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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱
第15話 蓋をした気持ちと、入り込めない隙間
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翌朝。
ホテルのカーテンを開けると、横浜の街は薄い霧に包まれていた。昨日の喧騒が嘘のような静けさが漂っている。
皐月はスマホのアラームを止めようとして、画面に表示された通知に目を見開いた。
『雨宮:大丈夫か。危なそうなら迎えに行く』
受信時刻は昨夜の23時過ぎ。
ちょうど彼女が美雲たちと中華街で盛り上がっていた頃だ。
皐月はベッドの上でスマホをそっと両手に包み込んだ。
昨日、陽介に遭遇した後、美雲たちのもとへ戻る別れ際のこと。
雨宮は少し気まずそうにスマホを取り出し、短く言った。
『……またあいつが現れるかもしれない。何かあった時のために連絡先を交換しないか』
業務用ではない、個人宛のメッセージ。
登録名は『雨宮』の二文字だけで、アイコンは初期設定のまま。
無愛想の極みとも言えるその画面が、今はどんな護符よりも頼もしく見えた。
皐月は深呼吸をし、震える指で返信を打った。
『おはようございます。昨日はありがとうございました。今日は美雲先生たちと一緒に行動するので大丈夫です。ご心配ありがとうございます』
送信。
既読はつかない。まだ寝ているのか、もう準備をしているのか。
画面の向こうにある雨宮の生活を想像し、いつもは厳しい指導医の人間らしい一面に触れた気がして、自然と口元が緩んだ。
身支度を整えてロビーに降りると、美雲が待っていた。
二日酔いで瀕死の霜田をホテルに残し、二人は会場へと向かった。
*
午前中は「皮膚科医のための最新治療ガイドライン」の教育講演に参加した。
広い講堂は満席で、後方の席に滑り込む。
スライドを見ながらメモを取っていた皐月は、ふと前方の席に見知った後ろ姿を見つけた。
黒髪、整った姿勢、研ぎ澄まされた横顔。
雨宮だった。彼は姿勢を崩さず演壇を見つめ、時折タブレットに静かにペンを走らせている。
石像のように無駄がない。
(……やっぱり、すごい人だ)
ただ座っているだけなのに、どうしてこんなにも様になるのか。
昨日、陽介を前に庇ってくれた時の背中が脳裏に浮かび、皐月の胸の奥が静かに熱を帯びた。
*
昼過ぎ。
学会場を出た皐月と美雲は、観光から戻った霧生と合流した。多少復活した霜田の姿もある。
「……おい、天野。こっち来い」
雪村が皐月だけを見て顎をしゃくった。
「え?」
「昼飯だ。奢ってやる」
「えっ、あ、でも美雲先生たちが……」
皐月が振り返ると、美雲はこっそりと皐月に耳打ちした。
「行ってきなよ、皐月ちゃん。私たちは適当に食べとくから」
「えっ、美雲先生!?」
美雲は霜田と霧生を連れて、あっという間に人混みに消えていった。
残されたのは皐月と雪村だけ。
「……行くぞ。予約してある」
雪村はバツが悪そうにそっぽを向きつつ、スタスタと歩き出した。
「あ、待ってよ!」
*
連れて行かれたのは、中華街の路地裏にある知る人ぞ知る名店だった。
二人掛けのテーブル席に案内される。賑やかさの中に、不思議と落ち着きがあった。
「へぇ、雪村、詳しいんだね!」
「学生時代、学会の手伝いで来た時に知ったんだ」
運ばれてきた熱々の点心や麻婆豆腐。
雪村は無言で、作業のように手際よく皐月の皿に取り分けていく。
「……ほら。熱いから気をつけて食え」
「ありがとう!」
皐月が小籠包を口に運ぶと、濃厚な肉汁が口いっぱいに広がった。
「んん~っ! 美味しい!」
思わず頬が緩む。
その表情を見て、雪村が一瞬だけ柔らかい笑みを漏らしたように見えた。
「……なら、よかった」
すぐに視線を外し、烏龍茶を口に運ぶ。
「あの論文の礼だ。これで貸し借りなしだからな」
「うん!ご馳走様です、雪村先生!」
皐月がふざけて敬礼すると、雪村は「調子に乗るな」と憎まれ口を叩きながらも、追加の杏仁豆腐を注文した。
店を出て会場へ戻る途中。
人混みに紛れた皐月が、石畳にサンダルを引っかけてよろめいた。
「っと……」
転びそうになった瞬間、ぐいっと腕を引かれた。
「……危ないな」
雪村が皐月の腕を支え、眉をひそめる。
「ぼーっとしてるからだ。……はぐれるなよ」
手はすぐ離されたが、その後の雪村の歩幅は皐月に合わせていた。
不器用な優しさに、皐月の胸はふわりと温かく満たされていった。
*
夕方。帰りの新幹線。
美雲はアイマスクをして眠り、後ろからは霧生と霜田の寝息。
起きているのは、窓際の皐月と、通路を挟んだ雪村だけだった。
雪村は読書灯の下で洋書を読んでいたが、ふと本を閉じ、皐月を見た。
「……寝ないのか」
「コーヒー飲んだからかな」
静かな会話の後、雪村は少しためらってから口を開いた。
「……なぁ、天野」
「はい?」
「お前と、形成外科の五十嵐。……付き合ってるのか?」
皐月の肩がわずかに強張る。
突然の名前。それも雪村の口から。
「ち、違うよ。ただの高校の同級生。腐れ縁みたいな」
そう笑ってみせたが、その笑みは自分でもわかるほどぎこちなかった。
9年前の記憶。神社の約束。そして、断絶。
軽い言葉で括れる関係ではない。
「……そうか」
雪村は皐月の顔をしばらく観察し、その表情に何かを読み取るように目を細めた。
「否定する割には、複雑な顔をするんだな」
「えっ?」
「……いや、なんでもない」
彼は視線を逸らし、読書に戻る。
その横顔には、かすかな諦念の色が差していた。
――入り込む隙間など、最初からなかった。
雪村は胸に湧いたわずかな苦味を押し殺すように、本のページをめくった。
*
皐月は窓の外の夜景を見つめた。
行きと同じ車窓だが、胸の重さは少し違っている。
陽介への未練はもうない。
祭りのあとの日常は忙しく慌ただしいだろう。
それでも、今の皐月なら乗り越えられる――そんな確信が胸に宿っていた。
ホテルのカーテンを開けると、横浜の街は薄い霧に包まれていた。昨日の喧騒が嘘のような静けさが漂っている。
皐月はスマホのアラームを止めようとして、画面に表示された通知に目を見開いた。
『雨宮:大丈夫か。危なそうなら迎えに行く』
受信時刻は昨夜の23時過ぎ。
ちょうど彼女が美雲たちと中華街で盛り上がっていた頃だ。
皐月はベッドの上でスマホをそっと両手に包み込んだ。
昨日、陽介に遭遇した後、美雲たちのもとへ戻る別れ際のこと。
雨宮は少し気まずそうにスマホを取り出し、短く言った。
『……またあいつが現れるかもしれない。何かあった時のために連絡先を交換しないか』
業務用ではない、個人宛のメッセージ。
登録名は『雨宮』の二文字だけで、アイコンは初期設定のまま。
無愛想の極みとも言えるその画面が、今はどんな護符よりも頼もしく見えた。
皐月は深呼吸をし、震える指で返信を打った。
『おはようございます。昨日はありがとうございました。今日は美雲先生たちと一緒に行動するので大丈夫です。ご心配ありがとうございます』
送信。
既読はつかない。まだ寝ているのか、もう準備をしているのか。
画面の向こうにある雨宮の生活を想像し、いつもは厳しい指導医の人間らしい一面に触れた気がして、自然と口元が緩んだ。
身支度を整えてロビーに降りると、美雲が待っていた。
二日酔いで瀕死の霜田をホテルに残し、二人は会場へと向かった。
*
午前中は「皮膚科医のための最新治療ガイドライン」の教育講演に参加した。
広い講堂は満席で、後方の席に滑り込む。
スライドを見ながらメモを取っていた皐月は、ふと前方の席に見知った後ろ姿を見つけた。
黒髪、整った姿勢、研ぎ澄まされた横顔。
雨宮だった。彼は姿勢を崩さず演壇を見つめ、時折タブレットに静かにペンを走らせている。
石像のように無駄がない。
(……やっぱり、すごい人だ)
ただ座っているだけなのに、どうしてこんなにも様になるのか。
昨日、陽介を前に庇ってくれた時の背中が脳裏に浮かび、皐月の胸の奥が静かに熱を帯びた。
*
昼過ぎ。
学会場を出た皐月と美雲は、観光から戻った霧生と合流した。多少復活した霜田の姿もある。
「……おい、天野。こっち来い」
雪村が皐月だけを見て顎をしゃくった。
「え?」
「昼飯だ。奢ってやる」
「えっ、あ、でも美雲先生たちが……」
皐月が振り返ると、美雲はこっそりと皐月に耳打ちした。
「行ってきなよ、皐月ちゃん。私たちは適当に食べとくから」
「えっ、美雲先生!?」
美雲は霜田と霧生を連れて、あっという間に人混みに消えていった。
残されたのは皐月と雪村だけ。
「……行くぞ。予約してある」
雪村はバツが悪そうにそっぽを向きつつ、スタスタと歩き出した。
「あ、待ってよ!」
*
連れて行かれたのは、中華街の路地裏にある知る人ぞ知る名店だった。
二人掛けのテーブル席に案内される。賑やかさの中に、不思議と落ち着きがあった。
「へぇ、雪村、詳しいんだね!」
「学生時代、学会の手伝いで来た時に知ったんだ」
運ばれてきた熱々の点心や麻婆豆腐。
雪村は無言で、作業のように手際よく皐月の皿に取り分けていく。
「……ほら。熱いから気をつけて食え」
「ありがとう!」
皐月が小籠包を口に運ぶと、濃厚な肉汁が口いっぱいに広がった。
「んん~っ! 美味しい!」
思わず頬が緩む。
その表情を見て、雪村が一瞬だけ柔らかい笑みを漏らしたように見えた。
「……なら、よかった」
すぐに視線を外し、烏龍茶を口に運ぶ。
「あの論文の礼だ。これで貸し借りなしだからな」
「うん!ご馳走様です、雪村先生!」
皐月がふざけて敬礼すると、雪村は「調子に乗るな」と憎まれ口を叩きながらも、追加の杏仁豆腐を注文した。
店を出て会場へ戻る途中。
人混みに紛れた皐月が、石畳にサンダルを引っかけてよろめいた。
「っと……」
転びそうになった瞬間、ぐいっと腕を引かれた。
「……危ないな」
雪村が皐月の腕を支え、眉をひそめる。
「ぼーっとしてるからだ。……はぐれるなよ」
手はすぐ離されたが、その後の雪村の歩幅は皐月に合わせていた。
不器用な優しさに、皐月の胸はふわりと温かく満たされていった。
*
夕方。帰りの新幹線。
美雲はアイマスクをして眠り、後ろからは霧生と霜田の寝息。
起きているのは、窓際の皐月と、通路を挟んだ雪村だけだった。
雪村は読書灯の下で洋書を読んでいたが、ふと本を閉じ、皐月を見た。
「……寝ないのか」
「コーヒー飲んだからかな」
静かな会話の後、雪村は少しためらってから口を開いた。
「……なぁ、天野」
「はい?」
「お前と、形成外科の五十嵐。……付き合ってるのか?」
皐月の肩がわずかに強張る。
突然の名前。それも雪村の口から。
「ち、違うよ。ただの高校の同級生。腐れ縁みたいな」
そう笑ってみせたが、その笑みは自分でもわかるほどぎこちなかった。
9年前の記憶。神社の約束。そして、断絶。
軽い言葉で括れる関係ではない。
「……そうか」
雪村は皐月の顔をしばらく観察し、その表情に何かを読み取るように目を細めた。
「否定する割には、複雑な顔をするんだな」
「えっ?」
「……いや、なんでもない」
彼は視線を逸らし、読書に戻る。
その横顔には、かすかな諦念の色が差していた。
――入り込む隙間など、最初からなかった。
雪村は胸に湧いたわずかな苦味を押し殺すように、本のページをめくった。
*
皐月は窓の外の夜景を見つめた。
行きと同じ車窓だが、胸の重さは少し違っている。
陽介への未練はもうない。
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