『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第四章 残暑の告白と、共犯者たちの宴

第35話 グラウンドの土と、共犯者たちの祝杯

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9月上旬の夜。

日中の残暑は夜になってもアスファルトにへばりつき、生温い湿気が肌にまとわりつく。

明かりが消え、静まり返った大学の敷地内。

職員駐車場の裏手にある古びたグラウンドは、深い闇に包まれている。

かつて大学のサッカー部が練習に使っていたこの場所で、五十嵐はポケットに手を突っ込んだまま、不機嫌そうに立っていた。

「……なんだ、話って」

目の前にいるのは、立花晴瑠だ。

彼女は白衣を脱ぎ、私服のワンピース姿で佇んでいる。

五十嵐は、彼女の顔を見ずにため息をついた。

「この間の……納涼会の件なら、もういいぞ」

あの日から約1ヶ月。
五十嵐と晴瑠の間には、埋まらない深い溝が残ったままだった。

「……違います」

晴瑠は震える声で否定した。

彼女は視線を足元の土に向け、まるでそこにある記憶を掘り起こすように語り始めた。

「五十嵐先輩、覚えてますか?私が2年生の時、サッカー部の大会で仙台に行ったときのこと」

「……あ?」

「楽しかったですよね。夏美が、彼氏の秋人とこっそり宿を抜け出しちゃって……。五十嵐先輩たち3年生と皆で、夜の街を探し回って」

唐突な思い出話に、五十嵐は眉をひそめたが、記憶の片隅にある光景が蘇る。

「……ああ。そんなこともあったな。あいつら、結局牛タン食ってただけだったけどな」

「ふふ、そうでしたね……」

晴瑠は弱々しく笑い、続ける。

「あと、私が3年生の時の新入生歓迎会のこと、覚えてますか?みんなで焼肉食べ放題に行ったとき」

「……」

三澤みさわ先輩と一ノ瀬いちのせ先輩が、急に大食い競争みたいなの始めちゃって。二人とも食べすぎで動けなくなって、お店の人に怒られて……大変でしたよね」

懐かしい名前。騒がしくも輝いていた日々の記憶。

だが、今の五十嵐には、それが何の意味を持つのか分からなかった。

「……だから、なんだよ」

五十嵐は冷たく遮った。

「昔話をして何になる。話はそれだけか?俺は帰るぞ」

踵を返し、歩き出そうとする。

「……私ッ!」

背後から、悲鳴のような大きな声が響いた。

五十嵐の足が止まる。

「私、五十嵐先輩が好きでした!……出会った時から、ずっと!」

夜のグラウンドに、その言葉が吸い込まれていく。

五十嵐はゆっくりと振り返った。

街灯の薄明かりの下、晴瑠が涙をいっぱいに溜めて彼を睨みつけている。

「……え?……出会った時から……?」

五十嵐は呆然と反芻する。

『立花晴瑠です!今日からマネージャーとしてよろしくお願いします!』

7年前の春。

泥だらけのグラウンドに、場違いなほど綺麗な笑顔で現れた新入生。

あの時から?

「ずっと、ずっと五十嵐先輩を見てました!……だから、昔から気づいてました。先輩の心には、もっと昔から……別の人がいるって」

晴瑠の声が涙で潤む。

五十嵐は何も言えなかった。

目の前の後輩が、自分の一挙手一投足を見て、その視線の先に誰がいるのかまで気づいていたなんて。

「それを知ってから……私、先輩と向き合うことからずっと逃げてました。先輩の心からその人を消そうと思って、遠回りばかりして……」

晴瑠は顔を覆った。

「……皐月先生にも、あんなに酷いことをしてしまいました」

彼女の告白は、懺悔のようだった。

そしてそれは、五十嵐自身の胸にも深く突き刺さる刃だった。

逃げていた。遠回りしていた。
ーーそれは、自分も同じじゃないか。

(……全部、俺のせいだったのか?)

あの納涼会の夜、立花があんな風に暴走して、天野を傷つけるような真似をしたのも。

立花の気持ちなんて、これっぽっちも気づかなかった。
ただの「気の利く後輩」だと、都合よく解釈していた。

……いや、本当にそうか?
本当に「気づかなかった」だけなのか?

脳裏に、大学時代の部室の風景が蘇る。

『おい五十嵐。立花さんって絶対お前のこと好きだよな』

同級生の一ノ瀬や三澤が、ニヤニヤしながら言っていた。

『いっつもお前にだけ差し入れしてるし、目で追ってるし』

『そういえば聞いたか? 立花さん、九条くじょう先輩のこと振ったらしいぜ。他に好きな人がいるんだってさ』

その時、俺はなんて返した?

『気のせいだろ。マネージャーなんだから、他の部員と一緒だよ』

『そっか。九条先輩、かわいそうだな』

そうだ。俺はそうやって笑い飛ばした。
他人の好意に気づくのが怖くて、天野以外の誰かと向き合うのが面倒で、「気のせい」という箱に押し込めて蓋をしたんだ。

その結果が、これだ。

俺が無自覚に振る舞い続けた7年分の「鈍感さ」が、彼女を追い詰め、怪物に変えてしまった。

(……最低だ、俺は)

晴瑠は顔を上げ、涙で濡れた瞳で五十嵐を射抜いた。

「でも、もう逃げるのはやめます! ……だから、五十嵐先輩も逃げないでください!」

「っ……」

「今の先輩は、私の大嫌いな『私』みたいで……ダサいです。カッコよくないです……!」

彼女は叫んだ。 

その言葉に、五十嵐は殴られたような衝撃を受けた。 

ダサい。カッコ悪い。

金がないから、自信がないからと、うじうじして、皐月から目を逸らし続けてきた今の自分。 

それを、一番近くで見てきた後輩に突きつけられた。

「……ああ。そうだな」

五十嵐は、怒るでもなく、困ったように眉を下げた。

憑き物が落ちたような、静かな声だった。

「お前の言う通りだ。俺はずっと逃げてた。……お前を傷つけたことも、全部俺が悪い」

「……っ」

「だから、もう俺なんか追うな。お前は俺なんかより、ずっといい奴を見つけられる」

彼は一歩近づくと、晴瑠の頭にポン、と手を置いた。

部活時代も含めて、一度もしたことのなかった行動。

晴瑠の目が大きく見開かれ、そこから大粒の涙がこぼれ落ちる。

「今までありがとな。……マネージャーとしても、後輩としても、助かってたよ」

それは、彼女の7年間を肯定し、そして終わりを告げる、優しくも残酷な引導だった。

晴瑠はくしゃくしゃに顔を歪め、子供のように泣いた。

泣いて、泣いて、それでも最後は必死に笑顔を作った。

「……五十嵐先輩の好きな人って、やっぱり皐月先生ですよね?」

「……ああ」

晴瑠は涙を指で拭い、意地悪そうに、でも背中を押すように言った。

「先輩も、ちゃんと自分の気持ちに向き合ってくださいね。……じゃないと、本当に一生後悔しますよ」

「……ありがとう」

五十嵐は短く礼を言うと、グラウンドを背に歩き出した。

その足取りは、来る時よりもずっと力強かった。



一人残された晴瑠は、誰もいないグラウンドを見つめていた。

7年分の想いが染み込んだ土。

終わった。……私の青春が、終わった。

晴瑠は震える手でスマホを取り出した。

夏美にかければ、きっと優しく慰めてくれるだろう。
……でも、今の私が欲しいのは、慰めじゃない。
私の愚かさを笑い飛ばして、冷たく現実を突きつけてくれる、あの人の言葉だ。

晴瑠は迷わず、発信履歴の一番上をタップした。
数コールの後、不愛想な声が出る。

『……なんだ』

「雪村先生」

晴瑠は、夜空を見上げながら、努めて明るい声を出した。

「……振られちゃいました」

電話の向こうで、短い沈黙があった。

『……まぁ、そうだろうな』

予想通りの、そっけない返事。

「今日は、飲みたい気分です。……雪村先生、奢ってください」

『……はぁ。明日は仕事だぞ』

「いいじゃないですか!失恋した乙女の頼みですよ?」

『……一杯だけだぞ』

ブツリ、と通話が切れる。

晴瑠の目から、また涙が溢れる。
今度は、悔し涙ではなく、安堵の涙だった。



同時刻。皮膚科医局。

雪村は、黒い画面に映る無表情な自分を見つめながら、小さく息を吐いた。

『振られちゃいました』

彼女の声は震えていたけれど、どこか晴れやかだった。

彼女は知っていたはずだ。
五十嵐の心に、自分が入る隙間など1ミリもないことを。

それでも彼女は、「可能性がない」という事実に蓋をして、感情のままにぶつかっていった。

結果として傷つき、砕け散ったとしても、その破片は宝石のように輝いて見えた。

(……対して、俺はどうだ)

雪村は眼鏡を外し、デスクに置いた。

脳裏に、横浜での記憶が蘇る。

中華街の雑踏。天野の笑顔。
転びそうになった彼女の腕を引いた時の、確かな体温。

あの時、俺の中にも確かに「熱」はあった。
けれど、俺は賢すぎた。

帰りの新幹線で、彼女が五十嵐に向ける視線の意味を瞬時に理解し、計算してしまった。

『勝算はない』

『傷つくのは非効率だ』

そうやって、「相手の心に隙間がない」という事実を突きつけられた瞬間、俺はその事実を受け入れ、自分の「感情」の方に蓋をしたのだ。

立花晴瑠。

計算高くて、嘘つきで、自分の目的のためなら手段を選ばない女。

けれど彼女は、俺が切り捨てた「感情的に動く」という選択肢を、俺の代わりに拾い上げ、最後まで走り抜けた。

あの無謀さは、もし俺がもっと愚かで、もっと素直だったら、なり得たかもしれない「もう一人の自分」の姿なのかもしれない。

「……バカな奴だ」

雪村は呟き、立ち上がった。

罵倒の言葉なのに、胸の奥には、彼女への奇妙な共感と、羨望にも似た感情が渦巻いている。 

そして、それを認めることは、自分自身が「戦わずして恋に敗れた敗北者」であることを認めることと同義だった。

「……終わったな」

俺の小さな、名前をつける前に封印した恋も。
あいつの長すぎた、執念のような片思いも。
今夜、ようやく終わったのだ。

雪村はジャケットを羽織り、財布をポケットに突っ込んだ。

今日は飲みたい気分だと言っていた。

付き合ってやる義理はない。

だが、同じ夜に同じ失恋の味を噛み締めている「共犯者」として、祝杯をあげるくらいは、してやってもいい。

「……高い酒になりそうだ」

雪村は苦笑交じりに呟くと、夜の街へと続くドアを開けた。 

風が少しだけ冷たく、けれど心地よく頬を撫でた。
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