『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第三章 炎天下の暴露と、逃げ水のような距離

第29話 渡された鉛筆と、遅すぎた後悔

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8月中旬。
殺人的な猛暑が続いている真夏。

皐月は仕事に没頭していた。

「雪村!山岡さんの明日の造影CTの同意書、取っといたよ!」

電子カルテの前で、皐月は雪村に明るく報告した。

「……別に頼んでいないが?」

雪村は怪訝な顔でモニターから目を離した。

「処置で大変かと思ってさ!ついでに今日入院の全麻手術の人の入院診療計画書も取っといたよ!」

(……暴走してるな)

雪村は、最近の形成外科合同カンファレンスのことを思い出していた。

開始前に一緒にコーヒーを買いに行き、それを飲みながら仲睦まじくしていた五十嵐と皐月。

そんな二人が、前回のカンファレンスでは、業務連絡以外で一切言葉を交わさず、目すら合わせなかった。

二人の関係が崩れかけているのは、誰の目にも明白だった。

(……こいつ、仕事に逃げてるな)

雪村は冷静に分析した。
辛い現実から目を逸らすために、思考停止して手を動かしているだけだ。

脳内に、どこからともなく悪魔の声が響く。

『弱ってる今が、付け入るチャンスだ』

(……やめろ。俺はそんなこと望んでいない)

雪村はその声を追い払った。
弱みにつけ込んで手に入れたとしても、それは彼女の心が手に入ったことにはならない。

「次は霜田先生の患者さんの同意書を取りに行こうかなー……ってあれ?」

皐月は、ポケットを探っている。

「……あれ、ボールペン……どこかで落としちゃったかも」

皐月は、困ったような顔で雪村を見た。

「雪村、ごめん。ちょっと貸してくれない?」

「ああ、いいが……」

雪村は胸ポケットから自分のボールペンを抜き、皐月に差し出した。

「ありがと……」

それを受け取ろうとした瞬間。
皐月の手がピタリと止まった。

(……あれ?)

視線の先にあるのは、雪村から差し出された一本のペン。

その光景が、9年前の記憶のトリガーを引いた。



高校3年、冬。
都内私立医科大学の受験前日。

放課後の図書室で、皐月は机に突っ伏して項垂れていた。

「……ついに明日だよ」

「あー、今夜出発だっけ?」

向かいの席で、五十嵐は黙々と重要問題集を解いている。
シャーペンを走らせる音だけが、静かな室内に響いていた。

「どうしよう五十嵐。センター試験も散々だったし、明日の試験も自信ない!」

「お前なら大丈夫だって。模試もC判定だったんだろ?」

「そんな安心できる判定じゃないよ!」

「それに本命は国立だろ」

「そうだけどさ……」

皐月は深くため息をついた。
不安で押しつぶされそうで、涙が出そうだった。

そんな彼女を見て、五十嵐は手を止めた。

そして、自分の筆箱をガサゴソと漁り、一本の鉛筆を取り出した。

『合格祈願』と書かれた五角形の鉛筆。

「……ほら。これ、ご利益あるから持っていけよ」

五十嵐がぶっきらぼうに差し出す。

「……いいの? これ、五十嵐の大事な鉛筆なんじゃ……」

「俺は私立受けないから貸してやる。絶対合格して、ハクをつけてこい」

彼の言葉には、根拠のない、けれど絶対的な自信が滲んでいた。
その強さが、皐月の震える心を支えてくれた。

「……ありがとう。元気出てきた!明日頑張ってくるよ!」

「ああ。いい報告、期待してる」

彼はニッと笑った。
その笑顔が、何よりのお守りだった。



(……あの時、五十嵐が力をくれたから合格できた。今の私がいるのは、五十嵐のおかげかもしれない)

9年前の温かい記憶に、皐月の心がじんわりと熱くなる。
同時に、今の冷え切った関係との落差に、胸が締め付けられた。

「……おい、天野」

雪村の低い声に、ハッと意識が戻る。

「さっさと受け取れ。非効率だ」

雪村は呆れたようにペンを突き出していた。

「あ、ごめんごめん!ありがとね雪村」

皐月は慌ててペンを受け取り、誤魔化すように笑った。

「……ああ」

(……またか)

彼女の様子を見て、雪村は二人と出会った運命の日を思い出していた。

9年前。国立大学前期日程の試験日。
北関東国立大学内の教室で、一人の女がパニックになっていた。
その女に、五十嵐が無言で鉛筆を渡した光景が鮮明に蘇る。

『……ほら。使えよ』

言葉少なに交わされたやりとり。
鉛筆を受け取り、顔を見合わせて頬を染め合う二人。

その時、二人の間に流れていた空気は、誰も立ち入れないほど濃密だった。

五十嵐はその後キャンパスで顔を見かけたが、その女はキャンパスに現れることはなかった。
その時の女が天野皐月だと雪村が知ったのは、つい数ヶ月前のことだ。

(……今、五十嵐のことを考えていたな)

雪村は、皐月の表情を見て悟った。

ボールペン一本借りるだけで、彼女の心は五十嵐の元へ飛んでいく。

彼女の中での五十嵐の大きさ。
そして、9年という時間の重み。

脳内の嫌な声がまた聞こえたが、今度は容易く無視できた。

(……入る隙などない。わかっている)

雪村は短く息を吐くと、再びモニターに向き直った。
その横顔には、諦念と、微かな寂しさが滲んでいた。



同日の夕方。

手術を終えた皐月と晴瑠は、並んで医局へ戻っていた。

「……今日の手術、大変でしたね」

「そうだね。癒着が強くて、剥離に時間がかかっちゃったよ」

交わされる会話はどこかぎこちない。

二人は表面上和解したとはいえ、わだかまりが完全に消えたわけではなかった。
無理に「同僚」として振る舞おうとする空気が、かえって痛々しい。

「……!」

不意に、皐月は足を止めた。
前方から歩いてくる人影に気づき、息を呑む。

「あ、いがら……」

「……っ」

五十嵐は皐月の存在に気づいた瞬間、表情を強張らせ、パッと視線を逸らした。
そして挨拶もせず、逃げるように早足ですれ違っていった。

それは単なる拒絶ではない。
何かから必死に逃れようとするような、悲痛な背中だった。

「おーい、五十嵐。そんなに急いでどこ行くんだよ」

雷久保が、ニヤニヤしながらその後を追っていく。

取り残された廊下で、皐月は立ち尽くしていた。

すれ違う時に見た、五十嵐の苦渋に満ちた表情。

(……あの時と、同じだ)

前期日程の合格発表の日。
『お前とは違うんだ!』と突き放されたあの日。

あの時の、追い詰められた顔と同じだった。

また、あの日に戻ってしまったのか……。
皐月は目の前が暗くなるような目眩を覚えた。

一方、その隣で晴瑠もまた、激しい自己嫌悪に襲われていた。

まるで何かに怯えるように、皐月から逃げ出した五十嵐。
その背中を見て呆然とする皐月。

(……望み通りになったはずなのに)

二人の関係は壊れた。
五十嵐の『聖域』から、皐月という異物は排除されたはずだ。
なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのか。

ーー自分が嫌われたから?違う。もっと根本的な違和感だ。

(……私は、こんなみっともない先輩を見たくなかった)

私が望んだのは、皐月先生を忘れて、凛とした『いつもの完璧な先輩』に戻ることだった。
なのに今の彼は、まるで傷ついた子供のように余裕がなく、無様ですらある。

「……私のせいだ」

先輩の聖域を暴こうとしたせいで、一番大切だった先輩の「誇り」まで壊してしまった。

取り返しのつかないことをしてしまった。

その事実に気づき、晴瑠は唇を噛み締めた。



同じ頃。病院の廊下。

雷久保は早足で逃げる五十嵐に声をかけていた。

「そんな急ぐなって。二人から逃げ出して……納涼会の件、まだ根に持ってるの?」

その言葉を聞き、五十嵐の足が止まる。

雷久保は、全てを見透かしたような口調で楽しげに続けた。

「まだ許してないんだ?」

五十嵐は苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てるように言った。

「……許すとか許さないとか、そんなんじゃありませんよ。ただ俺は……人の過去を晒し者にするような、ああいう卑怯なやり方が許せないだけです」

「ふーん。正義感が強いねぇ」

雷久保は芝居がかった感心を見せた後、スッと声を低くした。

「……でもさ。本当に、それだけ?」

彼は五十嵐の顔を覗き込むようにして、意地悪く笑った。

「……何がですか」

「お前がイライラしてる、本当の理由だよ」

雷久保は一歩、五十嵐に近づいた。

「晴瑠ちゃんを理由にしてるけど、本当は違うよね?……ショックだったんじゃないの?……皐月ちゃんに婚約者がいたことが」

五十嵐の表情が凍りついた。 
雷久保は構わず続ける、傷口に塩を塗るように続ける。

「お前がウジウジ悩んでる間に、彼女は東京で別の男と出会って、結婚までしようとしてた。……彼女の人生は、お前がいなくても進んでたんだよ」

「……ッ」

「それを突きつけられて、悔しかったんだろ?あの時ーー9年前に、その手を離さなければよかったって」

図星だったのだろうか。
五十嵐の顔色が蒼白になる。

「……やめてください!!」

五十嵐は雷久保を睨みつけると、乱暴な足取りで歩き去っていった。
その背中は、拒絶というよりも、自らの不甲斐なさから必死に逃げているようにも見えた。

「……ありゃりゃ。怒らせちゃった」

雷久保は悪びれもせず、肩をすくめた。

(……さて、どう転ぶか見物だねぇ)

不敵な笑みを残し、雷久保もゆっくりと歩き出した。



角を曲がり、人気のない非常階段へ逃げ込んだ五十嵐は、壁に拳を叩きつけた。

「……くそっ」

雷久保の言葉が、耳の奥で反響する。

『彼女の人生は、お前がいなくても進んでたんだよ』

立花の卑怯なやり方に腹を立てたのは事実だ。

だが、それ以上に、あの言葉を聞いた瞬間に湧き上がったのは、ドロドロとした嫉妬と、どうしようもない後悔だった。

ーー俺が何もしなかった9年間。

彼女は東京で、俺の知らない誰かと出会い、恋をして、結婚を約束していた。
俺の入る隙間なんてないくらい、彼女の人生は進んでいたのだ。

『……9年前に、その手を離さなければ』

あの日、彼女に八つ当たりをしなければ。
会えなくなる前に、あの日のことをちゃんと謝れていたら。

彼女は、他の誰かと婚約なんかしなかったかもしれない。
誰かに傷つけられて、逃げるように戻ってくることもなかったかもしれない。

スマホひとつあれば、連絡なんていつでも取れたのに。

「元気か?」の一言すら送らず、ただ運命に甘えて待ち続けた自分の、なんと情けないことか。

「……俺は、馬鹿だ」

五十嵐は、冷たい壁に額を押し付けた。

叩きつけた拳がジンジンと痺れ、熱を持っている。
だが、胸の奥に広がる喪失感に比べれば、こんな痛みは取るに足らないものだった。

痛みよりも、自分の愚かさが心に突き刺さっていた。
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