『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱

第13話 港町の風と、最悪の再会

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6月上旬の金曜日。

新幹線の車窓を、梅雨の合間の晴れ間が高速で流れていく。

東京駅を経由して、彼女たちは横浜へと向かっていた。

「うわーっ!見てください天野先輩!ガイドブックに載ってる中華街の麻婆豆腐、超うまそうじゃないっすか!?」

隣の席で、霧生が子供のようにはしゃいでいる。

「霧生くん、声大きいってば。修学旅行じゃないんだから」

皐月は苦笑しながら、彼を窘める。

通路を挟んだ反対側の席では、美雲が優雅に『るるぶ横浜』を広げていた。

「いいじゃない、皐月ちゃん。学会は勉強半分、観光半分よ。せっかくの横浜なんだから楽しまなきゃ損だし、夜は美味しいもの食べに行きましょうよ」

「ですね! 俺、店のリサーチ完璧っすから!」

今日から4日間、パシフィコ横浜で開催される「日本皮膚科学会総会」。

彼女たちはオンコールの関係もあり、今日と明日の二日間だけ参加する予定だ。

ちなみに、発表者の雪村と霜田は、昨日のうちに現地入りしている。

二人の明るい声を聞きながら、皐月はふと窓の外に目をやった。

近づいてくる横浜の街並み。

都内の大学病院にいた頃、元婚約者の陽介とよくデートに来た場所だ。

みなとみらいの夜景、赤レンガ倉庫のカフェ、コスモワールドの観覧車。

(……大丈夫。もう終わったことだもん)

皐月は小さく首を振り、車窓の景色から無理やり意識を逸らした。

みなとみらい駅を降りて地上に出ると、そこには抜けるような青空と、近代的なビル群、そして海が広がっていた。

「うわぁぁぁーーーっ!!海だーーーっ!!」

「すごーい!潮の匂いがするー!」

霧生と美雲が、同時に叫んだ。

二人はキラキラした目で海を指差し、キャッキャと騒いでいる。

通行人がギョッとして振り返る中、皐月は恥ずかしさで顔を覆いたくなった。

「ふたりとも、落ち着いてください……!」

「……はあ。これだから海無し県の田舎者は困るんだ」

呆れたような声がして振り返ると、エスカレーターの下で雪村が腕組みをして立っていた。 

スーツ姿にネームカードを下げ、いつもの不機嫌そうな顔をしている。

「雪村!なんでここにいるの? 発表終わったんじゃなかったっけ?」

「……お前らが迷子になってないか見に来てやったんだ」

雪村はフンと鼻を鳴らした。

「パシフィコ横浜は広くて迷いやすい。田舎者がウロウロしてたら医局の恥だからな」

「何それ、わざわざ迎えに来てくれたの?」

「ち、違う! ついでだ、ついで! コンビニ行くついで!」 

雪村が分かりやすく動揺して視線を逸らす。コンビニなんて会場内にもあるのに。

皐月は思わず笑ってしまった。

皐月は小さく笑う。この不器用な優しさが、今の彼女には何よりも温かかった。

「はいはい、ありがとうね。でも海見てテンション上がるのは県民性だから許してよ」

「意味不明だ。……行くぞ」

雪村がスタスタ歩き出し、皐月と美雲たちは慌ててその背中を追う。

ふと、皐月の視線の先に巨大な観覧車が映った。

――『コスモクロック21』。

クリスマス、陽介と乗った場所だった。「来年は夫婦で来ような」と笑った彼の横顔が一瞬よぎる。

胸の奥がズキリと痛んだ。
楽しげな風景の中で、自分だけが取り残されたような感覚が押し寄せる。

俯きかけた、その瞬間だった。

ボフッ。

視界の前に、突然何かが差し出された。

小さな、月餅だった。中華街でよく見かける、個包装の月餅だ。

「……やるよ」

雪村がそっぽを向いたまま言う。

「昨日、霜村先生と下見に行った時に買ったやつだ。……奢るって約束しただろ」

皐月はハッとした。先日彼の仕事を手伝った際、「中華街奢ってやる」と言われたことを思い出す。

「これ、くれるの?」

「糖分補給だ。広い会場を歩き回るのにバテられたら迷惑だからな」

投げるような言い方。けれど――皐月が暗い顔になった、その一瞬を見逃さなかったかのようなタイミングだった。

皐月は月餅を受け取り、その重みにそっと指を添えた。

「……ありがとう。大事に食べるね」

「さっさと食って脳に糖分回せ。置いてくぞ」

雪村は再び早足で歩き出す。

手の中の月餅から、甘い香りがふわりと立ち上った。

陽介との思い出がどうであれ、皐月はこの場所に“今の自分のため”に来ている。そして――気にかけてくれる仲間が、確かに側にいる。

皐月はポケットに月餅をしまい、顔を上げた。

今度は、しっかりと雪村の背中を追いかけて歩き出した。



パシフィコ横浜の巨大なホールは、全国から集まった数千人の皮膚科医たちの熱気で包まれていた。

ポスター会場の一角で、霜田がガチガチに緊張して立っていた。

「どうしよう……心拍数が120超えてる気がする……吐きそう……」

いつもの「鉄の女」の面影はない。

その横で、雨宮が腕組みをして立っていた。

「落ち着け、霜田。お前のデータは完璧だ。想定問答も昨日確認しただろう」

「で、でもぉ……もし座長の先生に意地悪な質問されたら……」

「その時は俺が割って入る。お前は堂々としていればいい」

淡々とした、けれど力強い言葉。

雨宮のその一言で、霜田の肩の力が少し抜けたようだった。

(やっぱり、雨宮先生は頼りになるなぁ……)

遠くから見ていた皐月は、改めて指導医の大きさを感じていた。

やがて、霜田の発表が始まった。

緊張しながらも、彼女は持ち前の真面目さで丁寧に症例を報告していく。

質疑応答の時間。フロアから鋭い質問が飛んだ。

「その症例における免疫染色の解釈ですが、偽陽性の可能性は除外できていますか?」

「え、あ、それは……えっと……」

霜田が言葉に詰まる。

すかさず、雨宮がマイクを取った。

「共同演者の雨宮です。ご指摘の点につきましては、追加で蛍光抗体法を行い、特異性を確認しております。……こちらのスライドをご覧ください。抗体の特異性を担保するためのコントロール実験も行っており、偽陽性の可能性は極めて低いと考えられます」

完璧なフォロー。質問者は「なるほど、失礼しました」と引き下がった。

発表が終わり、安堵した表情で戻ってきた霜田を囲んで、彼女たちは休憩スペースへ移動した。



「いやー、雨宮先生さすがっすね!」

霧生が興奮気味に言う。

「でも俺、思ったんすけど。あの質問の前に言う『素人質問で恐縮ですが』って枕詞、あれ何なんすか? 全然素人じゃない専門的な質問ばっかりじゃないっすか!詐欺っすよ詐欺!」

霧生の大きな声に、周囲の医師たちが数人、プッと吹き出した。

皐月も美雲も苦笑いするしかない。学会あるあるだ。

「ちょ、ちょっと霧生くん! 声大きいわよ! 教授たちに聞かれたらどうすんの!」

霜田が真っ赤になって彼をポカポカ叩く。

その後、雪村は「聞きたい講演がある」と言って去っていった。

残った皐月、美雲、霜田、霧生の4人は、企業展示ブースへ向かった。

「見て、霧生くん。ここが企業ブース。最新のレーザー機器とかが見れるし、アンケートに答えるとノベルティが貰えたりするのよ」

美雲が説明すると、霧生が目を輝かせた。

「マジっすか!化粧品のサンプルとかもあるんすね!よっしゃ、彼女へのお土産にしよ!」

「えっ!彼女いるの!?」

美雲が目を丸くして食いついた。

「どんな子!?同じ研修医?」

「いや、地元の同級生っす。高校の時から付き合ってるんで、もう8年目っすかね。最近肌荒れ気にしてるんで、喜びそうだなーって」

霧生は照れくさそうに頭をかきながら、無邪気に答えた。

「はっ……はちねん……?」

霜田が目を見開き、プルプルと震えだした。

そして次の瞬間、霧生の肩をガシッと掴んだ。

「あんた……!8年も付き合ってる純愛彼女がいるなんて……!!」

「え、霜田先生?」

「絶対手放しちゃダメよ!浮気なんてしたら私が許さないからね!罪よ、罪!」

霜田はなぜか感涙にむせびながら、霧生を激しく揺さぶった。

「は、はい……?もちろん大事にしますけど……」

「そうよ!女心はデリケートなんだから! サンプルだけじゃなくて、もっといいもの買って帰りなさい!」

霧生は「押忍!」と敬礼し、美雲と霜田に連れられてブースの奥へと消えていった。 

(……すごい熱量だなぁ)

皐月は苦笑しながら、三人の背中を見送った。



皐月は一人、皮膚画像解析装置のブースを見て回っていた。

最新のダーモスコピー(拡大鏡)の映像美に見入っているうちに、気づけば周囲は知らない医師だらけになっていた。

「そろそろみんなと合流しなきゃ……」

広大な展示ホールは迷路のようだ。スマホを取り出し、美雲に連絡しようとした時だった。

「……皐月?」

背後から、名前を呼ばれた。

皐月の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

聞き間違えるはずがない。
半年間、毎日聞いていた声。

そして、もっとも聞きたくなかった声。

恐る恐る振り返る。

そこには、皐月の記憶の中と同じ、人の良さそうな、少し頼りなげな笑顔を浮かべた男が立っていた。

高橋陽介。

皐月を裏切り、妊娠させた浮気相手と結婚するために婚約破棄をした、かつての恋人。

彼はスーツ姿で、首からは学会のネームカードを下げている。

その所属欄を見て、皐月は息を呑んだ。

『〇〇医科大学 皮膚科学教室』

そこは、皐月が研修医時代を過ごし、そのまま入局するはずだった都内の私立医大の名前。

彼は、皐月の席だったはずの場所に座り、皐月の未来だったはずの道を歩いている。

「……陽介」

喉が張り付いたように渇く。

彼は何事もなかったかのように、懐かしむような目で皐月を見てくる。

その無神経さに、怒りよりも先に吐き気がこみ上げた。

「久しぶりだね。元気だった?」

招かれざる再会。

横浜の風は、過去からの冷たい亡霊を運んできたようだった。
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