『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第六章 木枯らしの夜と、選ばれた未来

第56話 ひび割れた画面と、忘れられた写真

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夜の静寂に包まれた部屋で、ひび割れたスマートフォンの画面だけが、青白く光っていた。
起動にかかる長い時間が、皐月の心臓をじりじりと焦がしていく。

(……お願い。映って)

ようやくホーム画面が表示される。
壁紙は、初期設定のままの幾何学模様。

指先が震えて、パスコードを一度間違えた。
深呼吸をして、もう一度入力する。
……ロックが解除された。

皐月は息を止め、写真アプリのアイコンをタップした。
画面をスクロールする。指先が時間を遡っていく。

大学時代の写真はここにはない。
あるのは、高校時代の記録だけだ。

卒業式の写真。
俯いて暗い顔をしている五十嵐。
無理に口角を上げてピースをしている自分。
ーーこれは決別前、最後に撮ったツーショットだ。

さらに遡る。
2月。受験シーズン。
……ない。 当然だ。
前期試験の会場や、不合格だった掲示板の写真を撮るはずがない。
あの日の記憶が欠落しているのは変わらない
ーーここには、そのトリガーになるような画像は残っていなかった。

さらに指を滑らせる。 季節は冬から秋へ。
11月下旬。高校の文化祭のフォルダで、指が止まった。

『天野先輩!五十嵐さん!もっと寄ってください!』

写真の中の自分と五十嵐が、少し照れくさそうに、でも確かに肩を並べて写っている。
撮影者は、当時2年生だった霧生だ。画面の端に、彼自身の指が少し映り込んでいるのがご愛嬌だ。

(……懐かしいな)

画面の中の私は、五十嵐のことが好きでたまらないという顔をしている。
そして五十嵐も、ぶっきらぼうな表情の中に、隠しきれない優しさを滲ませていた。

私たちは、確かに想い合っていた。
その事実が、今の皐月の胸を温かく、そして切なく締め付ける。

(でも、私が探しているのはこれじゃない)

もっと前。
私が「医者になる」と決意を新たにした、運命の日。
さらに時間を遡る。

指先が、11月上旬の日付で止まった。

『11月〇日』
フォルダ名はない。
ただ日付だけが記されたその場所に、数枚の写真があった。

一枚目。大学の正門前で、母と二人で撮った写真。
母はまだ若く、少し誇らしげな顔をしている。

二枚目。銀杏並木の風景。

三枚目。模擬店の看板。

ドクン。

心臓が、嫌な音を立てた。

記憶のノイズが走る。頭の奥が痺れるようだ。

ーー見たくない。思い出してはいけない。

そんな本能的な拒絶反応が、胃の腑からせり上がってくる。

(……どうして?ただの学祭の写真なのに)

違う。ここは「あの日」の場所だ。

五十嵐に拒絶され、夢破れ、私の全てが否定された場所。

辛すぎる記憶が、この大学にまつわる全ての出来事を黒く塗りつぶし、心の奥底に封印させていたのだ。
楽しかった思い出さえも、痛みとセットになっていたから。

震える指で、次のサムネイルをタップする。

画面いっぱいに、一枚のツーショット写真が表示された。

「……え?」

そこに写っていたのは、泣き腫らした目で、無理やり作った笑顔でピースサインをする、制服姿の自分。
そして、その隣に立っている青年。

ボサボサに伸びた黒髪。 無精髭が生えた顎。
今の彼よりも少し痩せていて、頬がこけている。

そして何よりーーその瞳には、光がなかった。
深海のように暗く、澱んだ瞳。
まるで世界の全てに絶望しているような、死んだ魚のような目。

けれど。 その骨格、鼻筋、そして纏っている空気は、間違いなく。

「……雨宮、先生……?」

その瞬間。 頭の中で鳴り響いていたノイズが、パチンと弾け飛んだ。

一枚の写真が鍵となり、重い扉の向こう側にあった記憶が、音声と共に鮮明に蘇る。



9年前の11月上旬。
皐月は母と一緒に、憧れの大学の学園祭に来ていた。

『ごめんね皐月。医局に忘れ物しちゃって。ついでに取ってくるから、少しここで待っててくれる?』

母はそう言って、病院棟の方へ駆けていった。

一人残された皐月は、溢れる好奇心を抑えきれず、キャンパスを散策し始めた。

胸を高鳴らせて歩いていた、その時だった。

ガクッ。

人混みの中、舗装の段差に気づかず、派手に転倒した。

コンクリートに膝を打ちつけた。
鋭い痛みに、涙が滲んだ。

周りの学生たちは驚いて遠巻きに見ているだけで、誰も助けてくれない。

恥ずかしさと痛みで動けなくなっていた時、誰かが駆け寄ってきた。

『……大丈夫か』

顔を上げると、そこには疲れ切った顔をした青年がいた。
着古したパーカーに、ボサボサの髪。

けれど、彼の手つきは驚くほど優しかった。

持っていたペットボトルの水で傷口を洗い、ポケットから取り出したハンカチで、丁寧に止血をしてくれた。

『……痛いか?』

『っ……はい、少し。でも、大丈夫です』

手際の良い処置。皐月は聞いた。

 『もしかして、医学部の方ですか?』

彼は自嘲気味に笑った。

『ああ。……一応、6年だ』

その瞳があまりに悲しげで、放っておけなくて、皐月は自分の夢を語った。

母のこと。この大学に入りたいこと。
患者さんの心まで救える、本物の医者になりたいこと。

その言葉を聞いた時、彼の死んでいた瞳に、パチリと小さな灯火が宿るのを、皐月は見た。

彼は震える手で、皐月の手を握り返してくれた。

『……がんばれ』

低く、けれど熱の籠もった声。

『君のような人が、医者になるべきだ』

『……この大学で、君を待っているよ』

その言葉が、どれほど嬉しかったか。
彼に認められたことが、どれほど皐月の背中を押したか。

『あの!写真!一緒に撮ってください!』

『は?いや、俺は……』

『私、絶対この大学入ります!この写真をお守りにしますから!お願いします!』

皐月が半ば強引にスマホを取り出すと、青年の後ろにいた、もう一人の男性が笑いながら近づいてきた。

『いいじゃん潤一、撮ってやれよ。未来の後輩だろ?』

派手な柄シャツを着た、軽薄そうな医学生。
彼は皐月からスマホを受け取ると、ニヤリと笑ってカメラを構えた。

『ほら潤一、もっと笑えよ。顔怖いぞー』

『うるさい、早くしろ雷久保』

カシャッ。



「……雷久保、先生」

皐月は呆然と呟いた。

4月に初めて会った時、彼に感じた既視感の正体はこれだったのだ。
服装も、喋り方も、あの頃と全く変わっていなかったから。

そして、隣にいるボロボロの青年。
写真の中の雨宮潤一は、今にも壊れてしまいそうなほど脆く見えた。

(……彼だったんだ)

今の彼があまりに立派で、厳格で、完璧な「指導医」だから、結びつかなかった。

けれど、それだけじゃない。
私は、忘れていたかったのだ。

この大学で彼に励まされたこと。約束をしたこと。
ーーそれを思い出せば、その後に待っている「約束を守れなかった自分」と「拒絶された絶望」も思い出してしまうから。

自分の心を守るために、私は恩人の顔さえも記憶の底に沈めていたのだ。

雷久保の言葉が蘇る。

『君を助けた男は、あの日からずっと君を見ていた』

『……だが、見ての通り、彼は動かない』

『なぜなら、彼は「指導医」という鎧を脱ぐのが怖いからだ』

怖い?動かない?なぜ?

写真の中の、今よりずっと幼く、傷ついていた彼。

そして現在の、冷徹な指導医の彼。

(先生はずっと、私を……?)

皐月の胸に、激しい動揺が走る。

それは、憧れなのか、感謝なのか、それとももっと別の感情なのか。 
名前のつけようのない熱い塊が、喉の奥までせり上がってくる。

ただ一つ確かなのは、今の自分があるのは、あの日の彼のおかげだということ。
そして、彼もまた、何かを抱えて私の前に立っていたのだということ。

「……雨宮先生」

画面の中の彼に触れる。
その冷たいガラスの感触とは裏腹に、記憶の中の手の温もりは、今も鮮明に残っていた。

皐月は画面を閉じ、スマホを胸に抱きしめた。

心臓の音がうるさい。恩人の正体は確信した。
でも、まだ足りない。

(……私には、もう一つ、取り戻さなければならない記憶がある)

五十嵐との決定的な決裂の原因となった、受験当日の空白ーー「鉛筆」の記憶。

(……明日、実家に行こう)

あの日、使い終わった受験票や筆記用具をどうしたか。
きっと、実家の勉強机の引き出しの奥に、封印したままになっているはずだ。

皐月は顔を上げた。

窓の外、深夜の空には、星が輝いていた。

全ての記憶を取り戻した時、私は誰の手を取るのだろう。

答えはまだ、闇の中にある。
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