『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱

第12話 水疱の迷宮と、安心の処方箋

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5月下旬。

関東地方が梅雨入りしたというニュースが流れた翌日、外は朝から冷たい雨が降り続いていた。

湿気を帯びた空気は重く、医局内のテンションも低空飛行気味だ。

その日の夕方。

今日の救急当番である雪村のデスクで、PHSがけたたましく鳴り響いた。

「……はい、皮膚科雪村です」

『お疲れ様です、糖尿病内科の根岸です。80代男性、全身に水疱が多発している患者さんが来ています。発熱もあり、ぐったりしていて……コンサルトお願いします』

「わかりました。すぐ行きます」

雪村は電話を切ると、隣でカルテを書いていた研修医の霧生に声をかけた。

「霧生、行くぞ。救急だ」

「ういっす!どんな患者さんですか?」

「全身の水疱だ。天疱瘡(てんぽうそう)か類天疱瘡(るいてんぽうそう)か……いずれにせよ、入院が必要になるだろうな」

雪村が立ち上がりながら準備をする。

霧生が小走りでついてきながら、首をかしげた。

「えっと……天疱瘡とか類天疱瘡って、自分の免疫が皮膚を攻撃しちゃって、全身に水膨れができる『自己免疫疾患』でしたっけ?」

「そうだ。皮膚の細胞同士をくっつける『糊(のり)』のような成分が破壊されて、皮膚が剥がれたり水疱ができたりする。放っておけば感染症を起こして死ぬこともある」

「うわ、怖いっすね……」

 二人が医局を出ようとすると、ちょうど病棟から戻ってきた皐月と鉢合わせた。

「あ、お疲れ。救急?」

「手が空いてるなら手伝え。処置に人手が必要になるかもしれん」

雪村のぶっきらぼうな誘いに、皐月は「うん、行く!」と即答してついてきた。

先日の論文翻訳の一件以来、雪村の態度は軟化し、皐月に対しては敬語を使わなくなっていた。



救急外来の処置室。

ベッドには、認知症のある80代の男性が横たわっていた。

その皮膚の状態は、悲惨だった。全身の至る所に、パンパンに張った親指大の水疱が無数にできており、一部は破れてびらん(ただれ)になっている。

付き添いの妻と娘は、パニック寸前でオロオロしていた。

「お父さん、どうしちゃったの……!なんでこんな急に水ぶくれがいっぱいできちゃったの?」

雪村は冷静に患者の皮膚を観察した。

(……緊満性水疱(パンパンに張った水疱)。だが、周囲の紅斑(赤み)は少ない。粘膜疹なし)

雪村の脳内データベースが高速で検索をかける。

高齢者の全身性水疱といえば「水疱性類天疱瘡」が最も疑わしい。通常は赤い皮疹を伴うことが多いが、この患者は少し様子が違う。水疱だけが唐突に出現している印象だ。

「……ご家族の方、お薬手帳はありますか?」

雪村が尋ねると、娘さんが震える手で手帳を差し出した。

雪村はページをめくり、ある一点で指を止めた。

「……これだ」

「え? 何かあった?」

覗き込む皐月に、雪村は薬の名前を指差した。

「『シタグリプチン……DPP-4阻害薬』。糖尿病の薬だ。……こいつが犯人の可能性がある」

「えっ、糖尿病の薬で水疱ができるんすか?」

霧生が目を丸くする。

雪村は淡々と解説した。

「ああ。稀だが、この種類の糖尿病薬の副作用で、免疫バランスが崩れて『類天疱瘡』が誘発されることがあるんだ。特徴は、普通の類天疱瘡よりも炎症(赤み)が少なくて、水疱だけが目立つことだ。この患者の所見と一致する」

皐月は感嘆の声を漏らした。

「すごい……。私、ただの類天疱瘡だと思ってた。薬の確認も大切なんだね」

素直に感心する皐月を見て、雪村は「勉強不足だ」と鼻を鳴らした。

だが、悪い気はしなかった。

知識でマウントを取る快感よりも、彼女に頼られているという事実の方が、今の彼には心地よかった。

「よし、役割分担だ。霧生、ルート確保と採血。入院セットだ」

「了解っす!」

「天野、確定診断のために皮膚生検を頼む。水疱の縁を含むように紡錘形で切れ」

「わかった!」

「俺は家族へのムンテラ(説明)と入院手続きをする」

雪村の指示で、チームが動き出す。

霧生が手際よくルートを確保し、皐月が局所麻酔の準備をする。

雪村は家族に向き直った。

「……皮膚科の雪村です。病名は『水疱性類天疱瘡』の疑いです。糖尿病のお薬が原因の可能性があります」

「えっ、薬?ずっと飲んでたのに?」

「長く飲んでいても、突然出ることがあるんです。全身管理が必要なので、今日から緊急入院になります」 

「にゅ、入院!? なんの準備もしてないし、急に言われても……お父さん家じゃないと寝れないし……どうしよう……」

「入院」という言葉に、家族の動揺がピークに達した。

母親は泣き出し、娘さんも困惑して立ち尽くしている。

雪村は眉をひそめた。

医学的に正しい説明はした。

全身の水疱処置と、感染管理、血糖コントロールをするには入院は必須だ。

これ以上どう言えば伝わるのか。

論理的な説明を重ねようとして、口を開きかけた時だった。

「……お母さん、大丈夫ですよ」

処置の準備をしていた皐月が、家族の元へ歩み寄った。

そして、泣いている母親の背中をそっとさすった。

「急にこんなことになって、驚きましたよね。不安になるのも当然です」

「先生……でも、入院なんて……」

「お父さん、お家が大好きなんですね。でも、今の皮膚の状態だと、バイ菌が入って熱が出たりして、もっと大変なことになっちゃうかもしれないんです」

皐月は、患者本人にも聞こえるような優しい声で、ゆっくりと言った。

「だから、少しの間だけ私たちに預けてください。入院して、お薬を調整して治療をすれば、きっと良くなります。……私たちに、任せてもらえませんか?」

根拠のない「大丈夫」ではない。

専門家としての自信と、家族への寄り添いが同居した言葉。 

その声を聞いて、母親の強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。

「……わかりました。先生、お願いします……」

家族が落ち着いたのを見て、雪村は口を閉じた。 

(……勝てないな)

知識や診断力では俺が上だ。だが、この空気を作る力だけは、逆立ちしても敵わない。

湿疹続発性紅皮症の患者の時もそうだった。彼女には、理屈を超えて人を安心させる「何か」がある。



入院の手続きを終え、病棟で全身の水疱処置を行った。

3人がかりで無数にある水疱に針を刺して水を抜き、軟膏をたっぷりと塗り、ガーゼを当て、包帯で巻いていく。

終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。

「ふぅー……。終わったー!」

ナースステーションに戻った霧生が、椅子に座り込んで伸びをした。

雪村もカルテを書き終え、ふぅと息を吐く。

どっと疲れが出た。

「……お疲れ、雪村」

隣から声がした。

見ると、皐月が缶コーヒーを二つ持って立っていた。

彼女の髪は乱れ、顔には疲れが見える。

けれど、彼女は雪村に向かって、ふにゃりと無防備に微笑んだ。

「雪村の診断、すごかったね。……ありがとね」

その笑顔を見た瞬間。

雪村の心臓が、トクンと大きく跳ねた。

(家族を救ったあの声――あれを聞いた瞬間、胸がざわついたのはなぜだ)

雨の日の湿気。消毒液の匂い。

疲れた顔。飾らない言葉。

それらが渾然一体となって、雪村の胸の奥にある「何か」を揺さぶった。

「……別に。俺の当番だっただけだ」

雪村は慌てて視線を逸らし、彼女の手から缶コーヒーをひったくった。

指先が触れる。熱い。

「……お前こそ。家族への説明、助かった」

ボソリと言うのが精一杯だった。

皐月は「えへへ、そう?」と嬉しそうに笑い、自分のコーヒーを開けた。

(……参ったな)

雪村は、苦いブラックコーヒーを流し込んだ。

ただの「使えない同期」だったはずだ。

それがいつの間にか「認めるべき同僚」になり、そして今――「目が離せない存在」に変わりつつある。

窓の外では、雨が降り続いていた。

けれど、雪村の心の中には、言いようのない温かい灯りがともっていた。
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