『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱

第14話 最低な求愛と、中華街の夜

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「……ここは人が多いから、場所を変えよう」

陽介は周囲の喧騒を気にするように、小声で言った。

「嫌よ。あなたと話すことなんて……」

「頼むよ。少しだけでいいんだ」

彼は皐月の手首を掴むと、強引に歩き出した。

ここで騒いで、美雲たちに見つかるのだけは避けたかった。元婚約者と揉めているなんて知られたら、また変な噂になりかねない。

皐月は唇を噛み締め、しぶしぶ彼に従った。

その様子を、少し離れた場所から見ている人物がいた。

雨宮だ。

彼は霜田のポスター発表のフォローを終え、次のセッションまでの空き時間に企業展示を見に来ていたところだった。

人混みの中に、見慣れた後ろ姿を見つけた。

天野だ。

しかし、彼女は一人ではなかった。見知らぬスーツの男に手首を引かれ、俯きながら歩いている。

(……誰だ?)

嫌がっているようにも見えるし、親しい間柄のようにも見える。

関わるべきではない。そう理性が告げたが、足は勝手に二人の方へと向かっていた。



陽介に連れてこられたのは、展示ホールの外れにある、非常階段近くの休憩スペースだった。

メインの通りから外れているため、人通りはほとんどない。

「……で?話って何?」

皐月は腕を組み、冷ややかな声で促した。

陽介は一度深呼吸をすると、信じられない言葉を口にした。

「……皐月。俺たち、寄りを戻さないか?」

時が止まったかと思った。

あまりに突拍子もない言葉に、怒りよりも先に呆れが込み上げる。

「……はあ?何言ってるの?あなた、結婚したんでしょ?子供も生まれたばかりなんじゃ……」

「そうなんだけどさぁ……」

陽介はバツが悪そうに頭をかいた。

「なんかさ、違うんだよ。子供が生まれてから、嫁が急に冷たくなってさ。俺が仕事から帰っても『手洗って』とか『タバコ臭い』とか、文句ばっかりで」

「それは当たり前でしょ。新生児がいるんだから」

「でもさ、俺だって疲れてるんだよ? 家に帰っても安らげる場所がないっていうか……。そんな時に、皐月のことを思い出すんだ。皐月はいつも俺の話を優しく聞いてくれたなって」

自分勝手な言い分に、目眩がした。

この人は、自分が浮気して捨てた相手に、何を求めているんだろう。

「……今の奥さんを選んだのはあなたでしょ。自業自得よ」

「わかってるよ!でも、俺には癒やしが必要なんだ!」

陽介が一歩詰め寄ってくる。

「実はさ、今日も家に帰りたくないから、近くのホテル予約してあるんだ。……な? 今から行こうよ。昔みたいにさ」

彼はそう言うと、皐月の手を握りしめ、ねっとりとした視線を送ってきた。

吐き気がした。

かつて愛した男が、ここまで浅ましく、最低な人間だったなんて。

こんな男のために、皐月は半年間も泣いて、キャリアを捨てて、傷ついてきたのか。

悲しさを通り越して、虚しさだけが残る。

「……離して」

「いいじゃんか、少し休むだけだよ」

「嫌っ!触らないで!」

皐月が叫んで手を振りほどこうとした、その時だった。

「――嫌だと言っているのが聞こえないのか」

低く、重く、空気を凍らせるような声が響いた。

陽介がビクリとして振り返る。

そこには、雨宮が立っていた。

ポケットに手を突っ込み、見下ろすような冷徹な視線で陽介を射抜いている。

その迫力は、ただ立っているだけなのに、周囲の気温を数度下げているようだった。

「あ、雨宮先生……!」

「だ、誰ですか、あなたは……」

陽介が気圧されながら問う。

雨宮は無視して、皐月の方を見た。

「……知り合いか?」

「えっと、その……」

「嫌がっているように見えたが」

「……はい。あの、しつこくて……困ってました」

皐月が正直に答えると、雨宮は「そうか」と短く頷き、再び陽介に向き直った。

「聞こえただろう。彼女は迷惑している。即刻立ち去れ」

「なっ……部外者が口出ししないでくださいよ! これは個人的な話で……」

陽介が反論しようとした瞬間、彼の顔色が変わった。

雨宮のIDカードを見て、さらにその顔を見て、何かに気づいたようだ。

「あ……あんた、さっきの……」

朝一番のセッション。雪村の発表の時、鋭い質問に対して完璧な回答をしていた指導医。

同じ会場にいた陽介は、雨宮の圧倒的な知識量と、会場を支配するようなカリスマ性を目撃していたのだ。

同じ医師として、格の違いは一目瞭然だった。

「……〇〇医大の専攻医か」

雨宮は陽介のネームカードを一瞥し、鼻で笑った。

「ふん。随分と暇なようだな。こんな所で女性に絡む時間があるなら、少しは論文でも読んだらどうだ? 君の大学の教授にも、よろしく伝えておくよ」

「ひっ……!」

陽介の顔が青ざめる。

「す、すみませんでした……!」

陽介は脱兎のごとく逃げ出した。

その背中は、あまりに情けなく、小さかった。

嵐が去り、静寂が戻る。

皐月は深々と頭を下げた。

「……ありがとうございました。助かりました」

「……礼には及ばん」

雨宮はふいと視線を逸らした。

「学会場は公の場だ。痴話喧嘩なら外でやれ」

言葉は厳しい。けれど、その声には先ほどのような冷たさはなかった。

彼は皐月の手首――陽介に強く掴まれて赤くなっている部分――をじっと見つめ、眉をひそめた。

「……大丈夫か」

「あ、はい。平気です」

その時、皐月のスマホがけたたましく鳴り響いた。

画面には『美雲先生』の文字。

「あ、すみません! はぐれちゃってて……」

慌てて電話に出ようとすると、雨宮が言った。

「……戻るぞ。集合場所まで送る」

「えっ、でも……」

「また変な輩に絡まれたら面倒だ。私の業務に支障が出る」

そう言い捨てると、彼はスタスタと歩き出した。

不器用な優しさ。

皐月は胸の奥が温かくなるのを感じながら、「はい!」と答えてその背中を追いかけた。

集合場所のロビーに戻ると、美雲たちが待っていた。

「あ、皐月ちゃん! 遅いよー!」  皐月は雨宮に頭を下げた。 

「ここまでで大丈夫です。本当にありがとうございました。……あの、もしよろしければ、雨宮先生も一緒に……」

「いや、私は結構だ」 

雨宮は即答した。

「まだ残務がある。お前たちは好きにしろ。……羽目を外しすぎるなよ」

彼は短く釘を刺すと、美雲たちに軽く会釈をして、夜の人混みの中へと消えていった。

その背中は、どこか孤独で、でも頼もしかった。



夜。横浜中華街。

極彩色のネオンが輝く通りを抜け、彼女たちは老舗レストランの円卓を囲んでいた。

メンバーは皐月、美雲、霧生、霜田。

そして、なぜか雪村もいる。

「……俺は部屋で寝てたいのに」

雪村が不満げに言った。

「いいじゃない、雪村くん!発表の打ち上げよ!付き合いなさいよ」

美雲がニッコリ笑う。

「そうですよ雪村先生! ノリ悪いなー!」 

霧生が肩を組もうとするが、雪村は「触るな、暑苦しい」と払いのける。

総勢5名。

皮膚科医局の若手が集結した円卓。

「かんぱーい!」

青島ビールと紹興酒で乾杯し、次々と運ばれてくる料理に舌鼓を打つ。

霜田は上機嫌で紹興酒をロックで煽っていた。

「ぷはーっ! やっぱ中華には紹興酒よね! 五臓六腑に染み渡るわー!」

豪快な飲みっぷりだ。彼女は霧生の「彼女持ち」発言にもめげず(むしろ尊いと崇め)、独身貴族の夜を謳歌している。

「あーあ、どっかにいい男落ちてないかしらねぇ。私の毒を中和してくれるような、太陽みたいな人がいいんだけど」 

霜田が頬杖をついて嘆く。

美雲が苦笑しながら烏龍茶を差し出す。

「まあまあ、霜田先生。アプリがダメなら、身近な人はどうですか? 灯台下暗しって言うし」

「身近ぁ? 例えば?」

「うーん……雪村くんとか!」

「ぶっ!!」

雪村が烏龍茶を吹き出した。

「な、何を言ってるんですか和泉先生!」 

「えー、いいじゃん。雪村くん、将来有望だし」

霜田はジロジロと雪村を品定めするように見て、バッサリと切り捨てた。

「ないわね。年下は対象外よ! ガキすぎるもの!」

「……こっちから願い下げですよ」

雪村がムッとして言い返す。

「じゃあ……雨宮先生とか!」

美雲が次のターゲットを指差す。

「ぜっっったい、ありえない!!」

霜田の全力の拒絶。テーブルが揺れるほどの勢いだ。 

「いい、和泉先生? 今はだいぶ丸くなったけどね、昔は本当に鬼のように怖くて、『鬼宮(おにみや)』って影では呼ばれてたんだから!」

「お、鬼宮……」

「そうよ! 指導はスパルタだし、目は笑ってないし、あんなのと付き合ったら寿命が縮むわよ! 私はねぇ、もっとこう……癒やし系がいいの!」

霜田はプルプルと首を振る。どうやら雨宮は、彼女の中で「男性」というより「恐怖の対象(上司)」としてカテゴライズされているようだ。

その時、霧生がふと思い出したように皐月を見た。

「そういえば天野先輩。さっき集合場所に戻ってきた時、雨宮先生と一緒でしたよね? 何してたんですか?」

ドキリとした。

美雲と霜田も「あ、私も気になってた」と視線を向けてくる。

昼間の出来事。元婚約者にホテルに誘われ、それを雨宮に助けられたなんて、口が裂けても言えない。

皐月は必死に思考を巡らせた。

 「あー……えっとね」

皐月は視線を泳がせながら、とっさに嘘をついた。

「ちょっと迷子になっちゃって。そしたら偶然通りかかった雨宮先生が、見かねて連れてきてくれただけだよ」

「へぇー。雨宮先生、優しいっすね」

「そうねぇ。あの人がわざわざ送ってくれるなんて珍しいわね」

美雲が意味深に微笑む。

ふと、雪村と目が合った。

彼はじっと皐月を見ていたが、何も言わずに視線を逸らし、自分の小籠包を皐月の皿にポンと置いた。

「……食え。冷めるぞ」

「あ、うん。ありがとう」

彼の不器用な気遣いと、あの時の雨宮先生の静かな守護。

二人の優しさに挟まれて、皐月は熱々の小籠包を口に放り込んだ。

口の中に広がる肉汁の熱さが、なんだか胸の奥まで染み渡るようだった。
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