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第四章 残暑の告白と、共犯者たちの宴
第34話 道化師の挑発と、8年目のカーテンコール
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9月上旬。
皮膚科の外来処置室は、戦場のような忙しさだった。
「……よし、次は生検だね。準備お願い」
「はい!」
晴瑠も、今ではすっかり戦力になっていた。
無駄のない動きで器具を展開し、局所麻酔薬を準備する。
「今回の患者さんは血液内科からの依頼で、IVLBCL(血管内大細胞型B細胞リンパ腫)疑いのランダム皮膚生検です。皮疹のない健常皮膚を3箇所、脂肪組織まで生検します」
皐月が確認すると、晴瑠は「了解です。マーキング済みです」と即答した。
IVLBCLは、がん細胞が“皮膚の中”ではなく“皮膚の血管の中”に入り込んで増えるという、極めて特殊なリンパ腫だ。
見た目には発疹も腫れもほとんど現れないため、身体のどこを見ても「異常なし」と判断されてしまうことが少なくない。
だが皮膚科には、もう一つの武器がある。
皮疹がなくても、皮膚そのものを採って調べられること。
血管の中に潜む悪性細胞を見つけるためには、この「ランダム皮膚生検」が国内外のガイドラインでも推奨されている。
いわば、皮膚は『隠れた病気を見つける窓』にもなるのだ。
「じゃあ、始めるよ。……チクっとしますよー」
皐月が麻酔を打ち、メスを入れる。
晴瑠は絶妙なタイミングでガーゼを当て、止血し、必要な器具を差し出す。
言葉を交わさずとも阿吽の呼吸で処置が進んでいく。
「……はい、終わり。縫合も綺麗だね」
「ありがとうございます!皐月先生の教え方のおかげです!」
晴瑠がニッコリと笑う。
その笑顔には、媚びや計算はない。純粋に手技が上達した喜びと、指導への敬意が感じられた。
「ううん、晴瑠ちゃんの筋がいいからだよ。これなら、どこの科に行っても通用するね」
「えへへ……そう言ってもらえると嬉しいです」
和やかな空気。
仕事を終え、二人は並んで医局への廊下を歩き出すと、前方の角から白衣を着崩した雷久保が現れた。
「おや。奇遇だねぇ」
まるで待ち構えていたかのようなタイミングだ。
「雷久保先生……お疲れ様です」
「お疲れー。二人で仲良くお散歩?」
雷久保はニヤニヤしながら近づいてくると、大げさに溜め息をついた。
「いやー、参ったよ。五十嵐のやつ、納涼会以来ほんと変わっちゃったっていうかさ、元気ないんだよねー。仕事上のミスはないけど、魂抜けてるっていうか」
納涼会の単語が出た瞬間、隣の晴瑠の肩がビクリと跳ねた。
雷久保はそれを見逃さず、追求する。
「そういえば晴瑠ちゃん。なんであんなこと納涼会で言ったの?」
「えっ、あ……」
「人の秘密を暴露するのって楽しい?」
雷久保が、晴瑠の顔を覗き込む。
その瞳は笑っているようで、奥底では冷徹に反応を観察していた。
「いい子のフリしてるけど……本当は、ドロドロしたものが渦巻いてるんじゃない?」
雷久保は楽しそうに目を細めた。
「五十嵐への執着、プライド、嫉妬。……君のそういう『人間臭い』ところ、俺は嫌いじゃないよ」
「……ッ」
晴瑠の顔から血の気が引く。
見透かされている恐怖が、彼女を縛り付けた。
(……つまんないねぇ)
雷久保は、怯える晴瑠を見下ろしながら、心の中で冷ややかな評価を下していた。
あの納涼会の夜、あれだけ派手に自爆してくれた「悪役」が、すっかり牙を抜かれて萎縮してしまっている。
反省?後悔?
そんな殊勝な態度は、この舞台には不要だ。
このまま大人しくフェードアウトされては困る。
(……君の価値は、そのドロドロした感情を撒き散らして、場を掻き回すことにあるんだよ)
雷久保の言葉に怯える晴瑠。
そんな彼女を見て、皐月の中で何かがプツリと切れた。
さっきまで、あんなに真剣な眼差しで処置についてくれていたのに。
「ありがとうございます」と、無邪気な笑顔を見せてくれたのに。
今の彼女は、雷久保の言葉の暴力に晒され、小さく震えている。
(……過去に何があったとしても、今の晴瑠ちゃんは、私の可愛い後輩だ。それを弄ぶなんて許せない)
皐月は一歩前に出て、晴瑠を背に庇うように立った。
「雷久保先生」
「ん?」
「晴瑠ちゃんが怯えてるから、やめてください」
精一杯の睨み。
上司相手に生意気かもしれないけれど、後輩がいじめられているのを見過ごすわけにはいかない。
「これ以上からかうなら、雨宮先生に報告します」
虎の威を借る狐だが、効果はあった。
(……ここで潤一が出てくるのは面倒だ)
雷久保の眉がピクリと動く。
「怖い怖い。ごめん、ちょっとした悪戯心だよ」
彼は悪びれもせず、ひらひらと手を振って去っていった。
「じゃ、またねー」
嵐が去り、静けさが戻る。
皐月は振り返り、晴瑠の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?何言われても気にしなくていいからね」
晴瑠は、呆然と皐月を見ていた。
そして、ポツリと言った。
「……皐月先生、ありがとうございました」
「え?」
「さっき、助けてくれたじゃないですか。……私なんかのために」
その声は、低くて、飾らなくて、とても素直な響きだった。
いつもの「計算された可愛さ」とは違う。
これが、本当の立花晴瑠なのかもしれない。
「当たり前だよ。同じチームなんだから」
皐月が笑うと、彼女は泣き笑いのような、複雑な表情を浮かべた。
「……先生は、本当に敵わないなぁ」
彼女は小さく呟くと、「お先に失礼します!」と深く頭を下げ、逃げるように走っていってしまった。
*
非常階段の踊り場。
晴瑠は柵の向こうに広がる空をぼんやりと見上げていた。
(……敵わないなぁ)
先ほどの光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
自分を庇ってくれた、皐月先生の背中。
かつて私は、彼女の傷婚約破棄の過去を、五十嵐先輩の前で暴露した。
ーー五十嵐先輩から遠ざけるために。
それなのに、彼女は私を守った。
計算も、保身も、復讐心もない。
ただ純粋な正義感と優しさで。
「……はぁ。惨めだなぁ、私」
独り言が、風に流されていく。
私が長年かけて積み上げた「計算」や「演出」は、彼女の「天然の善意」の前ではあまりに無力だった。
五十嵐先輩が何年も彼女を忘れられない理由が、痛いほど分かってしまった。
ーー彼女は、心が腐った私なんかとは違う、本物の「光」なのだ。
「おい」
晴瑠の頭上から呆れたような低い声がした。
見ると雪村が立っていた。
「ゆ、雪村先生……?なんでここに」
「またサボりかと思って探しに来たら、こんなところにいるとはな」
雪村は階段を降りてくると、晴瑠の正面に立った。
「……泣いてるのか」
「泣いてません。……目にゴミが入っただけです」
晴瑠は強がって顔を背ける。
「さっきの見たぞ」
「え……」
「天野におんぶに抱っこで、雷久保先生から逃げ出したところだ。あれほど天野を敵視して、過去まで暴いたお前が、その天野に守られるとはな。傑作だ」
容赦のない言葉。
普段なら噛み付くところだが、今の晴瑠にはその気力もなかった。
あまりにも図星で、反論の余地もなかったからだ。
「……そうですね。私、ダサいですね」
晴瑠は膝に顔を埋めた。
「結局、がんばったって五十嵐先輩の中には入れない。夏美や皐月先生みたいにはなれない。私は、ただの嫌な女なんです」
沈黙が流れる。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
「……お前は、バカだな」
雪村が、ポツリと言った。
罵倒ではない。どこか、諦念と微かな苛立ちを含んだ声だった。
「賢いふりをして、一番非効率な選択をしている。何年も待って、このまま何もしないまま終わるつもりか?」
晴瑠が顔を上げる。雪村は、前方を見据えたまま言葉を続けた。
「天野は強い。だが、お前にはお前の戦い方があるだろう」
その言葉に、晴瑠の目が大きく見開かれた。
ーーこの人は、知っている。
私の「可愛い研修医」という仮面の下にある、プライドが高く、負けず嫌いで、必死に努力してきた本当の姿を。
このひねくれ者の先輩だけが、私を「対等な人間」として見てくれている。
「勝てっこないですよ。五十嵐先輩の心には、ずっと皐月先生がいる」
「勝敗なんてどうでもいい。重要なのは、お前が『納得できるかどうか』だ。舞台に上がらなければ、主役にも脇役にもなれない。カーテンコールまで指をくわえて見ているつもりなら、一生そこで泣いていろ」
冷徹で、乱暴で、けれど背中を蹴り飛ばすような激励。
雪村は一度だけ振り返り、「仕事に戻るぞ」と言い残して去っていった。
残された晴瑠の胸に、熱いものが込み上げてきた。
悔しさか、惨めさか。いや、違う。
ーーそうだよ。私、まだ何も伝えてない。
傷つくのが怖くて、「時期じゃない」と言い訳をして、汚い手を使ってライバルを蹴落とそうとしただけだ。
一度だって、正々堂々と五十嵐先輩にぶつかったことはなかった。
夏美や皐月先生のように、真っ直ぐにはなれない。
でも、私らしく、計算高く、最後の賭けに出ることはできる。
晴瑠はスマホを取り出し、連絡先を開いた。指先が震える。
『五十嵐拓海』の文字。
(終わらせよう。この長すぎた春を)
深呼吸を1つ。晴瑠は通話ボタンをタップし、スマホを耳に当てた。
プルルル……プルルル……。
数回のコールの後、繋がり、不機嫌そうな低い声が聞こえた。
『……なんだ立花』
その声を聞いた瞬間、涙が溢れそうになったのを、ぐっと堪えた。
晴瑠は、震える声で、しかしはっきりと告げた。
「五十嵐先輩。……今夜、少しだけお時間いただけませんか」
『……仕事の話か?』
「私の、一生のお願いです。……先輩に、どうしても話したいことがあるんです」
窓の外には、高く澄んだ空が広がっていた。
8年目の初恋が、いま、終わりを迎えようとしていた。
皮膚科の外来処置室は、戦場のような忙しさだった。
「……よし、次は生検だね。準備お願い」
「はい!」
晴瑠も、今ではすっかり戦力になっていた。
無駄のない動きで器具を展開し、局所麻酔薬を準備する。
「今回の患者さんは血液内科からの依頼で、IVLBCL(血管内大細胞型B細胞リンパ腫)疑いのランダム皮膚生検です。皮疹のない健常皮膚を3箇所、脂肪組織まで生検します」
皐月が確認すると、晴瑠は「了解です。マーキング済みです」と即答した。
IVLBCLは、がん細胞が“皮膚の中”ではなく“皮膚の血管の中”に入り込んで増えるという、極めて特殊なリンパ腫だ。
見た目には発疹も腫れもほとんど現れないため、身体のどこを見ても「異常なし」と判断されてしまうことが少なくない。
だが皮膚科には、もう一つの武器がある。
皮疹がなくても、皮膚そのものを採って調べられること。
血管の中に潜む悪性細胞を見つけるためには、この「ランダム皮膚生検」が国内外のガイドラインでも推奨されている。
いわば、皮膚は『隠れた病気を見つける窓』にもなるのだ。
「じゃあ、始めるよ。……チクっとしますよー」
皐月が麻酔を打ち、メスを入れる。
晴瑠は絶妙なタイミングでガーゼを当て、止血し、必要な器具を差し出す。
言葉を交わさずとも阿吽の呼吸で処置が進んでいく。
「……はい、終わり。縫合も綺麗だね」
「ありがとうございます!皐月先生の教え方のおかげです!」
晴瑠がニッコリと笑う。
その笑顔には、媚びや計算はない。純粋に手技が上達した喜びと、指導への敬意が感じられた。
「ううん、晴瑠ちゃんの筋がいいからだよ。これなら、どこの科に行っても通用するね」
「えへへ……そう言ってもらえると嬉しいです」
和やかな空気。
仕事を終え、二人は並んで医局への廊下を歩き出すと、前方の角から白衣を着崩した雷久保が現れた。
「おや。奇遇だねぇ」
まるで待ち構えていたかのようなタイミングだ。
「雷久保先生……お疲れ様です」
「お疲れー。二人で仲良くお散歩?」
雷久保はニヤニヤしながら近づいてくると、大げさに溜め息をついた。
「いやー、参ったよ。五十嵐のやつ、納涼会以来ほんと変わっちゃったっていうかさ、元気ないんだよねー。仕事上のミスはないけど、魂抜けてるっていうか」
納涼会の単語が出た瞬間、隣の晴瑠の肩がビクリと跳ねた。
雷久保はそれを見逃さず、追求する。
「そういえば晴瑠ちゃん。なんであんなこと納涼会で言ったの?」
「えっ、あ……」
「人の秘密を暴露するのって楽しい?」
雷久保が、晴瑠の顔を覗き込む。
その瞳は笑っているようで、奥底では冷徹に反応を観察していた。
「いい子のフリしてるけど……本当は、ドロドロしたものが渦巻いてるんじゃない?」
雷久保は楽しそうに目を細めた。
「五十嵐への執着、プライド、嫉妬。……君のそういう『人間臭い』ところ、俺は嫌いじゃないよ」
「……ッ」
晴瑠の顔から血の気が引く。
見透かされている恐怖が、彼女を縛り付けた。
(……つまんないねぇ)
雷久保は、怯える晴瑠を見下ろしながら、心の中で冷ややかな評価を下していた。
あの納涼会の夜、あれだけ派手に自爆してくれた「悪役」が、すっかり牙を抜かれて萎縮してしまっている。
反省?後悔?
そんな殊勝な態度は、この舞台には不要だ。
このまま大人しくフェードアウトされては困る。
(……君の価値は、そのドロドロした感情を撒き散らして、場を掻き回すことにあるんだよ)
雷久保の言葉に怯える晴瑠。
そんな彼女を見て、皐月の中で何かがプツリと切れた。
さっきまで、あんなに真剣な眼差しで処置についてくれていたのに。
「ありがとうございます」と、無邪気な笑顔を見せてくれたのに。
今の彼女は、雷久保の言葉の暴力に晒され、小さく震えている。
(……過去に何があったとしても、今の晴瑠ちゃんは、私の可愛い後輩だ。それを弄ぶなんて許せない)
皐月は一歩前に出て、晴瑠を背に庇うように立った。
「雷久保先生」
「ん?」
「晴瑠ちゃんが怯えてるから、やめてください」
精一杯の睨み。
上司相手に生意気かもしれないけれど、後輩がいじめられているのを見過ごすわけにはいかない。
「これ以上からかうなら、雨宮先生に報告します」
虎の威を借る狐だが、効果はあった。
(……ここで潤一が出てくるのは面倒だ)
雷久保の眉がピクリと動く。
「怖い怖い。ごめん、ちょっとした悪戯心だよ」
彼は悪びれもせず、ひらひらと手を振って去っていった。
「じゃ、またねー」
嵐が去り、静けさが戻る。
皐月は振り返り、晴瑠の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?何言われても気にしなくていいからね」
晴瑠は、呆然と皐月を見ていた。
そして、ポツリと言った。
「……皐月先生、ありがとうございました」
「え?」
「さっき、助けてくれたじゃないですか。……私なんかのために」
その声は、低くて、飾らなくて、とても素直な響きだった。
いつもの「計算された可愛さ」とは違う。
これが、本当の立花晴瑠なのかもしれない。
「当たり前だよ。同じチームなんだから」
皐月が笑うと、彼女は泣き笑いのような、複雑な表情を浮かべた。
「……先生は、本当に敵わないなぁ」
彼女は小さく呟くと、「お先に失礼します!」と深く頭を下げ、逃げるように走っていってしまった。
*
非常階段の踊り場。
晴瑠は柵の向こうに広がる空をぼんやりと見上げていた。
(……敵わないなぁ)
先ほどの光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
自分を庇ってくれた、皐月先生の背中。
かつて私は、彼女の傷婚約破棄の過去を、五十嵐先輩の前で暴露した。
ーー五十嵐先輩から遠ざけるために。
それなのに、彼女は私を守った。
計算も、保身も、復讐心もない。
ただ純粋な正義感と優しさで。
「……はぁ。惨めだなぁ、私」
独り言が、風に流されていく。
私が長年かけて積み上げた「計算」や「演出」は、彼女の「天然の善意」の前ではあまりに無力だった。
五十嵐先輩が何年も彼女を忘れられない理由が、痛いほど分かってしまった。
ーー彼女は、心が腐った私なんかとは違う、本物の「光」なのだ。
「おい」
晴瑠の頭上から呆れたような低い声がした。
見ると雪村が立っていた。
「ゆ、雪村先生……?なんでここに」
「またサボりかと思って探しに来たら、こんなところにいるとはな」
雪村は階段を降りてくると、晴瑠の正面に立った。
「……泣いてるのか」
「泣いてません。……目にゴミが入っただけです」
晴瑠は強がって顔を背ける。
「さっきの見たぞ」
「え……」
「天野におんぶに抱っこで、雷久保先生から逃げ出したところだ。あれほど天野を敵視して、過去まで暴いたお前が、その天野に守られるとはな。傑作だ」
容赦のない言葉。
普段なら噛み付くところだが、今の晴瑠にはその気力もなかった。
あまりにも図星で、反論の余地もなかったからだ。
「……そうですね。私、ダサいですね」
晴瑠は膝に顔を埋めた。
「結局、がんばったって五十嵐先輩の中には入れない。夏美や皐月先生みたいにはなれない。私は、ただの嫌な女なんです」
沈黙が流れる。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
「……お前は、バカだな」
雪村が、ポツリと言った。
罵倒ではない。どこか、諦念と微かな苛立ちを含んだ声だった。
「賢いふりをして、一番非効率な選択をしている。何年も待って、このまま何もしないまま終わるつもりか?」
晴瑠が顔を上げる。雪村は、前方を見据えたまま言葉を続けた。
「天野は強い。だが、お前にはお前の戦い方があるだろう」
その言葉に、晴瑠の目が大きく見開かれた。
ーーこの人は、知っている。
私の「可愛い研修医」という仮面の下にある、プライドが高く、負けず嫌いで、必死に努力してきた本当の姿を。
このひねくれ者の先輩だけが、私を「対等な人間」として見てくれている。
「勝てっこないですよ。五十嵐先輩の心には、ずっと皐月先生がいる」
「勝敗なんてどうでもいい。重要なのは、お前が『納得できるかどうか』だ。舞台に上がらなければ、主役にも脇役にもなれない。カーテンコールまで指をくわえて見ているつもりなら、一生そこで泣いていろ」
冷徹で、乱暴で、けれど背中を蹴り飛ばすような激励。
雪村は一度だけ振り返り、「仕事に戻るぞ」と言い残して去っていった。
残された晴瑠の胸に、熱いものが込み上げてきた。
悔しさか、惨めさか。いや、違う。
ーーそうだよ。私、まだ何も伝えてない。
傷つくのが怖くて、「時期じゃない」と言い訳をして、汚い手を使ってライバルを蹴落とそうとしただけだ。
一度だって、正々堂々と五十嵐先輩にぶつかったことはなかった。
夏美や皐月先生のように、真っ直ぐにはなれない。
でも、私らしく、計算高く、最後の賭けに出ることはできる。
晴瑠はスマホを取り出し、連絡先を開いた。指先が震える。
『五十嵐拓海』の文字。
(終わらせよう。この長すぎた春を)
深呼吸を1つ。晴瑠は通話ボタンをタップし、スマホを耳に当てた。
プルルル……プルルル……。
数回のコールの後、繋がり、不機嫌そうな低い声が聞こえた。
『……なんだ立花』
その声を聞いた瞬間、涙が溢れそうになったのを、ぐっと堪えた。
晴瑠は、震える声で、しかしはっきりと告げた。
「五十嵐先輩。……今夜、少しだけお時間いただけませんか」
『……仕事の話か?』
「私の、一生のお願いです。……先輩に、どうしても話したいことがあるんです」
窓の外には、高く澄んだ空が広がっていた。
8年目の初恋が、いま、終わりを迎えようとしていた。
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