら、私もそうなったかもしれないわ」
「……どういう意味だ?」
「想像してみたの。もし私の人生が貴方のような人生だったら、どんな風に考えただろうって。そうしたら、少し分かった気がしたわ。貴方がすぐに人を信じない理由が」
足は動かし続けたまま、ほんの少し顎を持ち上げて空を見る。
果てしなく続く空に、白い雲が滲み、全体を見ると水彩画のような空になっていた。
翼があればあの空を飛べたのだろうか、なんてふと考えて、馬鹿ね、と心の奥で呟く。そんな絵本みたいな夢は、何も成さない。
「信じない理由……難しい話だ。私にはよく分からない」
「いいの、分からなくて」
するとウィクトルは戸惑ったような顔をする。
「でもね、ウィクトル。私はこの歌を多くの人に聴いてほしい。今はそう思っているの。だから、ミソカニさんに協力するわ」
勝手なことばかり言う、と幻滅されるかもしれない——そういう不安がなかったわけではない。が、それでも己の心を偽ることはしたくなかったから、本当の気持ちを口にした。
一時的に心を偽ることは簡単だ。
けれども、作られた言葉はあくまで一時的なもの。それが本物になることはない。
嘘の仮面をつけ、嘘の言葉を発しても、きっと長続きしないだろう。そう思うから、シンプルに、気持ちと選択を述べる。結局私にはそれしかできない。
「そうか。決意は固いのだな」
「えぇ、決めたわ」
「君の歌が有名になるのは、私とて不愉快なことではない。ただ……くれぐれも気をつけてくれ」
そう言った直後、ウィクトルはそっと目を伏せた。
「どうか約束してほしい。無理はしない、と」
ウィクトルの表情が変わったことに違和感を覚え、彼の顔へ視線を向ける。すると、それを読んでいたかのように、彼は目を開いてこちらを見てきた。罠だったのだろうか、という疑問が湧いたのはともかくとして。こんなにもしっかりと目が合うのは久々な気がする。
石畳の無機質な感触さえ、今は心地よいもののように思えてきた。
頬を撫でてゆく微風さえ今は愛おしい。
「そ、そうね! 気をつけるわ!」
いざ目が合ってしまうと気恥ずかしくて、つい目を逸らしてしまう。しかも、それだけではなく、発した声も妙な感じにうわずってしまう。歌う時には自由に操れる声も、今は上手く操ることができない。
「どうした? ぎこちないな」
何の前触れもなく吹いた風に髪を揺らされていると、ウィクトルがそんな風に声をかけてきた。
「……変だったかしら?」
「なぜ目を逸らしたのかが気になってな」
一番聞かれたくないところを聞かれて、内心「面倒臭い」と思ってしまった。
そんなことを思ってはいけないと思いつつも、思考というのはなかなか変えられない。
「何だか恥ずかしくて」
「恥ずかしい? 何だそれは」
説明させないでよ! なおさら恥ずかしいじゃない!
……そう叫びたい気分。
「見つめ合うのにはまだ慣れないの」
「視線を合わせ過ぎたか?」
「そういうこと! ……べつに、ウィクトルが悪いわけではないけれど」
少しして、再び彼の方へと視線を戻すと、彼が微笑んでくれていることに気づいた。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
特別な人の微笑みは、一種の魔法のようなもの。新芽に水を注ぐように、固まった雪を陽が溶かすように、私の胸に影響を与える。世ではそれを何と呼ぶのか、それは知らない。けれども、特別なものであることに変わりはないから、特別なものとして大事にしたい。
それからもミソカニと私の交流は継続した。
初期の頃は彼のことを怪しみ信頼できないと言っていたウィクトルも、徐々に馴染んで、ついにはミソカニに関する文句を言わないようになった。
ミソカニの夢、その第一歩は、ファルシエラ国内で公演を行うこと。その達成のため、私は積極的に協力していく。
私はただの歌い手であって演劇や芸術に関しては詳しくないので、サポートを行えるほどの知識も能力もない。ただ、ミソカニの夢を叶えるためにできることを、小さなことから進めていくことはできる。だから、雑用と呼んでも差し支えないような手伝いを、一生懸命行った。
それはいつの間にか、一つの生き甲斐となる。
敵から逃げるだけの人生だった。敵に見つからないよう陰に潜むだけの人生だった。そんな私の暮らしに潤いを与えてくれたのは、彼に協力するという行為で。細やかな仕事に励むことが、私に元気をくれたのだ。
日を重ねるごとに、目標が目に見えてくる。
その感覚は新鮮だった。
ビタリーがまた襲ってきたら、などという不安もないわけではないが、その不安も忙しさが掻き消してくれる。
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