『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱

第15話 蓋をした気持ちと、入り込めない隙間

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翌朝。

ホテルのカーテンを開けると、横浜の街は薄い霧に包まれていた。昨日の喧騒が嘘のような静けさが漂っている。

皐月はスマホのアラームを止めようとして、画面に表示された通知に目を見開いた。

『雨宮:大丈夫か。危なそうなら迎えに行く』

受信時刻は昨夜の23時過ぎ。

ちょうど彼女が美雲たちと中華街で盛り上がっていた頃だ。

皐月はベッドの上でスマホをそっと両手に包み込んだ。

昨日、陽介に遭遇した後、美雲たちのもとへ戻る別れ際のこと。

雨宮は少し気まずそうにスマホを取り出し、短く言った。

『……またあいつが現れるかもしれない。何かあった時のために連絡先を交換しないか』

業務用ではない、個人宛のメッセージ。

登録名は『雨宮』の二文字だけで、アイコンは初期設定のまま。

無愛想の極みとも言えるその画面が、今はどんな護符よりも頼もしく見えた。

皐月は深呼吸をし、震える指で返信を打った。

『おはようございます。昨日はありがとうございました。今日は美雲先生たちと一緒に行動するので大丈夫です。ご心配ありがとうございます』

送信。

既読はつかない。まだ寝ているのか、もう準備をしているのか。

画面の向こうにある雨宮の生活を想像し、いつもは厳しい指導医の人間らしい一面に触れた気がして、自然と口元が緩んだ。

身支度を整えてロビーに降りると、美雲が待っていた。

二日酔いで瀕死の霜田をホテルに残し、二人は会場へと向かった。



午前中は「皮膚科医のための最新治療ガイドライン」の教育講演に参加した。

広い講堂は満席で、後方の席に滑り込む。

スライドを見ながらメモを取っていた皐月は、ふと前方の席に見知った後ろ姿を見つけた。

黒髪、整った姿勢、研ぎ澄まされた横顔。

雨宮だった。彼は姿勢を崩さず演壇を見つめ、時折タブレットに静かにペンを走らせている。

石像のように無駄がない。

(……やっぱり、すごい人だ)

ただ座っているだけなのに、どうしてこんなにも様になるのか。

昨日、陽介を前に庇ってくれた時の背中が脳裏に浮かび、皐月の胸の奥が静かに熱を帯びた。



昼過ぎ。

学会場を出た皐月と美雲は、観光から戻った霧生と合流した。多少復活した霜田の姿もある。

「……おい、天野。こっち来い」

雪村が皐月だけを見て顎をしゃくった。

「え?」

「昼飯だ。奢ってやる」

「えっ、あ、でも美雲先生たちが……」

皐月が振り返ると、美雲はこっそりと皐月に耳打ちした。

「行ってきなよ、皐月ちゃん。私たちは適当に食べとくから」

「えっ、美雲先生!?」

美雲は霜田と霧生を連れて、あっという間に人混みに消えていった。

残されたのは皐月と雪村だけ。

「……行くぞ。予約してある」

雪村はバツが悪そうにそっぽを向きつつ、スタスタと歩き出した。

「あ、待ってよ!」



連れて行かれたのは、中華街の路地裏にある知る人ぞ知る名店だった。

二人掛けのテーブル席に案内される。賑やかさの中に、不思議と落ち着きがあった。

「へぇ、雪村、詳しいんだね!」

「学生時代、学会の手伝いで来た時に知ったんだ」

運ばれてきた熱々の点心や麻婆豆腐。

雪村は無言で、作業のように手際よく皐月の皿に取り分けていく。

「……ほら。熱いから気をつけて食え」

「ありがとう!」

皐月が小籠包を口に運ぶと、濃厚な肉汁が口いっぱいに広がった。

「んん~っ! 美味しい!」

思わず頬が緩む。

その表情を見て、雪村が一瞬だけ柔らかい笑みを漏らしたように見えた。

「……なら、よかった」

すぐに視線を外し、烏龍茶を口に運ぶ。

「あの論文の礼だ。これで貸し借りなしだからな」

「うん!ご馳走様です、雪村先生!」

皐月がふざけて敬礼すると、雪村は「調子に乗るな」と憎まれ口を叩きながらも、追加の杏仁豆腐を注文した。

店を出て会場へ戻る途中。

人混みに紛れた皐月が、石畳にサンダルを引っかけてよろめいた。

「っと……」

転びそうになった瞬間、ぐいっと腕を引かれた。

「……危ないな」

雪村が皐月の腕を支え、眉をひそめる。

「ぼーっとしてるからだ。……はぐれるなよ」

手はすぐ離されたが、その後の雪村の歩幅は皐月に合わせていた。

不器用な優しさに、皐月の胸はふわりと温かく満たされていった。



夕方。帰りの新幹線。

美雲はアイマスクをして眠り、後ろからは霧生と霜田の寝息。

起きているのは、窓際の皐月と、通路を挟んだ雪村だけだった。

雪村は読書灯の下で洋書を読んでいたが、ふと本を閉じ、皐月を見た。

「……寝ないのか」

「コーヒー飲んだからかな」

静かな会話の後、雪村は少しためらってから口を開いた。

「……なぁ、天野」

「はい?」

「お前と、形成外科の五十嵐。……付き合ってるのか?」

皐月の肩がわずかに強張る。

突然の名前。それも雪村の口から。

「ち、違うよ。ただの高校の同級生。腐れ縁みたいな」

そう笑ってみせたが、その笑みは自分でもわかるほどぎこちなかった。

9年前の記憶。神社の約束。そして、断絶。

軽い言葉で括れる関係ではない。

「……そうか」

雪村は皐月の顔をしばらく観察し、その表情に何かを読み取るように目を細めた。

「否定する割には、複雑な顔をするんだな」

「えっ?」

「……いや、なんでもない」

彼は視線を逸らし、読書に戻る。

その横顔には、かすかな諦念の色が差していた。

――入り込む隙間など、最初からなかった。

雪村は胸に湧いたわずかな苦味を押し殺すように、本のページをめくった。



皐月は窓の外の夜景を見つめた。

行きと同じ車窓だが、胸の重さは少し違っている。

陽介への未練はもうない。

祭りのあとの日常は忙しく慌ただしいだろう。

それでも、今の皐月なら乗り越えられる――そんな確信が胸に宿っていた。
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