MELODIST!!

すなねこ

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#071 Pregando Ⅱ

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広州市・42歳男性「出世払いってのは支払う方が偉くなった時に…って話だろ?貰う側が出世しないと支払われないってのはちょっとズルくないかな?こういうの何払いって言うんだろ…出世させ払い?単純にツケかな」


…………………………………………………………………………………





 職員室に駆け込んで来た一人の少年。落ち着かない様子で近くを通りかかる職員に声を掛けようと手を伸ばすが、すぐに後退りしてしまう。何か言いたげな様子であったが、どこか躊躇っているようにも見える。
 心配した若い女の職員が彼の近くに歩み寄って中腰の姿勢になり顔を覗き込んだ。

「どうしたの?誰か探してるのかな?」

職員の優しい声色に、不安げな表情で口をキュッと結んでいた少年は顔を上げて彼女に助けを求めた。

「どうしよう、先生……アイツ死ぬかも…」

少年の訴えは職員室中に響き、デスクで作業をしていた他の職員達もその手を止めて立ち上がる。少年の周囲にゾロゾロと集まり、事情を聞き出そうとしていた。

「誰か怪我したの?今どこにいるのかな?」
「……裏山の資材置き場……先生、アイツ死んだら…俺、警察に捕まるの……?」

ギュッと職員の服の裾を掴んで涙ながらに尋ねた少年の肩を叩いたのは、咲田善文であった。




 少年の案内で“アイツ”のいる場所に向かった咲田の視線の先には、孤児達が黒山の人集りを作っていた。
「ごめんよ、ちょっと退いてくれるかな」
彼らを押し分けてその中心に進むと、蹲って顔を手で押さえていた子供が一人。指の間からはドロドロと血が溢れ出ており、彼の着ていた服や地面を汚していた。
「みんなは施設に戻りなさい。此処は危険だから遊んではいけないって言ったよね。さあ、一番年上なのは道利くんかな?みんなを連れて行けるよね?」
道利と呼ばれた少年は、コクリと頷いて孤児達を先導し、山道を降りていった。



 子供達の姿が完全に見えなくなる程遠ざかったのを確認した咲田は、蹲っていた彼の近くに歩み寄る。
 傍に落ちていたのは、角が鋭利に尖ったレンガブロック。子供のものと思われる血が付着していた。ソレを拾い上げて遠くに投げ飛ばした咲田は、続いて蹲っている彼の腕を掴んで無理矢理立ち上がらせた。

「何故此処にいる?」

先程までとは違い、高圧的な咲田の声色を聞いた子供は肩をビクリと震わせた。そして、蚊の鳴くような小さな声で返す。

「……みんなが……その……」
「規則破りを人の責任にする訳か。思い知らせてやるから来い」

顔を覆っていた手を引き剥がして掴んだ咲田は、そのまま引き摺って孤児院の方まで連れていこうとしていた。しかし、いつも従順だった筈の彼が歩き出そうとしない。
 大きく舌打ちをしながら振り返ると、地面に四つん這いになっている彼が苦しそうに顔を伏せていた。先程まで手で隠されていた部分からはボタボタと止めどなく血が流れ出ている。
 そのまま意識を失って倒れてしまった子供の様子に、咲田の顔色が変わる。先程職員室に駆け込んできた少年の言葉が脳裏に思い起こされた。





…………………………………………………………………………………



 それは、梓が京哉を見つけ出す2週間程前の事であった。
 倉庫の裏で蹲ってフルートの運指を練習していた京哉の元に、他の孤児達が集まってきたのだ。また嫌がらせをしに来たのだろうと顔を伏せて黙り込んでいた彼に投げかけられたのは『一緒に遊ぼう』という初めての誘いであった。

 咲田や他の職員からは、勝手に他の場所に行ってはならないとキツく言い付けられていた。しかし、今まで誰にも遊びの誘いなどされた事がなかった京哉は、素直に着いて行ってしまったのだ。

 そうして、施設の裏山にある資材倉庫を訪れた子供達。この場所は危険な道具が保管してある事を理由に立ち入りを禁止されている。

「アイツ此処に置き去りにして帰って、先生にチクろうぜ!」
「すげぇ怒られるよな、きっと!楽しそう!」

普段通り、京哉を陥れて職員達にお仕置きをさせようという悪戯を企んでいたのだ。
 初めての場所に戸惑い、周囲をキョロキョロと見回している京哉に奥まで行ってみようと言った孤児達。そして、突き当たりまでやって来ると彼の背中を思い切り押して壁際に置かれた大きな棚に衝突させた。
 一斉に走って出入り口の方向まで逃げる子供達であったが、背後に響く大きな物音に驚いて足を止める。


 棚の上に積まれていたダンボールの箱が落下し、中に保管されていたレンガが棚の側で転んでいた京哉の頭上へと降り注いだのだ。
 迫り来る影に思わず上を向いた京哉の右眼にレンガブロックの角が直撃し、その衝撃で地面に勢い良く体をぶつけて動かなくなっていた。
 想定外の事態に焦り始めた子供達。彼をこの場所に連れて来ようと最初に提案した少年は一目散に施設の方に駆け出していった。






 意識を取り戻した京哉は顔の右側に違和感を感じていた。痛みは当然あるが、熱っぽく、目を開ける事ができない。一体どうなってしまっているのだろうと不安になり、重だるい体を何とか起こして立ち上がった。
 見たことのない和室だった。古い畳の上に敷かれた布団。この場所に先程まで寝ていたのだ。
 部屋の外からは普段通り子供達の騒ぐ声が聞こえてきており、施設の中である事はわかる。

 下手に動いて酷い目にあいたくもない。じっとその場に立ったまま誰かが入ってくるのを待っていると、暫くして格子状の木枠にすりガラスがはめられた引き戸の向こう側から一人の老爺が姿を現した。
 そして、呆然と立ち尽くしている京哉を見るなり、その場に座るように促す。

「…当たりどころが良かったのか悪かったのか……その程度で済んだのは奇跡だったな」

手に携えていたカバンの中からペンライトを取り出した老爺は、京哉の右眼にその光を当てて怪我の状態を観察していた。

「………目…見えない……」
「ん?ああ。眼球破裂しとったからな。壊死して他に広がったら命が危ないからさっさと摘出した方が良いんだが…」

老爺の言葉は当時の京哉にとっては難しく、内容を理解できていなかった。何故目が見えないのか。首を傾げている彼の様子からその事に気がついた老爺は、畳の上に胡座を描いて座り正面から彼の顔を覗き込んだ。

「目、怪我のせいで潰れてしまったんだよ」
「………つぶれちゃったの…?治らない……?」

左目だけをパチクリさせて暫く驚いた様子を見せた京哉であったが、ショックを受けた様子は無い。
 京哉にとっては、フルートが吹けなくなるような怪我でなければ問題ないと考えていた。指や唇が再生できない程の怪我を負っていないのならソレで良い、と。
 そして、怪我を治したのが老爺だとわかり、律儀に頭を下げていた。

「瞼の腫れが酷いのは、そのレンガがぶつかったせいで瞼が切れてるからだ。縫っておいたからじきに良くなる」
それと…と何か続けようとした老爺であったが、フルフルと首を横に振って言葉を飲み込んだ。




…………………………………………………………………………………



 孤児院に京哉を引きずって帰ってきた咲田は、職員達に彼をどうするべきかと相談していた。
「…どうするって……意識無いし…怪我ヤバいんじゃねーのか?普通に医者呼んで…いや、病院に…」
「でも、色々聞かれんのは面倒だろ?コイツを連れてきた神奈川県警の刑事に相談してみるのはどうだ?」
ガヤガヤと騒がしくなる職員室の中で、咲田は一人だけやけにスッキリとした表情を浮かべていた。
「おい、お前も考えろよ!どうすんだよ、ソイツ…流石に放置して死ぬのはマズ…「何でだ?音楽家の子供なのに?」
職員の言葉を遮った咲田の返答に、その場にいた全員が顔を曇らせる。
 咲田は自身の生い立ちのせいで、この孤児院の中の誰よりも音楽家を恨んでいたのだ。自分の手を汚さずに京哉が命を落としたとなれば、彼にとっては都合の良い事なのかもしれない。
「だけどよ…咲田。それはダメだろ、いくら何でも。人としてどうなんだよ?」
「人?音楽家は人間じゃねぇって、お前ら普段からガキ共に教育してんだろ?何ひよってんだよ…コイツが死んだ所で誰か困る事でもあんのか?」

 言い合いを続ける彼らの見えない所で、女の職員達はコッソリと京哉の様子を伺いに来ていた。
 流れ続ける血で、職員室の床も赤く染まっている。
「……ねぇ…医者呼ぼうよ。死んだらさ…可哀想だって」
「でも咲田が……それに、施設ぐるみでってのが病院にバレたら…ちょっとマズくない?」
大怪我を負った子供を放置してグダグダと話し始めた職員達の様子を遠目に見ていたのは、この孤児院の院長をしている男であった。

 デスクの上の固定電話から受話器を持ち上げてダイヤルを回す。彼が電話を掛けたのは、所謂闇医者である。
 改正憲法施行後、現在の東京でマトモに機能している病院や正式な医師免許を持った人間は珍しい。ニュー千代田区画に住む上級の生活を送る国民にしか医学の道に進む権利は無いと言っても過言では無い状況であった。
 そこで、ワケあって免許を剥奪された医師やかつて勤務医をやっていて退職した人間に師事した者が医者の真似事をして多くの命を救っていた。

「ええ…出血が酷くて意識が無いんですよ。顔を強くぶつけたようで。すぐにお願いしますね」

ガチャンと受話器を置いた音が職員室内に響き、全員が院長の方に踵を返す。

「モグリのジィさんを呼んだ。何もしないで死んだら後が面倒だ。何かあったらジィさんに全て擦りつけりゃ良いだけの話」

淡々と告げながら事務仕事の続きに戻る院長。最高権力者の指示には咲田も従うしかない。不満げな表情を見せながらも床に放置していた京哉を担ぎ上げると、医者が来た時に処置できる広い部屋へと彼を運び出していった。




…………………………………………………………………………………





 オーストリアに向かう密輸船の内部、複数のコンテナによって隔てられていたうちの一つが彼らの部屋であった。
 この船に乗り込んでから2日目。京哉の様子がおかしい事に気がついた託斗は、彼と8年ぶりに再会した時から気になっていた事を尋ねてみた。

「京ちゃんさぁ…こっちのお顔…、右側の目の所どうしたの?叩かれた所が腫れてるのかなって思ってたんだけど、ちがうのかな?」
「………」

何を聞いてもぼんやりとした表情を浮かべるだけ。当初はフルートの運指の練習を続けていた手もあまり動かさなくなり、船の揺れに合わせてグラグラと頭を揺らすようになっていた。
 

 終着地までは1ヶ月という長い航海になるということもあり、この密輸船の内部には商店や医療施設も備わっている。急いで船医を呼び出した託斗が京哉の様子を診てもらうと、彼は酷く激昂し始めた。
 そして、託斗の襟首に掴み掛かって至近距離から怒鳴りつける。

「何でこんな状態の子供を船に乗せたんだ!アンタの息子、右眼が破裂してるぞ!マトモな治療も受けさせてないなんて、親失格だよ!」
船医の言葉に目を見開く託斗。そうは言っても息子の事はつい先日取り戻したばかりなのだ…などとは言い訳のしようもない。すぐに頭を下げて船医の男に尋ねた。
「どうすれば良いですか!?彼を…助けるには……」
子供の怪我にも気付けない馬鹿親だと憤慨していた船医の男であったが、あまりにも真剣な表情で何度も頭を下げてくる託斗の様子を見て仕方なしにと大きく溜め息を吐きながら答えてやる。
「……潰れた眼球とその周囲の壊死の始まった細胞を摘出する必要がある。大掛かりな手術だ。明日寄港する上海で医者を探して何とかしてもらえ」

停泊期間は燃料の補給や人や荷物の乗り降りを含めて3日間。その間にどうにもならなければ、乗船は諦めて治療を優先しろ。そう言い残した船医は乱暴に扉を閉めて立ち去っていった。


 この時代に大掛かりな手術ができる大病院など、富豪でもない限り近寄る事すらできないだろう。たったの3日でどうにかなるものでもない事は医学の心得の無い託斗でも察しがついていた。
 そうなると、頼れるのは組織の力である。PHSを取り出した託斗は電波の入る場所まで出ていき、とある番号に電話を掛ける。


「……ああ、良かった。僕だよ、僕。急で悪いんだけどダル君さ、上海で腕の良い医者紹介してくれないかな?」

託斗の電話の相手はダルシャンであった。当時、彼はアジア支部の副支部長にまで登り詰めており、上海は彼の管轄でもあったのだ。

『随分と急いでんだね。良いよ、任せといて。上海港に着いたら連絡頂戴よ。今ちょうど近くで仕事してるからさ』

運良くダルシャンはこれから託斗達が向かう場所の近くにいると言う。
 この時ばかりは楽団ギルドのネームバリューを心底有り難く感じる。アングラな世界では名の通る組織ということもあり、その筋の医者を探すのもさほど難しくないのだ。


 みるみるうちに弱っていく京哉を抱えながら、一刻も早く港に到着して欲しいと気持ちばかりが逸る。
 その晩は熱に魘される息子の看病で徹夜をし、うつらうつらし始めた時にようやく目的地への接近を知らせる館内放送が耳に届いた。



…………………………………………………………………………………



 港に降り立った時、こちらに向かって手を振るダルシャンの隣には既に医者らしき男が立っていた。
 託斗が背負っていた眠ったままの子供の様子を一瞥した医者の男は、すぐに処置が必要そうだとダルシャンに耳打ちする。

「待ってたよ、タクト。すぐ近くに彼の勤めてる病院があってね。緊急で手術捩じ込んでくれるらしいからお任せしよう」
「あ、ああ……ありがとう、ダル君」

全員でタクシーに乗り込み、向かった先は市街地の綺麗な大学病院。どうやってこんな真っ当な場所に務める人間に声を掛けたのかと問う託斗であったが、ダルシャンはシーっと口の前で人差し指を立てて静かに微笑むだけであった。


 京哉を医師に預け、ダルシャンと並んで待合室のソファに座る託斗。憔悴した様子の彼の肩を叩いたダルシャンは、そろそろ教えてくれるか?と目で訴えてきた。

「あぁ、あの子は僕の息子。母親については聞かないで欲しい」
「意外だな。君も隅におけないヤツだったってことか」
事情を知らないダルシャンの呑気な感想に、託斗は苦笑いを浮かべる。

「オーストリアに連れて帰るって事は、旋律師メロディストにでもするつもりかい?」
「…ロジャーはそのつもりだろうね。僕は正直反対だ。本当は楽団ギルドとは縁のない生活をして欲しかった」

組んだ手の親指同士をクルクルと器用に回しながら答えた託斗の横顔を見たダルシャン。
 京哉が負っていた怪我の数々を見た時に、何か事情があるのだとは感じ取っていた。普通の感覚があれば、あんな大怪我で何日も治療を受けさせない事などあってはならないとわかる筈。父親だと自白した託斗がそれをしていなかったのだから、よっぽどの事があったのだろうと。

「……ここ3日で2回も親失格だって言われてんだよね、僕。しかも、それぞれ違う人に。そもそも、親だなんて名乗る資格無いし、それに…」
あの生命体は自分のクローンであり、彼が産まれてすぐの時には子供として受け入れる事に抵抗すら感じていたのが託斗の正直な気持ちであった。
 言葉を噤んで思い悩んだ表情で俯いてしまった託斗の姿は、ダルシャンにとって新鮮なものであった。飄々とした態度で冗談を言っているのか否か判断が難しいのが彼の常であったから、こんな弱った様子を見せられてはこちらが逆に困ってしまう。

「ま、父親が親になるのはかなり時間掛かるって聞いたし、仕方の無い事だろうよ。そんな事よりほら、出てきたよ彼」


 ダルシャンの指差した先に、ストレッチャーに乗せられて運ばれていく京哉の姿が確認できた。執刀した先程の医師が一人で託斗達の方へと歩み寄って来る。

「壊死した眼球と組織の摘出は全て完了しました。まだ子供ですから生活の中で片目での生活には十分順応していけるでしょう。視神経自体は傷付いていませんでしたので、ドナーが見つかれば移殖も可能です」

ドナー、移殖という言葉が託斗の脳内で反芻される。
 医学の発展は目覚ましく、ドナー技術が確立されたのと同時にほぼ全ての種類の臓器の移殖がこの時代には可能になっていた。

「…ドナーって……すぐ見つかるものなんですか?」
「いやいや……実際にはかなり難しいでしょう。それに、移殖できたとしても感染症や拒絶反応のリスクもありますから…」
考え込む医師の前にグイッと歩み寄った託斗は、彼の目を真正面で見据えながら口を開いた。
「僕の目……あの子にあげられないですか?」
まさかの申し出に、ダルシャンは目を見開いて口を挟む。
「ちょっと待てよタクト…!そいつは…楽団ギルド的には色々と問題だぞ?」
「…僕は両目揃ってなくたって特に問題無いさ。子供の将来の事考えれば、両目でしっかりと見えるに越した事はないよ」
京哉と託斗の遺伝子は100パーセント合致する。感染症のリスクさえクリアできれば、完璧なドナーと言えよう。
「先生、僕の目…移殖できるかどうか検査だけでもしてもらえませんか?大人の目玉を子供に…っていうのが無理だったら諦めますが…」
「いえ…そこらへんの方法は確立されているので特に大きな問題はありません。しかし、もしドナーとして適合した場合でも、何らかの原因で移殖してみてやっぱり見えなかった…という事例も少なからずありますが…」
話が進んでしまいそうな二人の間に入ったダルシャンは、彼らが抱えている最大の懸念について指摘する。
「タクト、時間的制約があるのは忘れていないか?今日を除けばあと2日間…船に戻る時間を考えれば実質1.5日程度しか猶予は無い。手術が上手くいったとしても、その後のケアはどうするんだ?」
彼が異を唱えるのも理解できる。船に戻った後の事だって、あのような怒られ方をした手前船医の男を頼るのも気が引けた。
 ただ、託斗にはそれ以上の想いとある思惑があったのだ。




…………………………………………………………………………………


 検査の結果は当然『適合』。食い下がる託斗の頑固さに負けて、ダルシャンも最後には両手を挙げてしまった。
 上海滞在2日目の昼前から託斗の右眼球摘出を開始し、続けて京哉への移殖を開始する段取りである。

 患者衣を纏った託斗を見送ったダルシャンの心情は複雑であった。この事がロジャーを始め上層部に知られれば自分にもどんな処分が下るのかわからない。
 しかし、幼い我が子の将来を案ずる親心というものも理解できなくはなかった。この時既に2人の妻との間に3人の子供を授かっていた彼にとっては、全くもって他人事には捉えられなかったのも事実である。
 取り敢えず託斗の手術が終わるまでは、こうして一人悶々と時間が過ぎるのを待つしかない。憂鬱な気分になりながら京哉の病室に入ったダルシャンは、スヤスヤと眠ったままの彼の枕元に置かれていた数枚の紙を拾い上げた。
 託斗の流れる様な筆跡で書き起こされた楽譜……こんな状況でも仕事をしていたのかと、それらを纏めてベッド横の机の上に置いた。




 いつの間にか眠ってしまっていた事に気が付いた頃には、隣に託斗が戻ってきており笑顔で彼の方に手を振っている。
「タクト!…無事終わったのか……」
「まあね。義眼も入れてもらったからオーストリアに帰って早々怒られるような事は多分無いだろうね」
顔の右半分を仰々しく覆う包帯。当然もう後戻りは出来ないのだと項垂れるダルシャンの肩を叩く託斗は、空になっているベッドの上へと視線を移した。

「……あの子、日本の孤児院にいたんだ。訳あって母親から引き離されて」

京哉について託斗の口から語られる事は無いと思っていたダルシャンは、急いで項垂れていた顔を上げて彼の方に向き直る。

「日本は音楽家への規制が世界トップクラスに厳しい国だろ?反政府運動に巻き込まれて親を失った子供達が収容される孤児院なんてのもあってさ…」
「……まさか…そこにいたのか?」
静かに首を縦に振った託斗を見て、ダルシャンは言葉を失った。
 当初の日本の反政府運動と言えば、改正憲法施行後に突如謂れのない迫害を受ける事になった音楽家の権利や心身の安全を守る為に行われていた。その後、国民全体への締め付けが一気に加速されてからは、『音楽家の為』という大義名分を失った暴力のぶつかり合いに発展して行ったと聞いている。
 音楽家の為に親を失った。そう教え込まれた子供達の中に放り込まれた京哉。彼に出会った時に見られた怪我の理由がようやく判明し、ダルシャンの表情は暗くなる。
「…5歳の時から3年間。僕はあの子が地獄にいた事すら知らずにのうのうと生きてた。本当に親失格なんだと思う。父親なんて名乗る資格のない僕から目を貰ったって、あの子は迷惑に思うかもしれない」
「タクト…」
淡々と語っていた託斗であったが、不意にダルシャンの方に顔を向けると苦笑いを見せた。
「でも…子供に夢を託すのは、親なら誰しも普通の事なんじゃないのかな」
 高給取りになって欲しい、家業を継いで欲しい、将来有名人になって欲しい。そんな大それた物だけが夢ではない。
 ただ健康に生きて何事も無く大人になって欲しい。それも立派な夢である。そう考えていたダルシャンは託斗に共感して、大きく頷いた。

「…さて、予定ではそろそろ京哉が出てくる頃だな」

ダルシャンの腕時計から現在時刻を把握した様子の託斗はゆっくりと立ち上がって腰を摩った。医師から術後の説明があるから寝ないで欲しいと言われていたものの、時刻は既に午前2時を回っていた。
 出発の日…上海滞在3日目である。




…………………………………………………………………………………




 密輸船に戻ってきた託斗達を乗船口で待ち構えていたのは、船医の男であった。背負われた状態の京哉の顔を覗き込み、次に託斗の方を見やる。

「……まさか、アンタが隻眼になって帰ってくるとは思わなかったな。相当運良く腕の良い医者でも見つかったのか」

そう言いながらコンテナまで着いてきた男は、ベッドに横たわる京哉の全身状態を見て納得したように頷いて口を開いた。

「先日は怒鳴って悪かったな」
「あ…いえ……怒られるのは当然だったと言いますか…」

まさか詫びを入れられるとは思っていなかった託斗は戸惑ってしまう。

「毎朝回診に来させてもらう。薬が必要ならいつでも申し付けてくれ」

そう言って京哉の頭を撫でた船医の男はあっさりと帰っていってしまった。医者の性分なのか、それとも彼自身の人柄なのか。
 いずれにせよ、最寄りの港までは彼の世話になるしかない。少しでも気分よく診てもらえるに越したことは無いと、託斗はほっと胸を撫で下ろした。

 そして、この日の昼過ぎにようやく目を覚ました京哉は当然これまでの状況を把握していない様子で周囲をキョロキョロと見回していた。そして、右眼を覆う包帯を恐る恐る手で触りながら託斗に告げた。

「……目……ぼうっとするけど、もう痛くない…」

移殖したばかりの託斗の眼球が馴染むのはまだ先であろう。違和感を覚えながらも体が楽になった様子を見せていた。
 そんな彼の正面で中腰になった託斗は、自身の右眼を覆う大きなガーゼの絆創膏を指差す。

「京哉、君に僕の目をあげたんだ」

確かに片目しか確認できない彼の顔を凝視した京哉は、左目をパチクリさせて尋ねた。

「……僕に…?目、要らなかったの?」
「要らなかったからあげたわけじゃないよ……京哉、これから言う事は二人だけの秘密。誰にも教えないって約束できる?」

苦笑いを浮かべた託斗は京哉の隣に腰掛けて彼の肩に手を置いた。そして、落ち着いた口調で静かに語り出す。


「包帯が取れても、その右目で物を見てはいけないよ。誰かに見られるのもダメ。君が自分の力で世界を変えたいと思った時にだけ、その目でを見るんだ。その日が来ればきっとわかるよ」


世界を変える、真実を見る…
 要領を得ない託斗の言葉に、京哉は首を傾げて戸惑ってしまった。しかし、約束だと言って小指を差し出すと、子供らしく素直に応じる。








 そうして、包帯が取れたその日から京哉は右目を隠して生活するようになったのだ。
 託斗の言う『その日』というのがいつになるのか。結局わからないまま、彼はこの世を去ったという報告だけを受けた。

 しかし、京哉の中に残る父親の一部が告げていた。
 『その日』は確実に迫っているのだと。









…………………………………………………………………………………



「悪いね、ダルシャン。世話になった上に面倒に巻き込んじゃって」

上海港まで車で二人を乗せてきたダルシャンは、小さく手を振っている京哉に向かって笑顔で手を振り返しながら返事を寄越す。

「気にするなよ。ま、何か礼がしたいっていうなら…そうだな……お前の書いたっていう超絶技巧には少しばかり興味があるとだけは伝えとくよ」
「わかりやすいな、君は。支部長就任祝いって事ならロジャーも文句言わずにプレゼントさせてもらえるだろうけどね」
そう言い残して後部座席のドアを閉めた託斗の営業スマイルに、早く行けと手をシッシと払ってあしらったダルシャン。

 この時彼はまだ自分が、天地開闢の神の物語を暴き世界をあるべき姿へと導く唯一の存在とまみえていた事には気が付いていなかった。





[71] Pregando Ⅱ 完

 
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