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第二章 五月雨の迷路と、横浜の微熱
第11話 硝子のプライドと、許されたタメ口
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5月中旬。
走り梅雨の湿った空気が、街を包み込んでいた。
病院の敷地内では、紫陽花の蕾が少しずつ膨らみ始めている。
皮膚科医局の空気は、湿度とは別の理由で重苦しく張り詰めていた。
6月頭には、横浜で「日本皮膚科学会総会」が開催される。
全国の皮膚科医が集まる一大イベントであり、若手医師にとっては研究成果を発表する晴れ舞台でもある。
当医局からは、霜田と雪村が演題を発表することになっており、学会発表の「予演会」が行われていた。
「……以上で発表を終わります」
霜田が発表を終えると、2、3個質問が出たが、危なげなく返答していた。
「うん、よくまとまってるね。質疑応答の対策をしっかりとね」
柊教授が満足げに頷く。
霜田は「ありがとうございます」と笑みを浮かべた。
「次は、雪村くん」
指名された雪村が、緊張した面持ちで演台に立った。
彼にとっては、皮膚科医になって初めての全国学会での発表だ。
テーマは『末端黒子型黒色腫(メラノーマ)における微小環境解析』。
4月に皐月が翻訳を手伝わされた、あの難解な英語論文をベースにした、基礎研究寄りの発表だ。
雪村は流暢に喋り始めた。
膨大なデータ、完璧な論理構成、美しいスライド。
皐月なら噛んでしまいそうな専門用語も、彼は水が流れるように説明していく。
(すごい……やっぱり雪村は頭がいい)
席で聞いていた皐月は、素直に感心していた。
嫌味な奴だが、その知識量と努力量は認めざるを得ない。
これなら柊教授も絶賛するはずだ。
しかし。
発表を終えた雪村を待っていたのは、重苦しい沈黙だった。
「……雪村先生」
口火を切ったのは、指導医の雨宮だった。
彼は腕組みをしたまま、冷ややかな声で指摘した。
「君の発表は、データとしては優秀だ。だが、臨床への視点が欠けている」
「え……」
雪村が虚を突かれた顔をする。
「遺伝子発現の解析結果を並べるだけで、それが実際の患者の予後にどう関わるのか、治療戦略にどう繋がるのかが見えてこない。これでは、ただの『お勉強』の発表だ」
「そ、それは……今回は基礎的な知見の報告ですので……」
「学会に来るのは臨床医だ。目の前の患者を救うヒントがない発表など、誰も聞かないぞ」
雨宮の容赦ない言葉に、雪村の顔色が青ざめる。
さらに、佐伯医局長が追い打ちをかけた。
「スライドの枚数も多すぎるわね。詰め込みすぎで、何が言いたいのかぼやけてる。……悪いけど、構成から作り直した方がいいかもしれないわ」
「つ、作り直し……ですか?」
「修正版の提出期限、あと3日しかないわよ。できるわよね? 首席卒業の雪村先生なら」
期待という名のプレッシャー。
雪村は唇を噛み締め、震える声で答えた。
「……はい。修正します」
*
その日の深夜。
皐月が病棟から忘れ物を取ろうと医局に戻ると、部屋の隅でモニターの明かりだけが光っていた。
雪村だ。
彼は鬼気迫る形相でキーボードを叩き続けていた。
「……違う、これじゃダメだ。これじゃまた……」
ブツブツと何ごとかを呟いている。
削っても削っても、まだ足りないと言われている気がするのだろうか。
彼は時折、頭を抱えてデスクに突っ伏し、またすぐに顔を上げて入力を再開する。
その姿は、まるで何かに追われているようだった。
(……声、かけづらいな)
皐月は忘れ物の参考書をそっと手に取り、逃げるように医局を出た。
去り際、彼の小さな独り言が聞こえた気がした。
「……負けるわけにはいかないんだ。あいつらとは、違うんだ……」
その声は、自分自身に言い聞かせるような、悲痛な響きを帯びていた。
雪村の脳裏には、呪いのような家族の言葉が焼き付いている。
『最低でも旧帝医以上には受からないと箔がつかんぞ』
厳格な父の冷たい言葉。
そして、優秀な弟・怜が東大理Ⅲに現役合格した時の、母の無邪気で残酷な言葉。
『怜は優秀ねぇ。兄たちみたいに受験に失敗しないでよかったわ』
兄は受験に失敗し、ドロップアウトして「出来損ない」の烙印を押された。
自分は必死に勉強して、この大学を首席で卒業した。
それでも、理Ⅲに行った弟には勝てないのか。
親にとっては、自分も兄と同じ「失敗作」予備軍でしかないのか。
いや、違う。ここで結果を出せば。臨床でも研究でも、圧倒的な成果を出せば。
俺はあっち側じゃないと、証明できるはずだ。
その声に含まれていたのは、エリート特有の自信ではなく、もっと切実で、痛々しいほどの焦燥だった。
*
翌朝。
出勤してきた雪村の顔色は、土気色を通り越して真っ白だった。
昨夜、結局一睡もできなかったらしい。
朝のカンファレンス中も、彼は立っているのがやっとという様子で、時折小さくふらついていた。
「……ねえ、大丈夫?」
カンファレンス後、皐月は雪村に声をかけた。
雪村は焦点の定まらない目で皐月を睨んだ。
「……何ですか。僕の顔に何かついてますか」
「いや、顔色が最悪なんだけど。熱あるんじゃない?」
「余計なお世話です。これくらい……」
言いかけた瞬間、彼は激しく咳き込み、デスクに手をついた。
額には脂汗が滲んでいる。明らかに限界だ。
でも、今日の彼は担当患者の処置や、退院サマリーの作成など、業務が山積みだ。休める状況じゃない。
雪村もそれが分かっているから、無理にでも動こうとしている。
皐月はため息をつくと、雪村の手からバインダーに挟まれた書類の束をひったくった。
「あ……おい、何をするんですか!」
「貸して。これ、405号室の佐藤さんの同意書と、402号室のサマリー用のメモでしょ?」
「返してください。それは僕の仕事です」
「今のあんたがやっても、ミスして二度手間になるだけでしょ」
皐月は容赦なく言い放った。
「スライドの提出、明日までだよね?今日中に完成させないと間に合わないじゃん」
「っ……」
図星を突かれ、雪村が押し黙る。
「こっちの雑務は私がやっとくから。上の先生には言っとくし、仮眠室で少し休んで、頭スッキリさせてから直しなよ」
「……なんで」
雪村が、掠れた声で問うた。
「なんで、あなたがそこまでするんですか。僕の失態でしょう」
「同期だからだよ」
皐月は書類の束を小脇に抱え、あっけらかんと言った。
「それに、うちの医局から発表する人が倒れたら、私の仕事も増えるしね。……貸しにしとくから」
皐月は彼に反論の隙を与えず、足早に病棟へと向かった。
*
その日の夕方。
皐月が雪村分の業務を全て終えて医局に戻ると、彼はデスクに向かっていた。
少し仮眠を取ったのか、朝よりは顔色がマシになっている。
モニターには、完成したスライドが映し出されていた。
昨日のような文字の羅列ではなく、メッセージが明確な、洗練された構成に変わっている。
「……お疲れ」
皐月が声をかけると、雪村は手を止めて振り返った。
そして、皐月の顔をじっと見つめたまま、しばらく沈黙した。
プライドの高い彼のことだ。余計なことをしたと怒るかもしれない。あるいは、無視するか。
身構える皐月に、雪村はぼそりと言った。
「……見たぞ」
「え?」
「お前が入力したサマリーと、カルテ、オーダー」
雪村はふいと視線を逸らした。
「……誤字脱字もなければ、記載漏れもない。処置も適切だったそうだ。私立卒にしちゃ、及第点を与えてやってもいい」
相変わらずの減らず口。
でも、その声からは、今までのような「冷徹な壁」が消えていた。
「……助かった」
雪村は、蚊の鳴くような声で付け足した。
「ん? 何か言った?」
皐月がわざと聞き返すと、彼はバッと顔を上げ、眉間に皺を寄せて睨みつけた。
「一度しか言わないからな! ……今回は、お前に救われた。礼を言う」
怒っているのか感謝しているのか分からない表情。 そして、彼は一呼吸置いて、何かを決心したように言った。
「次はないからな、天野」
呼び捨て。
今まで頑なに「天野先生」「あなた」と呼び、慇懃無礼な敬語の壁を作っていた彼が。
「次は僕が勝つ。学会発表も、臨床も、お前には絶対負けない」
「……ふふっ」
皐月は思わず笑ってしまった。
「何がおかしい」
「ううん。いつもの嫌味な雪村に戻ってよかったなーって」
「はあ? ……お前、本当にムカつくな」
雪村は呆れたように息を吐くと、少し乱暴に自分の缶コーヒーを開けた。
「……横浜の中華街、美味い店知ってるか」
「え?」
「学会のあと、……お前が今日働いた分くらいは、奢ってやる」
それが、不器用な彼なりの「借りを返す」宣言だった。
「やった! じゃあ一番高いフカヒレ頼んじゃお」
「調子に乗るな。……小籠包くらいにしとけ」
雨上がりの夕暮れ。
窓の外には、雨に濡れた新緑が鮮やかに映えていた。
相変わらず口は悪いが、二人の間にあった分厚い壁は、この雨と一緒に少しだけ溶けたようだった。
雪村は、去りゆく皐月の背中を見つめながら、黒い感情を押し殺すように缶コーヒーを握りしめた。
(兄は受験に失敗し、親から「出来損ない」の烙印を押された)
自分の脳裏に焼き付いている、敗者の末路。
そして、目の前の女。
(こいつもそうだ。北関東の地方国立にすら受からず、金で入れる私立に逃げた。父さんの基準で言えば、明らかな「出来損ない」のはずだ)
それなのに。
今日、追い詰められた自分を救ったのは、その「出来損ない」だった。
彼女の仕事は完璧で、その手際は、悔しいほどに真っ当な医師のそれだった。
(……だが、認めるわけにはいかない)
雪村は苦いコーヒーを流し込む。
認めてしまえば、自分が信じてきた「価値基準」が崩れ去ってしまう気がしたからだ。
それでも、口の中に残る微かな甘さは、消そうとしても消えてくれなかった。
走り梅雨の湿った空気が、街を包み込んでいた。
病院の敷地内では、紫陽花の蕾が少しずつ膨らみ始めている。
皮膚科医局の空気は、湿度とは別の理由で重苦しく張り詰めていた。
6月頭には、横浜で「日本皮膚科学会総会」が開催される。
全国の皮膚科医が集まる一大イベントであり、若手医師にとっては研究成果を発表する晴れ舞台でもある。
当医局からは、霜田と雪村が演題を発表することになっており、学会発表の「予演会」が行われていた。
「……以上で発表を終わります」
霜田が発表を終えると、2、3個質問が出たが、危なげなく返答していた。
「うん、よくまとまってるね。質疑応答の対策をしっかりとね」
柊教授が満足げに頷く。
霜田は「ありがとうございます」と笑みを浮かべた。
「次は、雪村くん」
指名された雪村が、緊張した面持ちで演台に立った。
彼にとっては、皮膚科医になって初めての全国学会での発表だ。
テーマは『末端黒子型黒色腫(メラノーマ)における微小環境解析』。
4月に皐月が翻訳を手伝わされた、あの難解な英語論文をベースにした、基礎研究寄りの発表だ。
雪村は流暢に喋り始めた。
膨大なデータ、完璧な論理構成、美しいスライド。
皐月なら噛んでしまいそうな専門用語も、彼は水が流れるように説明していく。
(すごい……やっぱり雪村は頭がいい)
席で聞いていた皐月は、素直に感心していた。
嫌味な奴だが、その知識量と努力量は認めざるを得ない。
これなら柊教授も絶賛するはずだ。
しかし。
発表を終えた雪村を待っていたのは、重苦しい沈黙だった。
「……雪村先生」
口火を切ったのは、指導医の雨宮だった。
彼は腕組みをしたまま、冷ややかな声で指摘した。
「君の発表は、データとしては優秀だ。だが、臨床への視点が欠けている」
「え……」
雪村が虚を突かれた顔をする。
「遺伝子発現の解析結果を並べるだけで、それが実際の患者の予後にどう関わるのか、治療戦略にどう繋がるのかが見えてこない。これでは、ただの『お勉強』の発表だ」
「そ、それは……今回は基礎的な知見の報告ですので……」
「学会に来るのは臨床医だ。目の前の患者を救うヒントがない発表など、誰も聞かないぞ」
雨宮の容赦ない言葉に、雪村の顔色が青ざめる。
さらに、佐伯医局長が追い打ちをかけた。
「スライドの枚数も多すぎるわね。詰め込みすぎで、何が言いたいのかぼやけてる。……悪いけど、構成から作り直した方がいいかもしれないわ」
「つ、作り直し……ですか?」
「修正版の提出期限、あと3日しかないわよ。できるわよね? 首席卒業の雪村先生なら」
期待という名のプレッシャー。
雪村は唇を噛み締め、震える声で答えた。
「……はい。修正します」
*
その日の深夜。
皐月が病棟から忘れ物を取ろうと医局に戻ると、部屋の隅でモニターの明かりだけが光っていた。
雪村だ。
彼は鬼気迫る形相でキーボードを叩き続けていた。
「……違う、これじゃダメだ。これじゃまた……」
ブツブツと何ごとかを呟いている。
削っても削っても、まだ足りないと言われている気がするのだろうか。
彼は時折、頭を抱えてデスクに突っ伏し、またすぐに顔を上げて入力を再開する。
その姿は、まるで何かに追われているようだった。
(……声、かけづらいな)
皐月は忘れ物の参考書をそっと手に取り、逃げるように医局を出た。
去り際、彼の小さな独り言が聞こえた気がした。
「……負けるわけにはいかないんだ。あいつらとは、違うんだ……」
その声は、自分自身に言い聞かせるような、悲痛な響きを帯びていた。
雪村の脳裏には、呪いのような家族の言葉が焼き付いている。
『最低でも旧帝医以上には受からないと箔がつかんぞ』
厳格な父の冷たい言葉。
そして、優秀な弟・怜が東大理Ⅲに現役合格した時の、母の無邪気で残酷な言葉。
『怜は優秀ねぇ。兄たちみたいに受験に失敗しないでよかったわ』
兄は受験に失敗し、ドロップアウトして「出来損ない」の烙印を押された。
自分は必死に勉強して、この大学を首席で卒業した。
それでも、理Ⅲに行った弟には勝てないのか。
親にとっては、自分も兄と同じ「失敗作」予備軍でしかないのか。
いや、違う。ここで結果を出せば。臨床でも研究でも、圧倒的な成果を出せば。
俺はあっち側じゃないと、証明できるはずだ。
その声に含まれていたのは、エリート特有の自信ではなく、もっと切実で、痛々しいほどの焦燥だった。
*
翌朝。
出勤してきた雪村の顔色は、土気色を通り越して真っ白だった。
昨夜、結局一睡もできなかったらしい。
朝のカンファレンス中も、彼は立っているのがやっとという様子で、時折小さくふらついていた。
「……ねえ、大丈夫?」
カンファレンス後、皐月は雪村に声をかけた。
雪村は焦点の定まらない目で皐月を睨んだ。
「……何ですか。僕の顔に何かついてますか」
「いや、顔色が最悪なんだけど。熱あるんじゃない?」
「余計なお世話です。これくらい……」
言いかけた瞬間、彼は激しく咳き込み、デスクに手をついた。
額には脂汗が滲んでいる。明らかに限界だ。
でも、今日の彼は担当患者の処置や、退院サマリーの作成など、業務が山積みだ。休める状況じゃない。
雪村もそれが分かっているから、無理にでも動こうとしている。
皐月はため息をつくと、雪村の手からバインダーに挟まれた書類の束をひったくった。
「あ……おい、何をするんですか!」
「貸して。これ、405号室の佐藤さんの同意書と、402号室のサマリー用のメモでしょ?」
「返してください。それは僕の仕事です」
「今のあんたがやっても、ミスして二度手間になるだけでしょ」
皐月は容赦なく言い放った。
「スライドの提出、明日までだよね?今日中に完成させないと間に合わないじゃん」
「っ……」
図星を突かれ、雪村が押し黙る。
「こっちの雑務は私がやっとくから。上の先生には言っとくし、仮眠室で少し休んで、頭スッキリさせてから直しなよ」
「……なんで」
雪村が、掠れた声で問うた。
「なんで、あなたがそこまでするんですか。僕の失態でしょう」
「同期だからだよ」
皐月は書類の束を小脇に抱え、あっけらかんと言った。
「それに、うちの医局から発表する人が倒れたら、私の仕事も増えるしね。……貸しにしとくから」
皐月は彼に反論の隙を与えず、足早に病棟へと向かった。
*
その日の夕方。
皐月が雪村分の業務を全て終えて医局に戻ると、彼はデスクに向かっていた。
少し仮眠を取ったのか、朝よりは顔色がマシになっている。
モニターには、完成したスライドが映し出されていた。
昨日のような文字の羅列ではなく、メッセージが明確な、洗練された構成に変わっている。
「……お疲れ」
皐月が声をかけると、雪村は手を止めて振り返った。
そして、皐月の顔をじっと見つめたまま、しばらく沈黙した。
プライドの高い彼のことだ。余計なことをしたと怒るかもしれない。あるいは、無視するか。
身構える皐月に、雪村はぼそりと言った。
「……見たぞ」
「え?」
「お前が入力したサマリーと、カルテ、オーダー」
雪村はふいと視線を逸らした。
「……誤字脱字もなければ、記載漏れもない。処置も適切だったそうだ。私立卒にしちゃ、及第点を与えてやってもいい」
相変わらずの減らず口。
でも、その声からは、今までのような「冷徹な壁」が消えていた。
「……助かった」
雪村は、蚊の鳴くような声で付け足した。
「ん? 何か言った?」
皐月がわざと聞き返すと、彼はバッと顔を上げ、眉間に皺を寄せて睨みつけた。
「一度しか言わないからな! ……今回は、お前に救われた。礼を言う」
怒っているのか感謝しているのか分からない表情。 そして、彼は一呼吸置いて、何かを決心したように言った。
「次はないからな、天野」
呼び捨て。
今まで頑なに「天野先生」「あなた」と呼び、慇懃無礼な敬語の壁を作っていた彼が。
「次は僕が勝つ。学会発表も、臨床も、お前には絶対負けない」
「……ふふっ」
皐月は思わず笑ってしまった。
「何がおかしい」
「ううん。いつもの嫌味な雪村に戻ってよかったなーって」
「はあ? ……お前、本当にムカつくな」
雪村は呆れたように息を吐くと、少し乱暴に自分の缶コーヒーを開けた。
「……横浜の中華街、美味い店知ってるか」
「え?」
「学会のあと、……お前が今日働いた分くらいは、奢ってやる」
それが、不器用な彼なりの「借りを返す」宣言だった。
「やった! じゃあ一番高いフカヒレ頼んじゃお」
「調子に乗るな。……小籠包くらいにしとけ」
雨上がりの夕暮れ。
窓の外には、雨に濡れた新緑が鮮やかに映えていた。
相変わらず口は悪いが、二人の間にあった分厚い壁は、この雨と一緒に少しだけ溶けたようだった。
雪村は、去りゆく皐月の背中を見つめながら、黒い感情を押し殺すように缶コーヒーを握りしめた。
(兄は受験に失敗し、親から「出来損ない」の烙印を押された)
自分の脳裏に焼き付いている、敗者の末路。
そして、目の前の女。
(こいつもそうだ。北関東の地方国立にすら受からず、金で入れる私立に逃げた。父さんの基準で言えば、明らかな「出来損ない」のはずだ)
それなのに。
今日、追い詰められた自分を救ったのは、その「出来損ない」だった。
彼女の仕事は完璧で、その手際は、悔しいほどに真っ当な医師のそれだった。
(……だが、認めるわけにはいかない)
雪村は苦いコーヒーを流し込む。
認めてしまえば、自分が信じてきた「価値基準」が崩れ去ってしまう気がしたからだ。
それでも、口の中に残る微かな甘さは、消そうとしても消えてくれなかった。
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