『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第六章 木枯らしの夜と、選ばれた未来

第55話 整った盤面と、欠けた鉛筆

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11月下旬。

地方会を終えた皐月は、肩の荷が下りた安堵感と共に、また別の重圧をひしひしと感じていた。

「よっ、皐月ちゃん。学会終わったねぇ」

病棟の廊下ですれ違いざま、雷久保が声をかけてくる。

「まだ思い出さない?俺たちのこと」

「……すみません、まだ」

「ふーん。まあ、焦らなくていいけどさ」

彼は事あるごとに「まだ誰かわからない?」と意味深に問いかけてくる。

しつこい。

けれど、その瞳はどこか試すようで、無視できない何かを含んでいた。

皐月の背中を見送りながら、雷久保は口元を歪めた。

(……焦らなくていいか。もう、賽は投げられたんだから)

数日前、バーで問い詰めた時の、潤一の顔を思い出す。

『……病棟の忘年会までに返事をしろと、言っただけだ』 

そう呟いた彼の瞳には、9年分の執念と、初めて見せる「男」としての覚悟が宿っていた。

(あの臆病な潤一がついに動いた。期限を切って、退路を断った)

盤面は整った。役者は揃い、舞台も用意された。
あとは、ヒロインが「失われた記憶」を取り戻せば、完璧だ。



雷久保と離れた皐月は、一人廊下を歩いていた。

(……考えなきゃいけないのは分かってる)

でも今の皐月の頭の中は、今週末のことでいっぱいだった。

以前約束し、学会が終わるまでお預けになっていた、五十嵐との食事デート。



数日後。外勤日。

駐車場へ向かう道すがら、いつものように並んで歩く五十嵐が、ふと口を開いた。

「……いよいよ、今週末だな」

「そうだね」

「何食いたい?何かリクエストあるか?」  

「うーん、なんでもいいけど……五十嵐が美味しいと思うお店なら、どこでも」

他愛のない会話。穏やかな時間。

以前の刺々しさが嘘のように、今の二人の間には優しい空気が流れている。

だからこそ、皐月は思わずにはいられなかった。

このままではいけない。
今週末のデートで、きちんと過去のことを謝ろう。
あの時の無神経さを詫びて、それからもう一度、始めたい。



そして迎えた土曜日。

五十嵐の愛車が、皐月のアパートの前に停まる。

「……乗れよ」

「うん、ありがとう」

助手席に乗り込むと、車内は少し緊張した空気に包まれていた。

連れて行かれたのは、街外れにある隠れ家的なイタリアンレストラン。

落ち着いた照明、静かな音楽。
普段の彼なら選ばなそうな、少し背伸びをしたお洒落な空間だ。

「……ここ、美味いって評判らしくてさ。予約しといた」

「すごい素敵なお店だね。ありがとう、五十嵐」

席に着き、メニューを開く。

「……酒、飲むか?」

「ううん、大丈夫。五十嵐も飲まないのに、私だけ飲むわけにいかないし」

「そうか。じゃあ炭酸水でいいか」

乾杯のグラスが軽く触れ合う音。

前菜が運ばれてくる間、ぽつりぽつりと近況を話し合う。

仕事のこと、病院のゴシップ、最近見た映画の話。

会話は途切れないけれど、どこか核心を避けているようなもどかしさがある。

(……切り出さなきゃ)

皐月は膝の上で手を握りしめた。

このまま楽しいだけの時間で終わらせてはいけない。

ーー私たちは、9年前の傷跡を放置したまま、見ないふりをしているだけだ。
変わるためには、一度、その傷に向き合わなければならない。

ふと、正面の五十嵐を見る。

彼はグラスの縁を指でなぞりながら、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
その表情に、不安の色が見える。

(……そっか。五十嵐も、怖いんだ)

昔は、彼のそんな弱さに気づけなかった。

いつも強気で、自信満々に見えていた彼が、本当は繊細で傷つきやすい心を持っていたことに。
ーー今の私なら、ちゃんと向き合えるはずだ。

「……ねえ、五十嵐」

「ん?」

「あのね……話したいことがあるの」

皐月は意を決して切り出した。

五十嵐の手が止まる。
彼は静かに皐月を見つめ返した。

「高校3年生のときのこと。……私、本当に無神経だったと思う」

「……」

「五十嵐の家の事情も、プレッシャーも、何も知ろうとしないで……残酷なこと言っちゃって、たくさん傷つけて、ごめんなさい」

ずっと言いたかった謝罪。

言葉にすると、胸のつかえが取れると同時に、当時の申し訳なさで胸が痛む。

沈黙が落ちる。

五十嵐はしばらく無言だったが、やがてふぅと小さく息を吐き、首を横に振った。

「……いや。違う」

「え?」

「傷つけたのは、俺の方だ。……俺は、お前に傷つけられたんじゃない。勝手にコンプレックスを抱いて、勝手に卑屈になってただけだ」

彼は自嘲気味に笑った。

「あの頃の俺にとって、お前は……光だったんだよ。お前といる時だけは、貧乏な家の長男じゃなくて、普通の高校生になれた気がした。お前といる時間がなかったら、俺はあの時に潰れていたと思う」

彼の口から語られる本心。

それは、皐月が想像していたよりもずっと切実で、そして温かいものだった。

「前期試験の日。……英語の問題を見て、頭が真っ白になったんだ。傾向が変わってて、焦って、そのあとも全然解けなくて」

五十嵐は遠くを見るような目をした。

「だからあの日、不合格って分かった時、どうしようもない不安に襲われて……お前に八つ当たりしたんだ。『お前に鉛筆なんか貸さなきゃ良かった』って……。最低だよな」

鉛筆。

その単語が出た瞬間、皐月の思考が一瞬停止した。

(……鉛筆?)

彼が、前期試験の日に、私に鉛筆を貸した?

記憶の糸を手繰り寄せようとするが、そこにはすっぽりと穴が空いている。

しかし、その言葉が引き金となり、別の記憶の断片だけが鮮明に蘇った。

(違う。私が鉛筆を借りたのは……)

脳裏に浮かんだのは、センター試験の日の光景だ。

彼が持っていた五角形の鉛筆について尋ねたとき、彼は照れくさそうに、でも少し誇らしげに言っていた。

 『……母さんがくれたんだ。パート先の人に貰ったとかで』

そして、都内の私立医大の受験前日。

 『これ、ご利益あるから持っていけよ』 

彼はセンター試験で9割越えという高得点を出していた。
その「勝ち運」がついた鉛筆を、私立を受験しない彼が、私に貸してくれた。

そしてそのお守りのおかげで、私は落ち着いて試験に臨め、そして私立に合格できたのだ。

(なのに、今、五十嵐が言ったのは「前期試験の日」……!前期試験の日も私は鉛筆を借りたの?)

前期試験の日、何が起きた?
彼は八つ当たりしたと言っている。

この記憶のズレ、そして「前期試験の日」の空白が、鉛の塊のように胸に落ちた。

(……思い出せない。何も)

「……後期試験の日も、会場でお前を見かけたんだ。でも、俺には余裕がなくて……話しかけられなくて。あの時、ちゃんと話をしていれば良かった」

後期試験の会場?
私が、彼と会っていた?

ザザッ。 頭の中で、砂嵐のようなノイズが走る。

学祭。前期試験。後期試験。

「国立大学」に関わる重要な場面の記憶が、まるで検閲されたフィルムのように、黒く塗りつぶされている。

(……どうして?なんで思い出せないの?)

動悸が激しくなる。
目の前で五十嵐が話しているのに、その声が遠く聞こえる。

「遠回りしてごめんな……。俺……」

五十嵐が言葉を詰まらせ、ふと皐月の異変に気づいた。
皐月はこめかみを押さえ、苦しげに眉を寄せていた。

「おい、天野?大丈夫か?」

「……っ、あ、ごめん。大丈夫」 

皐月は慌てて笑顔を作った。

「なんか急に、頭痛がしちゃって……」

「顔色が悪いぞ。……学会終わったばかりで疲れが出たのかもな。もう帰ろう」

五十嵐はすぐに店員を呼び、会計を済ませた。

彼の気遣いがありがたくもあり、同時に申し訳なさでいっぱいになる。
せっかくのデートを、台無しにしてしまった。



帰りの車内。

行きとは違う、重苦しい無言の時間が流れていた。
皐月は窓の外を流れる夜景を見つめながら、自分の記憶の欠落に恐怖していた。

(思い出せない。どうして……?)

五十嵐に拒絶された衝撃。
そして、二度にわたる不合格の絶望。

それらが強すぎて、防衛本能が働いたのだろうか。
「国立大学」という場所そのものを、心が拒否して封印してしまったのだろうか。

車がアパートの前に停まる。
エンジンを切らず、五十嵐がハンドルを握ったまま口を開いた。

「……今日は、悪かったな。無理させて」 

「ごめんね。せっかくのディナーだったのに」

「楽しかったよ。久しぶりにちゃんと話せたし」

彼はそう言うと、少し照れくさそうに視線を逸らした。

「……今度は、クリスマスとか……どっか行かねえか。ちょうど休みだし」

クリスマス。特別な日。

9年前、叶わなかった未来のリベンジ。
その誘いに、皐月の心が揺れる。

『病棟の忘年会の日までに、返事をくれ』

雨宮の言葉が、脳裏に浮かぶ。

普通なら、クリスマスの誘いの返事は保留にすべきなのかもしれない。

けれど、五十嵐の言葉を聞いた瞬間、嬉しくて、泣きそうになってしまった自分がいた。

(……ああ、私)

喉まで「行きたい」という言葉が出かかっていた。

今すぐ頷いて、彼の手を取りたい。

けれど、脳裏に「鉛筆」という違和感が棘のように刺さっている。

もし、私が忘れている記憶の中に、彼を決定的に傷つけた事実があったとしたら?

その償いもせずに、クリスマスの約束なんてしていいのだろうか。

「……うん。行きたい」

私は、祈るような気持ちで答えた。

「でも、その前に……少しだけ時間がほしいの」

「え?」

「クリスマスまでにはちゃんと整理しておくから。……だから、待っててくれる?」

「……おう。分かった」

去り際、彼は優しく皐月の頭に手を置いた。 その温もりに救われながらも、皐月の胸はざわついていた。

「……おやすみ」

部屋に入り、ドアを閉める。

静寂が戻ると同時に、先ほどの「鉛筆」の違和感が蘇ってくる。

(……確かめなきゃ)

このままでは前に進めない。

自分が忘れてしまった「あの日々」を取り戻さなければ、私は胸を張って彼の手を握れない。

皐月は引き出しを開けた。

引っ越してきてから一度も触れず、一番奥にしまい込んでいた、画面の割れた古いスマートフォン。

(お願い。……答えを教えて)

震える指で電源ボタンを長押しする。
画面が微かに光り、起動ロゴが浮かび上がる。

そこに残されているはずの真実を知るのが、怖かった。
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