『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第三章 炎天下の暴露と、逃げ水のような距離

第23話 外勤先の戦友と、医局の探り合い

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7月上旬。

皐月は、朝から新しい戦場に立っていた。

今日から週に一回、市内の公立病院へ「外勤(派遣)」に行くことになったのだ。

地域の基幹病院で、一般皮膚科外来を担当する。

初日の外来は、予想を遥かに超える激務だった。

待合室は患者で溢れかえり、看護師からは「2時間待ちです」という悲鳴のような報告が入る。

「……次の方、どうぞ」

診察室に入ってきたのは、30代の男性だった。
苦悶の表情を浮かべている。

「背中が痛くて……なんか腫れてるんです」

診察すると、背中に拳大のしこりがあり、赤く腫れ上がっていた。中央に開口部が見える。

炎症性粉瘤だ。

皮膚の下に袋ができ、そこに垢や皮脂が溜まって炎症を起こしている状態。

(切開処置が必要だけど……今のこの状況じゃ……)

皐月は待合室の混雑状況と、手元のカルテの山を見比べた。

処置には準備と時間がかかる。

今、皐月が処置室に篭ってしまったら、外来が完全にパンクしてしまう。

でも、この患者をこのまま帰すわけにはいかない。

ふと、医局長に言われた言葉を思い出す。

『その病院は形成外科も外来やってるから、難しい処置はそっちに回していいことになってるわよ。無理して抱え込まないこと』

皐月は藁にもすがる思いで、今日の勤務表を確認した。

そこに書かれていた形成外科担当医の名前を見て、思わず二度見した。

『五十嵐拓海』

(……五十嵐も、ここに来てるんだ)

以前の皐月なら、気まずくて頼めなかったかもしれない。でも、今は違う。

彼女は迷わず内線電話をかけた。

「あ、お疲れ様です。皮膚科の天野です。背中の炎症性粉瘤の患者さんがいらしてるんですが、外来が混み合っていて手が回らなくて……切開お願いできますか?」

『……おう。回してくれ。こっちは今一段落したとこだ』

電話越しの声は、いつも通りぶっきらぼうだが、拒絶の色はない。

皐月はホッとして、患者を形成外科に案内した。

夕方。

全ての業務を終え、病院の裏口から出ると、ちょうど五十嵐も出てきたところだった。

「……よう」

「あ、五十嵐。お疲れ様」

「今日からお前も外勤か」

彼は自販機で買った缶コーヒーを飲んでいる。

「うん。さっきはありがとう。忙しかったから助かったよ」

「別に。あんなの俺らの仕事だろ」

五十嵐はそっけなく言うと、歩き出した。

二人は自然と並んで、駐車場までの道を歩き始めた。 

夕暮れの風が、汗ばんだ肌に心地よい。

9年前のような「親友」ではないけれど、絶縁状態だった春よりはずっといい。

「仕事仲間」としての、適度な距離感。

それが今の皐月には心地よかった。



同時刻。大学病院の皮膚科医局。

医局の片隅で、雪村は一人、モニターの明かりに照らされていた。

他の医局員たちは出払っており、広い部屋には彼一人だ。

集中してキーボードを叩いていると、不意に背後から声をかけられた。

「……雪村先生?」

振り返ると、晴瑠が立っていた。

彼女は自分のデスクにタブレットを置くと、クルリと椅子を回して雪村の方を向いた。

「他の先生方は?」

「……出払ってる。残っているのは俺だけだ」

雪村は顔も上げずに答えた。

ーーこの女は苦手だ。 

愛想よく振る舞っているが、その目の奥には計算高さが見え隠れする。

自分と同類の匂いがするのだ。

「ふーん」

晴瑠は興味なさげに呟くと、勝手に雪村のデスクにある論文の束から一つを手に取った。

「……おい、勝手に触るな」

「へえ、面白そうなの読んでますね。『転移性黒色腫における免疫チェックポイント阻害薬の……』」

晴瑠はパラパラとページをめくりながら、英語のタイトルとアブストラクト(要旨)をスラスラと読み上げていく。

その流暢さに、雪村の手が止まった。

「……お前、読めるのか?」

「は?別に書いてあることそのまま日本語にしただけですけど」

晴瑠はキョトンとしている。

医学英語特有の難解な言い回しや専門用語を、辞書も引かずに、まるで週刊誌でも読むように斜め読みしている。

(……なんだこいつ)

雪村は戦慄した。

かつて、天野に翻訳させたあの論文と同じレベルの難易度だ。
天野は一晩かけて必死に訳してきたが、こいつは息をするように読んでいる。

基礎学力が違いすぎる。
……悔しいが、認めざるを得ない。

「雪村先生って、研究熱心なんですね」

晴瑠は論文をポンと戻すと、つまらなそうに言った。

「……そんなことより、一つ聞きたいことがあるんですけど」

「……なんだ」

「雪村先生って、五十嵐先輩と大学の同級生だし、皐月先生とも皮膚科の同期ですよね?」

晴瑠の目が、獲物を狙う肉食獣のように細められた。

「あの二人の関係について、何か知りませんか?」

直球だ。
雪村は眼鏡の位置を直しながら、冷ややかに答えた。

「……知ってどうする」

「どうもしませんよ。ただの知的好奇心です。……元カレ元カノ説とか、色々あるじゃないですか」

「くだらん。……お前に教える義理もない」

雪村は再びモニターに向き直った。

……関わりたくない。
この女のドロドロした感情に巻き込まれるのは御免だ。

しかし、晴瑠は食い下がった。

「『教える義理はない』ってことは、何か知ってるってことですよね?」

彼女はニヤリと笑い、雪村の顔を覗き込む。

「なんで教えてくれないんですか?もしかして雪村先生って……」

晴瑠は悪戯っぽく、しかし核心を突くように囁いた。

「皐月先生のことが好きで、庇ってるんですか?」

ドクン。

雪村の指先が、キーボードの上で硬直した。

図星を突かれた動揺。

脳裏に、記憶がフラッシュバックする。 

先日の横浜。
中華街の路地裏。

熱々の小籠包を頬張って、「美味しい!」と無邪気に笑った皐月の顔。

人混みの中で転びそうになった彼女の腕を引いた時の、細い感触。 

『……危ないな』

あの時、自分の胸に去来した温かい感情。

それは、間違いなく「好意」だった。

だが、それ以上に、「自分で幕を引いたばかりの感情」を土足で踏み荒らされたことへの不快感が勝った。

帰りの新幹線で、彼女が見せた五十嵐への複雑な表情。

そこに入り込む隙間などないと悟り、理性で蓋をしたはずの感情だ。

それを、こんな他人に、面白おかしく暴かれてたまるか。

雪村は、湧き上がる動揺と苛立ちを隠すために、声を荒げた。

「はぁ!?馬鹿かお前は!妄想も大概にしろ!」

「えっ、ちょ、そんな怒らなくても……」

「そういうお前こそ!そんなこと嗅ぎ回って、どうせ五十嵐のことが好きなんだろ!?」

売り言葉に買い言葉。 

雪村の反撃は、晴瑠の急所を的確に貫いた。

「っ……!」

晴瑠の顔が、一瞬にして真っ赤に染まる。

彼女は言葉を詰まらせ、それから憤慨したように立ち上がった。

「ゆ、雪村先生には関係ありませんっ!もういいです、他の人に聞くんで!」

彼女はプイと顔を背け、足音荒く医局を出て行った。

バタン、とドアが閉まる。

一人残された雪村は、大きく深呼吸をして、椅子に深く沈み込んだ。

心臓が早鐘を打っている。

「……何やってんだ、俺は」

彼女の言う通りだ。

否定したかったのは、彼女に対してではなく、自分自身の淡い感情に対してだったのかもしれない。 

ーー天野は優秀な同期だ。
それ以上でも、以下でもない。

そう自分に言い聞かせ、雪村は苦い顔で眼鏡を外した。

「……鋭い女だ。本当に、可愛げがない」

呟きは、誰に届くこともなく、薄暗い医局に溶けていった。

認めてしまえば、楽だったかもしれない。

だが、雪村慧という男のプライドが、それを許さなかった。

(……この感情は、エラーだ。俺の人生には必要ない)

彼は、芽生えかけた淡い恋心に、二重三重に頑丈な鍵をかけた。

誰にもーー自分自身にさえも、二度と気づかれないように。

それが、彼の選んだ「正しい」選択だった。
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