『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第三章 炎天下の暴露と、逃げ水のような距離

第28話 真夏の懺悔と、遠ざかる背中

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翌朝。 

皮膚科医局の空気はどんよりと淀んでいた。

「……はぁ。頭痛い」 

デスクで頭を抱えているのは、霜田だ。

「小林先生ぇ……水……」

「はいはい、どうぞ。昨日飲みすぎだよー」

小林が苦笑しながらペットボトルを渡している。

いつもの風景。

デスクでカルテを開いていた皐月は、こっそりと安堵の息を吐いた。

どうやら、昨夜の晴瑠の「暴露」は、あのテーブルの中だけで留まったようだ。

霜田や小林の態度に、よそよそしさや好奇の色はない。

皐月の「婚約破棄」と「都落ち」の事実は、医局全体には広まらずに済んだのだ。

(……よかった)

けれど、胸の奥の重りは取れない。

「……天野」

突然背後から声をかけられ、皐月は驚いた。
彼女が振り返ると、雪村が不機嫌そうな顔で立っていた。

「ちょっと来い。話がある」

「え、私?」

「いいから来い」

有無を言わせない迫力に、皐月は慌てて席を立った。

「なになに?珍しいね」

美雲が二人を茶化したが、雪村は無視して歩いていった。



着いた先は、人通りの少ない非常階段の踊り場だった。

そこには先客がいた。
立花晴瑠だ。

彼女は壁にもたれ、小さくなっていた。

いつもよりメイクは薄く、目は泣き腫らしたように赤い。

昨夜の彼女とは別人のように、脆く見えた。

「……連れてきたぞ」

雪村が短く告げると、晴瑠は顔を上げた。

「……皐月先生」

その声は掠れていた。 

雪村は腕組みをして壁に寄りかかり、「早くしろ」と無言の圧をかける。
彼は立会人として、ここにいるつもりのようだ。

晴瑠は、意を決したように皐月に向き直り、深く頭を下げた。

「昨日は……本当に、申し訳ありませんでした」

震える声が、コンクリートの壁に反響する。

「私の勝手な嫉妬で……先生のプライベートなことを、あんな場所で……。最低なことをしました。……本当に、ごめんなさい」

弁解のない、真っ直ぐな謝罪だった。

皐月は、彼女のつむじを見つめながら、昨夜の五十嵐の言葉を思い出していた。 

『大っ嫌いだ』

彼にそう言われ、軽蔑されたことが、彼女にとって一番の罰だったはずだ。

「……顔を上げて、晴瑠ちゃん」

 皐月が言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。不安そうな瞳。

「怒ってないと言えば嘘になるけど……でも、周りの先生たちには聞こえてなかったみたいだし、実害はなかったから」

「……はい。雪村先生にも、そう言われました。『お前の声が届いたのはあのテーブルだけだ』って」

彼女はチラリと雪村を見た。
雪村は「事実だ」と鼻を鳴らす。

どうやら、昨日の帰り道か何かに、彼がフォローしていたらしい。意外な組み合わせだ。

「だから、もういいよ。……それに、晴瑠ちゃんが言ったこと、嘘じゃないしね」

皐月は自嘲気味に笑った。

「私、本当に婚約破棄されて、逃げてきたんだよ。惨めだよね」

「そ、そんなこと……!」

「でも、ここに来たのは『母のような医者になりたい』っていうのも本当なの。……だから、これからは仕事で挽回するつもり」

皐月がそう告げると、晴瑠の目から再び涙が溢れた。

「……ごめんなさい……私、先輩のこと何も知らないで、勝手に敵視して……っ」

「もう泣かないで。また一緒に仕事しよ?私、晴瑠ちゃんの手技は信頼してるから」

皐月がハンカチを差し出すと、彼女はそれを受け取り、顔を覆って泣いた。

雪村はそんな二人を見て、呆れたようにため息をついた。



その日の午後。

晴瑠との「和解」を経て、皐月の心は少し軽くなっていた。

しかし、本当の問題はここからだった。

病棟に向かう廊下で、前方から歩いてくる五十嵐の姿を見つけた。

皐月の心臓が跳ねる。

昨夜、皐月を庇って怒ってくれた彼。
でも、彼女の「過去」を知ってしまった彼。

(……お礼、言わなきゃ)

皐月は勇気を出して、足を速めた。

「あ、五十嵐……!」

皐月が声をかけようとした、その瞬間。

五十嵐は皐月に気づくと、露骨に表情を強張らせた。
そして、フイと視線を逸らし、無言のまま早足で通り過ぎた。

「え……」

伸ばした手が、空を切る。
すれ違いざま、彼の横顔が見えた。

そこにあったのは、怒りでも軽蔑でもなく、痛々しいほどの「拒絶」と「逃避」だった。

「……っ」

皐月は立ち尽くした。 背中に冷たい風が吹き抜ける。

昨夜の「庇ってくれた五十嵐」は、もういない。 

ーー私の汚れた過去を知り、彼は見限ったのだろうか。それとも、関わりたくないと思ったのだろうか。

「……天野先生?」

後ろから看護師に声をかけられ、我に返る。

「あ、すみません……行きます」

遠ざかる五十嵐の背中は、一度も振り返らなかった。

晴瑠とは和解できた。

けれど、ようやく修復しかけていた五十嵐との関係は、9年前のあの日よりも遠く、決定的に断絶してしまったようだった。



一方、五十嵐は人気のない職員通路で立ち止まっていた。
壁にもたれかかり、荒い息を吐く。

ーー何をやっているんだ、俺は。

昨夜、立花にあれだけ啖呵を切ったじゃないか。『人の過去を暴く奴は嫌いだ』と。

天野は被害者だ。何も悪くない。
だから、普通に声をかけて、「気にするな」と言ってやればよかった。

それなのに。

彼女の顔を見た瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなって、言葉が詰まった。
声をかけようとする理性を、正体不明のドロドロとした感情が塗り潰してしまった。

(……なんでだよ)

彼女に婚約者がいたと知ったから?
傷物扱いされたことが許せなかったから?

違う。
そんな綺麗な理由じゃない気がする。

ただ、彼女の顔を見るのが怖かった。
彼女の背負っていた時間の重さを突きつけられたようで、息ができなくなった。

「……クソッ」

答えの出ない問いを吐き捨て、五十嵐は重い足取りで再び歩き出した。



そして夕方。 

医局に戻った皐月は、自分のデスクで呆然としていた。

五十嵐の態度が、頭から離れない。

昨日の夜までは、あんなに近かったのに。

ようやく「黄金コンビ」と呼ばれた昔みたいな距離感に戻りつつあると思っていた。

それなのに。

今の彼は、まるで4月に再会した時――あるいはそれ以上に、遠くへ行ってしまった気がした。

悲しいけれど、晴瑠が言ったことは事実だ。
私には婚約者がいて、破棄されて、逃げてきた。

その過去は消せない。

例え昨日、晴瑠が言わなかったとしても、いつか彼がこの事実を知れば、遅かれ早かれこうなっていたのだろう。

(……潔癖な彼が、傷ついた過去を持つ私を受け入れられるはずがない)

過去は変えられない。だから、仕方ない。
頭では分かっている。

……それでも。

他の誰でもない、五十嵐に軽蔑され、嫌われた。

その事実が、鉛のように胸に重くのしかかり、息をするのも苦しかった。

その時。
奥のデスクにいた雨宮が、帰り支度をしながら皐月の横を通った。

彼は立ち止まらず、歩きながらボソッと言った。

「……雷久保から聞いた」

ドキリとする。 

ーー雨宮先生も、知ってしまったのか。
私の、汚れた過去。

「お前がここに来た経緯のことだ」

彼は足を止めず、背中越しに言葉を投げた。

「くだらん。……過去がどうあれ、今の仕事には関係ない」

「え……?」

「お前が今、目の前の患者に何をするか。私が見ているのはそれだけだ」

雨宮はそう言い捨てると、扉を開けて出て行った。

ぶっきらぼうで、冷たい声。

けれど、その言葉は、五十嵐に拒絶されて凍えきっていた皐月の心に、じんわりとした熱を与えてくれた。

(……そうか)

過去を知っても、変わらずに接してくれる人がいる。

今の自分を見てくれる人がいる。

その事実だけが、今の皐月を支える唯一の杖だった。

皐月は目元を拭い、再びパソコンに向き直った。

五十嵐とのことは辛いけれど、今は立ち止まっている暇はない。

ーー私には、仕事があるのだから。
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