『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第六章 木枯らしの夜と、選ばれた未来

第54話 正しい未来と、惹かれる心

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「……天野。もう、仕事の話は終わりだ。……ここからは、指導医としてではなく、俺の言葉で話す」

一人称が『私』から『俺』へ。

厳格な『師』の仮面が揺らぎ、その下にある一人の『男』の素顔が垣間見える。

皐月は無意識に、ポケットの中のハンカチを強く握りしめた。
9年前、彼がくれたあのハンカチだ。

雷久保の言葉が脳裏をよぎる。

『君の恩人は、指導医という鎧を脱ぐのが怖いんだ』

目の前の彼こそが、ずっと探していたあのお兄さん。
今、このハンカチを出して礼を言えば、すべてが繋がる。

けれど、指先が震えて動かない。

それを認めてしまえば、この心地よい師弟関係が壊れ、決定的な何かが始まってしまう予感がして、怖かった。

「……天野」

雨宮は身を乗り出し、皐月の瞳を覗き込んだ。

そこには、いつもの冷徹さはなく、ただひたすらに熱い、渇望のような色が宿っていた。

「俺は今まで、お前を『教え子』として守ってきたつもりだった。……だが、もう限界だ」

「……え……?」

「4月に君が来てから、ずっと見ていた」

雨宮は静かに、けれど熱を込めて語り始めた。

「最初は、危なっかしくて見ていられない専攻医だとしか思っていなかった。だが、お前はどんなに厳しく指導しても、決して逃げ出さなかった。患者のために走り回り、泥臭くあがくその姿を……いつしか俺は、指導医として以上の感情で追うようになっていた」

「先生……」

「立場があるから、一線を引こうとした。だが……気付いた時にはもう、お前のことばかり考えていた」

彼は皐月の震える手に、自分の手をそっと重ねた。
その手は驚くほど熱かった。

「指導医としてじゃなく……一人の男として、俺を見てくれないか」

ドクン、と心臓が跳ねる。
それは、雨宮潤一という男の、最初で最後の「我儘」だった。

「……先生、私は……」

皐月は言葉に詰まった。
嬉しいはずだった。
ずっと憧れていた恩人からの言葉。

脳裏に、彼との日々が走馬灯のように駆け巡る。

壊死性筋膜炎の患者を独断で判断しようとして、厳しく怒られた夜。
あの時、彼は誰よりも真剣に、私の医師としての責任を問うてくれた。

横浜の学会で、元婚約者に絡まれた時、背中を庇って守ってくれたこと。

オンコールで疲れ果てていた夜、無言で渡してくれたカフェインレスコーヒーの温かさ。

婚約破棄の事実を知られ、五十嵐との関係がギクシャクして落ち込んでいた時、『過去がどうあれ、今の仕事には関係ない』と言い切って、私の「現在」を肯定してくれた強さ。

そして、学会準備で倒れそうになった私を、車で送ってくれた時の、不器用な優しさ。

思い出すたび、胸が熱くなる。

彼はいつだって、厳しく、優しく、私のそばにいてくれた。

けれど、脳裏にはなぜか、今朝『がんばれ』とメッセージを送ってくれた五十嵐の、不器用な笑顔が浮かんで消えない。

恩義と憧れ。そして、消えない恋心。
自分の心がどこにあるのか、わからなかった。

混乱する皐月を見て、雨宮は重ねた手を離し、優しく言った。

「……今すぐ答えなくていい。……来月中旬の、病棟の忘年会の日までに、返事をくれ。今年中にはっきりさせたい」

「……忘年会……」

「それまでは、ただの指導医と専攻医だ。……今まで通りにな」

彼はグラスに残った酒を飲み干すと、「よし、帰るぞ」と立ち上がった。

残された皐月は、心臓の早鐘を抑えながら、その背中を見つめることしかできなかった。

答えを出さなければならない時が、迫っていた。



その日の夜。
自宅のベッドに潜り込んでも、皐月の動悸は収まっていなかった。

目を閉じると、薄暗い個室の光景が蘇る。

『一人の男として、俺を見てくれないか』

(……どうしよう)

指導医と専攻医。本来なら越えてはいけない一線。

尊敬する恩人からの、あまりに真っ直ぐな想い。 嬉しいはずだった。

それなのに、今の皐月の心臓は、喜びよりも戸惑いで警鐘を鳴らしている。

ブー、ブー。

枕元のスマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、皐月の心臓が別の意味で跳ねた。

『五十嵐拓海』

雨宮のことを考えていたタイミングでの着信。
罪悪感に襲われながら、皐月は通話ボタンを押した。

「……もしもし」

『……おう。遅くに悪い』

耳元に響く、ぶっきらぼうな声。
たったそれだけで、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていくのを感じた。

『地方会、お疲れ様。大変だったか?』

「……ううん、無事終わったよ。質問にもちゃんと答えられたし」

「そうか。よかったな」

「うん。……あと、朝、メッセージくれたの嬉しかった。すごく心強かったよ。ありがとね」

素直な感謝を伝えると、電話の向こうで五十嵐が少し黙り込んだ。

『……まあ、お前なら大丈夫だと思ってたけどな』

「ふふ、なにそれ。……五十嵐も今日の外勤、大変だった?」

『ああ、救急だからな。ウォークインも救急車もひっきりなしで、そこそこ大変だったよ』

疲れているはずなのに、彼の声はどこか充実しているように聞こえた。
彼もまた、自分の場所で戦っているのだ。

会話が途切れる。
いつもなら心地よい沈黙が、今は少し苦しい。

『……そんなことより』

五十嵐の声色が、ふと真面目なトーンに変わった。

『声、なんか元気ねぇけど……本当に大丈夫だったのか?』

「……っ」

皐月は息を飲んだ。
電話越しなのに、見透かされている。

雨宮先生に告白された。
……そんなこと、言えるわけがない。

言えば五十嵐はどう思うだろうか。

傷つくかもしれない。
あるいは、「そっちに行けよ」と、また突き放されるかもしれない。

(……言えない)

皐月はギュッと布団を握りしめた。

「……大丈夫だよ。発表の緊張が解けて、どっと疲れが出ちゃっただけかも」

『……そうか』

五十嵐は少しの間を置いて、納得したように言った。
深くは追求しない優しさが、今は逆に痛い。

『まあ、無理すんなよ。……来週の食事会で美味しいもん食おうぜ』

「……あ」

『ん?どうした?』

「ううん、なんでもない!……食事会、だよね」

『……まさか、忘れてたわけじゃないよな?』

「わ、忘れてないよ!もちろん覚えてる!」

婚約破棄の過去を知られた後、五十嵐と和解した時に約束した食事会。
忘れていたわけではない。楽しみにもしていた。

けれど、今日の雨宮との一件の衝撃が大きすぎて、一時的に記憶の棚の奥へと追いやられてしまっていたのだ。

『……楽しみだな』

五十嵐の、独り言のような小さな呟き。

それが、私のことを心待ちにしてくれている証拠だと分かって、胸が締め付けられた。

「……うん。私も、楽しみだよ!」

精一杯、明るい声を出した。
嘘じゃない。五十嵐に会いたい気持ちは本当だ。

『じゃあ、今日はゆっくり休めよ。また病院で』

「うん、五十嵐もね。おやすみ」

通話が切れる。
静寂が戻った部屋に、ツーツーという電子音だけが虚しく響いた。

皐月はスマホを胸に抱き、天井を見上げた。

(……私、なにやってるんだろ)

雨宮先生の熱い想いと、五十嵐の不器用な優しさ。

恩人と、初恋の人。

「正しい未来」と、「惹かれる心」

雨宮先生の手を取れば、きっと私は「正解」の道を歩める。
でも、五十嵐の声を聞くと、こんなにも安心してしまう自分がいる。

何が正解で、何が間違いなのか。

答えが出ないまま、夜だけが深くなっていった。



数日後。皮膚科医局。

皐月は自分のデスクで、PCの画面を見つめたまま固まっていた。

(……どうしたらいいの)

あれから数日経っても、答えは出ない。

 『病棟の忘年会までに』 

その期限は、刻一刻と近づいている。

「……天野先生、聞いてる?」

「は、はいっ!?」

医局長の佐伯の声に、皐月は飛び上がった。

「ボーッとしてどうしたの。……次は、MIRMを地方会に出す話よ」

「あ、すみません!ええと、MIRM……地方会……」

皐月は慌てて思考を切り替える。

MIRMーー先日、雪村や新巻と対応した症例だ。

……今は仕事中だ。仕事に集中しなければ。

「それと天野先生、もう一つ。IVLBCLの症例、次の『皮膚科学会総会』に出しましょう」

IVLBCLーー晴瑠とランダム皮膚生検をした症例だ。

「そ、総会ですか!?」

皐月は目を丸くした。地方会とはレベルが違う。
日本全国から皮膚科医が集まる、国内最大の学会だ。

「ええ。来年は京都よ。美味しいものでも食べてらっしゃい。抄録は来月中だから、早めに取り掛かりなさいよ」

佐伯が去っていくと、皐月はふぅーと大きな息を吐いた。

ーー総会。京都。
大きな仕事が入ったことは、今の皐月にとって救いだった。
これなら、余計なことを考えずに没頭できる。

「……京都かぁ」

皐月は気持ちを無理やり上向かせるように、隣の雪村を振り返った。

「ねえ雪村!京都だよ!修学旅行以来かも!」

「……お前な。総会の準備がどれだけ大変か分かってるのか。浮かれるな」

雪村のいつもの冷たいツッコミが、今は心地よかった。
雨宮との間に生まれた「期限付きの緊張感」とは違う、変わらないフラットな距離感。

「あ、そうだ。今度は湯葉おごってね!横浜の中華もよかったけど、和食もいいよねー」

「……図々しい奴だ」

調子に乗ってメニューを並べ立てる皐月に、雪村は深い溜め息をつく。

「調子に乗るな」

「えーっ!ケチ!」

「……予演会の出来が良かったら、考えてやる」

雪村はそれだけ言い捨てると、少しだけ口角を上げて、スタスタと医局を出て行ってしまった。

その背中を見送りながら、皐月は小さく深呼吸をした。
雪村との軽口のおかげで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

(……忘年会までは、まだ時間がある。今は仕事に集中しよう)

皐月は、新しい抄録のファイルを開く。

迷いを振り切るようにキーボードを叩く音が、医局に響き始めた。
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