61 / 63
第六章 木枯らしの夜と、選ばれた未来
第55話 整った盤面と、欠けた鉛筆
しおりを挟む
11月下旬。
地方会を終えた皐月は、肩の荷が下りた安堵感と共に、また別の重圧をひしひしと感じていた。
「よっ、皐月ちゃん。学会終わったねぇ」
病棟の廊下ですれ違いざま、雷久保が声をかけてくる。
「まだ思い出さない?俺たちのこと」
「……すみません、まだ」
「ふーん。まあ、焦らなくていいけどさ」
彼は事あるごとに「まだ誰かわからない?」と意味深に問いかけてくる。
しつこい。
けれど、その瞳はどこか試すようで、無視できない何かを含んでいた。
皐月の背中を見送りながら、雷久保は口元を歪めた。
(……焦らなくていいか。もう、賽は投げられたんだから)
数日前、バーで問い詰めた時の、潤一の顔を思い出す。
『……病棟の忘年会までに返事をしろと、言っただけだ』
そう呟いた彼の瞳には、9年分の執念と、初めて見せる「男」としての覚悟が宿っていた。
(あの臆病な潤一がついに動いた。期限を切って、退路を断った)
盤面は整った。役者は揃い、舞台も用意された。
あとは、ヒロインが「失われた記憶」を取り戻せば、完璧だ。
*
雷久保と離れた皐月は、一人廊下を歩いていた。
(……考えなきゃいけないのは分かってる)
でも今の皐月の頭の中は、今週末のことでいっぱいだった。
以前約束し、学会が終わるまでお預けになっていた、五十嵐との食事デート。
*
数日後。外勤日。
駐車場へ向かう道すがら、いつものように並んで歩く五十嵐が、ふと口を開いた。
「……いよいよ、今週末だな」
「そうだね」
「何食いたい?何かリクエストあるか?」
「うーん、なんでもいいけど……五十嵐が美味しいと思うお店なら、どこでも」
他愛のない会話。穏やかな時間。
以前の刺々しさが嘘のように、今の二人の間には優しい空気が流れている。
だからこそ、皐月は思わずにはいられなかった。
このままではいけない。
今週末のデートで、きちんと過去のことを謝ろう。
あの時の無神経さを詫びて、それからもう一度、始めたい。
*
そして迎えた土曜日。
五十嵐の愛車が、皐月のアパートの前に停まる。
「……乗れよ」
「うん、ありがとう」
助手席に乗り込むと、車内は少し緊張した空気に包まれていた。
連れて行かれたのは、街外れにある隠れ家的なイタリアンレストラン。
落ち着いた照明、静かな音楽。
普段の彼なら選ばなそうな、少し背伸びをしたお洒落な空間だ。
「……ここ、美味いって評判らしくてさ。予約しといた」
「すごい素敵なお店だね。ありがとう、五十嵐」
席に着き、メニューを開く。
「……酒、飲むか?」
「ううん、大丈夫。五十嵐も飲まないのに、私だけ飲むわけにいかないし」
「そうか。じゃあ炭酸水でいいか」
乾杯のグラスが軽く触れ合う音。
前菜が運ばれてくる間、ぽつりぽつりと近況を話し合う。
仕事のこと、病院のゴシップ、最近見た映画の話。
会話は途切れないけれど、どこか核心を避けているようなもどかしさがある。
(……切り出さなきゃ)
皐月は膝の上で手を握りしめた。
このまま楽しいだけの時間で終わらせてはいけない。
ーー私たちは、9年前の傷跡を放置したまま、見ないふりをしているだけだ。
変わるためには、一度、その傷に向き合わなければならない。
ふと、正面の五十嵐を見る。
彼はグラスの縁を指でなぞりながら、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
その表情に、不安の色が見える。
(……そっか。五十嵐も、怖いんだ)
昔は、彼のそんな弱さに気づけなかった。
いつも強気で、自信満々に見えていた彼が、本当は繊細で傷つきやすい心を持っていたことに。
ーー今の私なら、ちゃんと向き合えるはずだ。
「……ねえ、五十嵐」
「ん?」
「あのね……話したいことがあるの」
皐月は意を決して切り出した。
五十嵐の手が止まる。
彼は静かに皐月を見つめ返した。
「高校3年生のときのこと。……私、本当に無神経だったと思う」
「……」
「五十嵐の家の事情も、プレッシャーも、何も知ろうとしないで……残酷なこと言っちゃって、たくさん傷つけて、ごめんなさい」
ずっと言いたかった謝罪。
言葉にすると、胸のつかえが取れると同時に、当時の申し訳なさで胸が痛む。
沈黙が落ちる。
五十嵐はしばらく無言だったが、やがてふぅと小さく息を吐き、首を横に振った。
「……いや。違う」
「え?」
「傷つけたのは、俺の方だ。……俺は、お前に傷つけられたんじゃない。勝手にコンプレックスを抱いて、勝手に卑屈になってただけだ」
彼は自嘲気味に笑った。
「あの頃の俺にとって、お前は……光だったんだよ。お前といる時だけは、貧乏な家の長男じゃなくて、普通の高校生になれた気がした。お前といる時間がなかったら、俺はあの時に潰れていたと思う」
彼の口から語られる本心。
それは、皐月が想像していたよりもずっと切実で、そして温かいものだった。
「前期試験の日。……英語の問題を見て、頭が真っ白になったんだ。傾向が変わってて、焦って、そのあとも全然解けなくて」
五十嵐は遠くを見るような目をした。
「だからあの日、不合格って分かった時、どうしようもない不安に襲われて……お前に八つ当たりしたんだ。『お前に鉛筆なんか貸さなきゃ良かった』って……。最低だよな」
鉛筆。
その単語が出た瞬間、皐月の思考が一瞬停止した。
(……鉛筆?)
彼が、前期試験の日に、私に鉛筆を貸した?
記憶の糸を手繰り寄せようとするが、そこにはすっぽりと穴が空いている。
しかし、その言葉が引き金となり、別の記憶の断片だけが鮮明に蘇った。
(違う。私が鉛筆を借りたのは……)
脳裏に浮かんだのは、センター試験の日の光景だ。
彼が持っていた五角形の鉛筆について尋ねたとき、彼は照れくさそうに、でも少し誇らしげに言っていた。
『……母さんがくれたんだ。パート先の人に貰ったとかで』
そして、都内の私立医大の受験前日。
『これ、ご利益あるから持っていけよ』
彼はセンター試験で9割越えという高得点を出していた。
その「勝ち運」がついた鉛筆を、私立を受験しない彼が、私に貸してくれた。
そしてそのお守りのおかげで、私は落ち着いて試験に臨め、そして私立に合格できたのだ。
(なのに、今、五十嵐が言ったのは「前期試験の日」……!前期試験の日も私は鉛筆を借りたの?)
前期試験の日、何が起きた?
彼は八つ当たりしたと言っている。
この記憶のズレ、そして「前期試験の日」の空白が、鉛の塊のように胸に落ちた。
(……思い出せない。何も)
「……後期試験の日も、会場でお前を見かけたんだ。でも、俺には余裕がなくて……話しかけられなくて。あの時、ちゃんと話をしていれば良かった」
後期試験の会場?
私が、彼と会っていた?
ザザッ。 頭の中で、砂嵐のようなノイズが走る。
学祭。前期試験。後期試験。
「国立大学」に関わる重要な場面の記憶が、まるで検閲されたフィルムのように、黒く塗りつぶされている。
(……どうして?なんで思い出せないの?)
動悸が激しくなる。
目の前で五十嵐が話しているのに、その声が遠く聞こえる。
「遠回りしてごめんな……。俺……」
五十嵐が言葉を詰まらせ、ふと皐月の異変に気づいた。
皐月はこめかみを押さえ、苦しげに眉を寄せていた。
「おい、天野?大丈夫か?」
「……っ、あ、ごめん。大丈夫」
皐月は慌てて笑顔を作った。
「なんか急に、頭痛がしちゃって……」
「顔色が悪いぞ。……学会終わったばかりで疲れが出たのかもな。もう帰ろう」
五十嵐はすぐに店員を呼び、会計を済ませた。
彼の気遣いがありがたくもあり、同時に申し訳なさでいっぱいになる。
せっかくのデートを、台無しにしてしまった。
*
帰りの車内。
行きとは違う、重苦しい無言の時間が流れていた。
皐月は窓の外を流れる夜景を見つめながら、自分の記憶の欠落に恐怖していた。
(思い出せない。どうして……?)
五十嵐に拒絶された衝撃。
そして、二度にわたる不合格の絶望。
それらが強すぎて、防衛本能が働いたのだろうか。
「国立大学」という場所そのものを、心が拒否して封印してしまったのだろうか。
車がアパートの前に停まる。
エンジンを切らず、五十嵐がハンドルを握ったまま口を開いた。
「……今日は、悪かったな。無理させて」
「ごめんね。せっかくのディナーだったのに」
「楽しかったよ。久しぶりにちゃんと話せたし」
彼はそう言うと、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……今度は、クリスマスとか……どっか行かねえか。ちょうど休みだし」
クリスマス。特別な日。
9年前、叶わなかった未来のリベンジ。
その誘いに、皐月の心が揺れる。
『病棟の忘年会の日までに、返事をくれ』
雨宮の言葉が、脳裏に浮かぶ。
普通なら、クリスマスの誘いの返事は保留にすべきなのかもしれない。
けれど、五十嵐の言葉を聞いた瞬間、嬉しくて、泣きそうになってしまった自分がいた。
(……ああ、私)
喉まで「行きたい」という言葉が出かかっていた。
今すぐ頷いて、彼の手を取りたい。
けれど、脳裏に「鉛筆」という違和感が棘のように刺さっている。
もし、私が忘れている記憶の中に、彼を決定的に傷つけた事実があったとしたら?
その償いもせずに、クリスマスの約束なんてしていいのだろうか。
「……うん。行きたい」
私は、祈るような気持ちで答えた。
「でも、その前に……少しだけ時間がほしいの」
「え?」
「クリスマスまでにはちゃんと整理しておくから。……だから、待っててくれる?」
「……おう。分かった」
去り際、彼は優しく皐月の頭に手を置いた。 その温もりに救われながらも、皐月の胸はざわついていた。
「……おやすみ」
部屋に入り、ドアを閉める。
静寂が戻ると同時に、先ほどの「鉛筆」の違和感が蘇ってくる。
(……確かめなきゃ)
このままでは前に進めない。
自分が忘れてしまった「あの日々」を取り戻さなければ、私は胸を張って彼の手を握れない。
皐月は引き出しを開けた。
引っ越してきてから一度も触れず、一番奥にしまい込んでいた、画面の割れた古いスマートフォン。
(お願い。……答えを教えて)
震える指で電源ボタンを長押しする。
画面が微かに光り、起動ロゴが浮かび上がる。
そこに残されているはずの真実を知るのが、怖かった。
地方会を終えた皐月は、肩の荷が下りた安堵感と共に、また別の重圧をひしひしと感じていた。
「よっ、皐月ちゃん。学会終わったねぇ」
病棟の廊下ですれ違いざま、雷久保が声をかけてくる。
「まだ思い出さない?俺たちのこと」
「……すみません、まだ」
「ふーん。まあ、焦らなくていいけどさ」
彼は事あるごとに「まだ誰かわからない?」と意味深に問いかけてくる。
しつこい。
けれど、その瞳はどこか試すようで、無視できない何かを含んでいた。
皐月の背中を見送りながら、雷久保は口元を歪めた。
(……焦らなくていいか。もう、賽は投げられたんだから)
数日前、バーで問い詰めた時の、潤一の顔を思い出す。
『……病棟の忘年会までに返事をしろと、言っただけだ』
そう呟いた彼の瞳には、9年分の執念と、初めて見せる「男」としての覚悟が宿っていた。
(あの臆病な潤一がついに動いた。期限を切って、退路を断った)
盤面は整った。役者は揃い、舞台も用意された。
あとは、ヒロインが「失われた記憶」を取り戻せば、完璧だ。
*
雷久保と離れた皐月は、一人廊下を歩いていた。
(……考えなきゃいけないのは分かってる)
でも今の皐月の頭の中は、今週末のことでいっぱいだった。
以前約束し、学会が終わるまでお預けになっていた、五十嵐との食事デート。
*
数日後。外勤日。
駐車場へ向かう道すがら、いつものように並んで歩く五十嵐が、ふと口を開いた。
「……いよいよ、今週末だな」
「そうだね」
「何食いたい?何かリクエストあるか?」
「うーん、なんでもいいけど……五十嵐が美味しいと思うお店なら、どこでも」
他愛のない会話。穏やかな時間。
以前の刺々しさが嘘のように、今の二人の間には優しい空気が流れている。
だからこそ、皐月は思わずにはいられなかった。
このままではいけない。
今週末のデートで、きちんと過去のことを謝ろう。
あの時の無神経さを詫びて、それからもう一度、始めたい。
*
そして迎えた土曜日。
五十嵐の愛車が、皐月のアパートの前に停まる。
「……乗れよ」
「うん、ありがとう」
助手席に乗り込むと、車内は少し緊張した空気に包まれていた。
連れて行かれたのは、街外れにある隠れ家的なイタリアンレストラン。
落ち着いた照明、静かな音楽。
普段の彼なら選ばなそうな、少し背伸びをしたお洒落な空間だ。
「……ここ、美味いって評判らしくてさ。予約しといた」
「すごい素敵なお店だね。ありがとう、五十嵐」
席に着き、メニューを開く。
「……酒、飲むか?」
「ううん、大丈夫。五十嵐も飲まないのに、私だけ飲むわけにいかないし」
「そうか。じゃあ炭酸水でいいか」
乾杯のグラスが軽く触れ合う音。
前菜が運ばれてくる間、ぽつりぽつりと近況を話し合う。
仕事のこと、病院のゴシップ、最近見た映画の話。
会話は途切れないけれど、どこか核心を避けているようなもどかしさがある。
(……切り出さなきゃ)
皐月は膝の上で手を握りしめた。
このまま楽しいだけの時間で終わらせてはいけない。
ーー私たちは、9年前の傷跡を放置したまま、見ないふりをしているだけだ。
変わるためには、一度、その傷に向き合わなければならない。
ふと、正面の五十嵐を見る。
彼はグラスの縁を指でなぞりながら、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
その表情に、不安の色が見える。
(……そっか。五十嵐も、怖いんだ)
昔は、彼のそんな弱さに気づけなかった。
いつも強気で、自信満々に見えていた彼が、本当は繊細で傷つきやすい心を持っていたことに。
ーー今の私なら、ちゃんと向き合えるはずだ。
「……ねえ、五十嵐」
「ん?」
「あのね……話したいことがあるの」
皐月は意を決して切り出した。
五十嵐の手が止まる。
彼は静かに皐月を見つめ返した。
「高校3年生のときのこと。……私、本当に無神経だったと思う」
「……」
「五十嵐の家の事情も、プレッシャーも、何も知ろうとしないで……残酷なこと言っちゃって、たくさん傷つけて、ごめんなさい」
ずっと言いたかった謝罪。
言葉にすると、胸のつかえが取れると同時に、当時の申し訳なさで胸が痛む。
沈黙が落ちる。
五十嵐はしばらく無言だったが、やがてふぅと小さく息を吐き、首を横に振った。
「……いや。違う」
「え?」
「傷つけたのは、俺の方だ。……俺は、お前に傷つけられたんじゃない。勝手にコンプレックスを抱いて、勝手に卑屈になってただけだ」
彼は自嘲気味に笑った。
「あの頃の俺にとって、お前は……光だったんだよ。お前といる時だけは、貧乏な家の長男じゃなくて、普通の高校生になれた気がした。お前といる時間がなかったら、俺はあの時に潰れていたと思う」
彼の口から語られる本心。
それは、皐月が想像していたよりもずっと切実で、そして温かいものだった。
「前期試験の日。……英語の問題を見て、頭が真っ白になったんだ。傾向が変わってて、焦って、そのあとも全然解けなくて」
五十嵐は遠くを見るような目をした。
「だからあの日、不合格って分かった時、どうしようもない不安に襲われて……お前に八つ当たりしたんだ。『お前に鉛筆なんか貸さなきゃ良かった』って……。最低だよな」
鉛筆。
その単語が出た瞬間、皐月の思考が一瞬停止した。
(……鉛筆?)
彼が、前期試験の日に、私に鉛筆を貸した?
記憶の糸を手繰り寄せようとするが、そこにはすっぽりと穴が空いている。
しかし、その言葉が引き金となり、別の記憶の断片だけが鮮明に蘇った。
(違う。私が鉛筆を借りたのは……)
脳裏に浮かんだのは、センター試験の日の光景だ。
彼が持っていた五角形の鉛筆について尋ねたとき、彼は照れくさそうに、でも少し誇らしげに言っていた。
『……母さんがくれたんだ。パート先の人に貰ったとかで』
そして、都内の私立医大の受験前日。
『これ、ご利益あるから持っていけよ』
彼はセンター試験で9割越えという高得点を出していた。
その「勝ち運」がついた鉛筆を、私立を受験しない彼が、私に貸してくれた。
そしてそのお守りのおかげで、私は落ち着いて試験に臨め、そして私立に合格できたのだ。
(なのに、今、五十嵐が言ったのは「前期試験の日」……!前期試験の日も私は鉛筆を借りたの?)
前期試験の日、何が起きた?
彼は八つ当たりしたと言っている。
この記憶のズレ、そして「前期試験の日」の空白が、鉛の塊のように胸に落ちた。
(……思い出せない。何も)
「……後期試験の日も、会場でお前を見かけたんだ。でも、俺には余裕がなくて……話しかけられなくて。あの時、ちゃんと話をしていれば良かった」
後期試験の会場?
私が、彼と会っていた?
ザザッ。 頭の中で、砂嵐のようなノイズが走る。
学祭。前期試験。後期試験。
「国立大学」に関わる重要な場面の記憶が、まるで検閲されたフィルムのように、黒く塗りつぶされている。
(……どうして?なんで思い出せないの?)
動悸が激しくなる。
目の前で五十嵐が話しているのに、その声が遠く聞こえる。
「遠回りしてごめんな……。俺……」
五十嵐が言葉を詰まらせ、ふと皐月の異変に気づいた。
皐月はこめかみを押さえ、苦しげに眉を寄せていた。
「おい、天野?大丈夫か?」
「……っ、あ、ごめん。大丈夫」
皐月は慌てて笑顔を作った。
「なんか急に、頭痛がしちゃって……」
「顔色が悪いぞ。……学会終わったばかりで疲れが出たのかもな。もう帰ろう」
五十嵐はすぐに店員を呼び、会計を済ませた。
彼の気遣いがありがたくもあり、同時に申し訳なさでいっぱいになる。
せっかくのデートを、台無しにしてしまった。
*
帰りの車内。
行きとは違う、重苦しい無言の時間が流れていた。
皐月は窓の外を流れる夜景を見つめながら、自分の記憶の欠落に恐怖していた。
(思い出せない。どうして……?)
五十嵐に拒絶された衝撃。
そして、二度にわたる不合格の絶望。
それらが強すぎて、防衛本能が働いたのだろうか。
「国立大学」という場所そのものを、心が拒否して封印してしまったのだろうか。
車がアパートの前に停まる。
エンジンを切らず、五十嵐がハンドルを握ったまま口を開いた。
「……今日は、悪かったな。無理させて」
「ごめんね。せっかくのディナーだったのに」
「楽しかったよ。久しぶりにちゃんと話せたし」
彼はそう言うと、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……今度は、クリスマスとか……どっか行かねえか。ちょうど休みだし」
クリスマス。特別な日。
9年前、叶わなかった未来のリベンジ。
その誘いに、皐月の心が揺れる。
『病棟の忘年会の日までに、返事をくれ』
雨宮の言葉が、脳裏に浮かぶ。
普通なら、クリスマスの誘いの返事は保留にすべきなのかもしれない。
けれど、五十嵐の言葉を聞いた瞬間、嬉しくて、泣きそうになってしまった自分がいた。
(……ああ、私)
喉まで「行きたい」という言葉が出かかっていた。
今すぐ頷いて、彼の手を取りたい。
けれど、脳裏に「鉛筆」という違和感が棘のように刺さっている。
もし、私が忘れている記憶の中に、彼を決定的に傷つけた事実があったとしたら?
その償いもせずに、クリスマスの約束なんてしていいのだろうか。
「……うん。行きたい」
私は、祈るような気持ちで答えた。
「でも、その前に……少しだけ時間がほしいの」
「え?」
「クリスマスまでにはちゃんと整理しておくから。……だから、待っててくれる?」
「……おう。分かった」
去り際、彼は優しく皐月の頭に手を置いた。 その温もりに救われながらも、皐月の胸はざわついていた。
「……おやすみ」
部屋に入り、ドアを閉める。
静寂が戻ると同時に、先ほどの「鉛筆」の違和感が蘇ってくる。
(……確かめなきゃ)
このままでは前に進めない。
自分が忘れてしまった「あの日々」を取り戻さなければ、私は胸を張って彼の手を握れない。
皐月は引き出しを開けた。
引っ越してきてから一度も触れず、一番奥にしまい込んでいた、画面の割れた古いスマートフォン。
(お願い。……答えを教えて)
震える指で電源ボタンを長押しする。
画面が微かに光り、起動ロゴが浮かび上がる。
そこに残されているはずの真実を知るのが、怖かった。
2
あなたにおすすめの小説
地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!
楓乃めーぷる
恋愛
見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。
秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。
呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――
地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。
ちょっとだけ三角関係もあるかも?
・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。
・毎日11時に投稿予定です。
・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。
・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。
25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~
朝日みらい
恋愛
王都の春。
貴族令嬢リリアーナ・エインズワースは、第一王子ライオネル殿下との婚約を一方的に破棄された。
涙を見せないことが、彼女に残された唯一の誇りだった。だが運命は、彼女を思いがけない方向へ導く。
「氷の公爵」と呼ばれる孤高の男、ヴァレンティーヌ公爵。
二十四人の花嫁候補を断り続けた彼の元へ、「二十五番目の花嫁」として赴いたリリアーナ。
家の体裁のための結婚――そう割り切っていたはずなのに、氷のような瞳の奥に垣間見えた孤独が、彼女の心に小さな炎を灯してゆく。
甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
ひとつの秩序
水瀬 葵
恋愛
ずっと好きだった職場の先輩が、恋人と同棲を始めた。
その日から、南莉子の日常は少しずつ噛み合わなくなっていく。
昔からの男友達・加瀬透真は、気づけばやたら距離が近くて、優しいのか、図々しいのか、よく分からない。
好きな人が二人いるわけじゃない。
ただ、先輩には彼女がいて、友達は友達の顔をしなくなっていく。
戻れると思っていた関係が、いつの間にか戻れなくなっている。
これは、仕事も恋もちゃんとやりたいのに、だいたい空回りしている大人たちの、少し不器用なラブコメディ。
身代りの花嫁は25歳年上の海軍士官に溺愛される
絵麻
恋愛
桐島花は父が病没後、継母義妹に虐げられて、使用人同然の生活を送っていた。
父の財産も尽きかけた頃、義妹に縁談が舞い込むが継母は花を嫁がせた。
理由は多額の結納金を手に入れるため。
相手は二十五歳も歳上の、海軍の大佐だという。
放り出すように、嫁がされた花を待っていたものは。
地味で冴えないと卑下された日々、花の真の力が時東邸で活かされる。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる