『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第三章 炎天下の暴露と、逃げ水のような距離

第21話 生存戦略と、タクシーの中の本性

晴瑠が来てから数日。

医局の空気は、彼女の存在によって華やかに、そして少しだけ不穏に色づいていた。

「わー!美雲先生、そのアイシャドウ超可愛いですねっ!どこのブランドですか?」

「え、ほんと?ありがとう!新しいシリーズなんだけどね……」

晴瑠は、持ち前の愛嬌で美雲の懐にすんなり入っていた。

仕事も早く、要領が良い。

「可愛い後輩が来てくれた」と純粋に喜ぶ美雲の横で、皐月は少しだけ複雑な気持ちでいた。 

あの日、雪村を論破した時の冷たい目。

あれは私の見間違いだったのだろうか。
普段の彼女はこんなにも人懐っこいのに。

「皐月先生!この処置の手順、教えてもらっていいですか?」

「うん、いいよ。ここはね……」

(……まあ、悪い子じゃないよね。雪村の言い方も酷かったし)

皐月は自分に言い聞かせ、彼女を受け入れることにした。



「よし!じゃあ今日は晴瑠ちゃんの歓迎会だよ!」

美雲の号令で、その日の夜、若手医師たちによる飲み会が開催された。 メンバーは晴瑠を筆頭に、皐月、美雲、霜田、小林。そして……。

「……なんで俺まで」

一番端の席で、雪村が不満げにウーロン茶を飲んでいる。

「当たり前でしょ!同じチームなんだから!あんたが一番年近いんだし、仲良くしなさいよ」

「痛い……。暴力反対です」

霜田に叩かれ、雪村は渋々席につく。



会が盛り上がってきた頃。
ビールですっかり出来上がった霜田が、晴瑠に身を乗り出した。

「ねえねえ、立花先生って彼氏いるの?」

定番の質問だ。
晴瑠は、少し恥ずかしそうに首を振った。

「いえ、いないです。私、今まで彼氏いたことなくて……」

「えー!?うっそだー!こんなに可愛いのに!?」

場がどよめく。晴瑠は頬を染め、もじもじしながら言った。

「私、小中高一貫の女子校出身で……奥手なんです。それに、大学に入ってからずっと片思いしてる人がいて」

「えっ!」

「誰!?どんな人!?」

霜田の目がギラリと光る。晴瑠は人差し指を唇に当てて、可愛らしく微笑んだ。

「あはは……それは秘密です」

その一途な様子に、皆が「青春だねぇ」と盛り上がる。
ただ一人、雪村だけは興味なさそうにスマホをいじっていた。

その時だった。

ピピピピピ……!

皐月のバッグの中で、PHSが鳴り響いた。オンコールだ。

 画面を見る。『病棟看護師』。

「……はい、皮膚科オンコール天野です」

『夜分にすみません!入院中の加藤さんの術後創部から出血がありまして……!』 

「わかりました。すぐ行きます」

皐月は電話を切り、皆に頭を下げた。

「ごめんなさい!呼ばれちゃったので、お先に失礼します!」

「えー、また?皐月ちゃん、最近当たり強くない?」

同情されながら、皐月は慌ただしく店を飛び出した。



病院に戻り、患者の止血処置を終えた頃には、21時を過ぎていた。

幸い、圧迫と数針の縫合で止まった。

「ふぅ……疲れた」

重い足取りで医局に戻る。

電気は消えていると思ったが、奥のデスクに明かりがついていた。

「……雨宮先生?」

そこにいたのは、雨宮だった。
眼鏡を外し、眉間を揉みながらモニターを見つめている。

「……天野か」

彼は皐月に気づくと、眼鏡をかけ直した。

「こんな時間まで何してるんですか?」

「論文の査読だ。……お前こそ、今日は新人歓迎会をやると聞いているが。何をやってる」 

「あ、えっと、オンコールで呼ばれたので……」

皐月が答えると、雨宮の眉間に深い皺が刻まれた。 彼はゆっくりと椅子を回転させ、皐月を睨みつけた。

「……なぜ、私に連絡しなかった」

「えっ?いえ、自分で対応できる範囲だったので! それに、先生もお忙しいと思って……」

「先日も言ったはずだ」

雨宮の声が低くなり、皐月はビクリと震えた。

五十嵐と対応した壊死性筋膜炎。
「自分一人で背負えると思うな」と怒られた記憶が蘇る。

「自分の判断に自信を持つのはいい。だが、それは慢心と紙一重だと言っただろう。術後の出血なら、万が一の再手術の可能性も考慮して、上級医の耳に入れておくのが筋だ。……お前はまだ、何も学んでいないのか」

厳しい口調。 
皐月は唇を噛み締め、俯いた。

「……申し訳、ありません」

反論できない。
配慮のつもりでも、報告を怠ったのは事実だ。

沈黙が痛い。

雨宮は呆れたように大きなため息をつくと、立ち上がって自販機の方へ向かった。

戻ってきた彼の手には、二つの缶コーヒーがあった。 
一つを、皐月のデスクに置く。

「……飲め。カフェインレスだ」

「えっ?」

驚いて顔を上げると、雨宮はもう自分の席に戻り、背中を向けていた。

「顔色が悪い。……歓迎会でろくに食べていないんだろう」

「あ、ありがとうございます……」

受け取ると、温かい。 
厳しく叱られた直後の、不器用な優しさ。
その温度差に、皐月の胸が締め付けられる。

「……次は必ず、連絡します」

「ああ。……お疲れ様」

ぶっきらぼうな労いの言葉。 
皐月は缶コーヒーを両手で包み込み、「はい」と小さく答えた。

厳しいけれど、ちゃんと見ていてくれる。
その安心感が、疲れた体に染み渡っていくようだった。



一方その頃。晴瑠の歓迎会も終わりを迎えていた。

「じゃあ、私はこっちだから」

「お疲れ様でしたー!」

各々が帰路に着く。

「……タクシー拾うか」

雪村が通りに出ようとすると、晴瑠が後ろからついてきた。

「雪村先生!お家、どの辺ですか?」

「……〇〇町だが」

「えっ、奇遇!私も〇〇町なんです!相乗りさせてください!」

晴瑠は満面の笑みで提案した。

「……はぁ?なんで俺が」

「いいじゃないですかぁ、タクシー代浮きますし!エコですよ、エコ!」

結局、雪村は押し切られる形で、彼女と共にタクシーに乗り込んだ。



車内。流れる街灯。

晴瑠は「雪村先生ってぇ、普段どんな音楽聴くんですかぁ?」と、相変わらずの猫撫で声で話しかけてくる。

雪村は窓の外を見ながら、限界に達したように冷ややかに言った。

「……おい。いい加減にしろよ」

「え?」

「俺に取り入ろうとしてるのか知らんが、無駄だぞ。お前のその『良い子ちゃん』演技、見てて反吐が出る」

雪村の言葉に、車内の空気が凍りついた。
晴瑠の動きが止まる。

数秒の沈黙。

やがて、彼女は「はぁー」と長く、深く、重い溜め息をついた。

「……バレちゃいましたか」

声のトーンが、一段下がった。

さっきまでの甘ったるい響きは跡形もなく消え失せている。

彼女はシートに深く背を預け、気怠げに足を組んだ。その横顔からは、愛嬌など欠片も感じられない。

「ま、雪村先生みたいな陰険な人には、どう思われてもいいですけどね」

「……なんだと?」

「別に『取り入ろう』なんてしてませんよ。……ただ、皆に愛されたい……敵を作りたくないだけです」

「愛されたい……?」

「そうですよ。雪村先生だって、どうせ一緒に働くなら『可愛くて優秀な研修医』の方がいいですよね?せっかく完璧に演じてあげようとしてたのに、『反吐が出る』なんて……」

晴瑠は雪村を睨みつけた。
その目には、「必死に作り上げた完璧さ」を否定された怒りが滲んでいた。

雪村は呆気にとられた。

「お前……それが本性か」

「本性っていうか、生存戦略です。……大人なら当たり前でしょ?」

タクシーが赤信号で止まる。
赤いテールランプの光が、晴瑠の顔を照らし出した。

窓ガラスに映る彼女の瞳は、底知れぬほど冷たく、濁っていた。

「ま、雪村先生が何言っても無駄ですよ。今の医局、私の方を信じる人の方が多そうですし」

彼女はニコッと笑った。

その笑顔は、歓迎会で見せていた「恋する乙女」の表情とは似ても似つかない、どこか悲痛なものだった。

目的地に着き、ドアが開く。

晴瑠は瞬時に表情を切り替え、「じゃ、ご馳走様でしたー!おやすみなさーい!」と、再び猫を被って降りていった。

残された雪村は、遠ざかる彼女の背中を見送った。
背筋に、冷たいものが走る。

(……とんでもない女だ)

ただの「ぶりっ子」ではない。
この女は、必ず医局に嵐を呼ぶ。

雪村の予感は、確信へと変わっていた。
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