『あの日の処方箋』 ~婚約破棄から始まる、不器用な医師たちとの恋の治療法(リトライ)~

デルまりん

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第六章 木枯らしの夜と、選ばれた未来

第53話 緊迫の地方会と、二人きりの慰労会

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11月下旬。地方会の会場。
会場のロビーには、独特の緊張感が漂っていた。

皐月は膝の上で、スマートフォンをぎゅっと握りしめていた。 
画面には、今朝届いた短いメッセージが表示されている。

『がんばれ。応援してる』

五十嵐からの言葉。
たったそれだけなのに、その文字を見るたびに、強張った心臓が少しだけ落ち着く気がした。

(……大丈夫。予演会でも雨宮先生に『悪くない』って言ってもらえたし、私は一人じゃない)

先日の予演会を思い出す。



数日前の夜、医局のカンファレンスルーム。

教授や医局長の佐伯、そして他の医局員たちがずらりと並ぶ前で、皐月はガチガチに緊張していた。

「え、あ、その……本症例は、ひ、非典型的な……」

言葉は噛み噛みで、ポインターを持つ手も震えていた。
散々な滑り出しに、胃がキリキリと痛む。

しかし、質疑応答に入ると空気は一変した。

「天野先生。なぜこのタイミングで追加の生検を行ったの?」

教授からの鋭い質問。
皐月は一瞬詰まったが、ふと横に座る雨宮の顔が視界に入り、冷静さを取り戻した。

「はい。通常の治療に抵抗性を示したため、深部への浸潤を疑い……」

「なるほど。鑑別疾患は?」

「悪性リンパ腫を考慮し……」

佐伯の追撃にも、的確に答えることができた。

教授が満足げに頷くのを見て、皐月は膝から崩れ落ちそうになるほど安堵した。

その後。
皆が帰った医局で、皐月は雨宮と二人きり、スライドの最終調整を行っていた。

「……ここのフォント、少しズレてるな」

背後から雨宮が覗き込み、皐月の手の上からマウスに手を添えた。

「あ……」

雨宮の腕が、肩に触れるか触れないかの距離にある。
ふわりと漂う、大人の香水の匂い。

以前なら「何やってるんだ」と怒声が飛んできそうな場面だが、今の雨宮にあの頃のピリピリとした威圧感はない。

むしろ、包み込むような穏やかな空気が流れている。

「……さっきの質疑、悪くなかったぞ」

耳元で降ってきた低い声に、皐月の心臓がトクリと跳ねた。

「教授も佐伯先生も納得していた。……よく勉強したな」

「は、はい……!先生のおかげです……」

皐月が顔を上げると、すぐ至近距離に雨宮の瞳があった。
眼鏡の奥の瞳が、優しく細められる。

「本番でミスしなければ、美味いものでも食わせてやる」

「えっ?いいんですか?」

「ああ。……その代わり、完璧にやれよ」

雨宮はポンと皐月の頭に手を置くと、デスクに戻っていった。

(……美味いもの、かぁ)

少し熱くなった頬を手で冷ます。

ドキッとしたけれど、これはあくまで指導医からの「ご褒美」だ。
厳しい予演会を乗り越えた「慰労会」に過ぎない。

(……変に意識しちゃダメだ。先生は、私を育てようとしてくれてるんだから)

そう自分に言い聞かせ、皐月は再びPC画面に向き直った。



演壇では、演者である美雲が発表を終えようとしていた。
堂々とした話しぶり、的確な質疑応答。
先輩の背中はあまりに大きく、眩しい。

ーーもうすぐ私の番だ。

「次は、『非典型的な経過を辿った菌状息肉症の一例』です」

座長のアナウンスと共に、皐月は演壇へと上がった。
スポットライトが眩しい。

マイクの前に立つと、会場中の視線が集まるのがわかった。
震える手でポインターを握り、第一声を発する。

「……よろしくお願いします。症例は65歳男性……」

発表が始まると、不思議と緊張は消えた。

『がんばれ。応援してる』

五十嵐から届いたメッセージを胸の中で反芻しながら、雨宮に叩き込まれたロジックを頭の中で整然と組み上げ、発表する。

長期間調べ、向き合ってきた症例だ。

(……私が一番、この症例に詳しいんだ)

スライドを送る指にも迷いはない。

「以上です」

発表を終えると、会場から手が挙がった。

「〇〇病院の田所です。興味深い症例ですね。ただ、初診時の生検で異型リンパ球の浸潤が軽微だったとのことですが、その時点で他の炎症性疾患との鑑別はどのように行ったのですか?」

鋭い質問。

以前の皐月なら頭が真っ白になっていたかもしれない。
けれど、今の彼女の脳裏には、雨宮の声が蘇っていた。

『ここを突かれたら、臨床経過と免疫染色の結果で返せ。迷うな』

皐月はマイクを引き寄せ、落ち着いて答えた。

「ご質問ありがとうございます。ご指摘の通り、組織学的な所見のみでは判断が困難でした。しかし、ステロイド外用への抵抗性と、追加で行ったCD4/CD8比の解析結果から……」

言い終わったあと、皐月は緊張で少しだけ震えた。

質問者は一拍置いたあと、「なるほど、よく分かりました」と納得して着席した。

「ありがとうございました。それでは次の発表に移ります」

皐月の番が終わった。
皐月は降壇し、自分の席に戻る。

戻る途中、通路側の席で、美雲が胸のあたりで小さく手を振ってくれているのが見えた。

その隣では、霜田が親指を立てて『グッ』とポーズを決めている。

その隣の雪村は腕を組んだまま、フンっと鼻を鳴らしてそっぽを向いたが、その雰囲気からは「悪くない」というニュアンスが伝わってきた。

そして皐月が席に座る時、隣の雨宮が小さく、けれど確かに頷くのが見えた。

(……みんなが見守ってくれていたんだ)

皐月はそう思うと、胸が熱くなった。

その時、ポケットのスマホが短く震えた。
五十嵐かと思い、こっそり画面を確認する。

しかし、表示された名前は『新巻』だった。

『発表お疲れ様です。リモートで確認しましたが、論理構成に破綻なし。成功ですね』

(……見ててくれたんだ)

今日は休日だ。
「無給の労働はしません」と断固拒否して会場には来なかった彼らしい、独特すぎる労いの言葉。

さらにメッセージには続きがあった。

『ちなみに、天野先輩の今日の発表準備にかかった超過勤務時間は記録しておきました。後日、指導医に請求しましょう』

(ふふっ、ブレないなぁ……)

会場にはいないけれど、彼なりの方法で応援してくれていたのだ。

緊張で強張っていた頬が、自然と緩んだ。



セッション終了後のロビー。

「皐月ちゃーん!お疲れー!」

「天野先生、良かったわよー!」

張り詰めていた糸が切れ、安堵する皐月の元に、美雲や霜田が駆け寄ってきた。

「……はじめてにしては、悪くなかったんじゃないか?」

雪村も、憎まれ口を叩きつつも認めてくれた。

「ありがとうございます。美雲先生もお疲れ様でした。堂々としててかっこよかったです!」

「うそー!私なんて内心、足ガクガクだったよ?」

美雲は苦笑いし、そして目を細めて言葉を続けた。

「それより皐月ちゃんこそ、質問にもしっかり答えられてて……なんか、すごく成長したなーって感動しちゃった!」

「美雲先生……」

「よし!無事に終わったことだし!」

美雲はパンと手を叩いて、声を弾ませた。

「このままみんなで何か食べに行かない?緊張が解けたら、急にお腹空いちゃって!」

「いいわねー!パーッといきましょ、パーッと!」

霜田も上機嫌で同調する。

「俺は帰ります」

「えー。雪村くんも行こうよー?皐月ちゃんも行くでしょ?」

美雲の提案に心が揺れたが、皐月は申し訳なさそうに首を振った。

「ごめんなさい。私、この後予定があるので……」

「そっかー。残念」

美雲は不思議がる様子もなく、あっさりと引き下がった。

(……あれ?)

そういえば、美雲先生もさっき発表していたはずだ。

雨宮先生の言っていた食事会が、発表者への「慰労会」なら、同じく頑張った美雲先生も呼ばれていて然るべきなんじゃないだろうか。

(美雲先生、何も聞いてないの……?)

てっきり、指導医が発表メンバーを労うための食事会だと思っていた。
だが、この流れだと……。

(……私と雨宮先生、二人きり!?)

一気に手汗が滲んでくる。

動揺する皐月をよそに、霜田が雪村の腕をガシッと掴んだ。

「雪村くんは強制参加よ。マッチングアプリについて、男性目線の意見がほしいから!」

「なんで俺が……」

「ほら、奢ってあげるから来なさい」

「皐月ちゃんまたねー!五十嵐くんとのデート楽しんでー!」

「えっ!?ち、違います!」

美雲の悪気ない冷やかしに、皐月は顔を赤くして否定した。

「あはは、またまた~。じゃあね!」

美雲たちが去っていくのを見送り、一息ついたところへ、雨宮が近づいてきた。

「……そろそろ行くぞ」

「あ、はい!」

皐月は慌てて荷物を持ち直した。



雨宮に連れられたのは、路地裏にひっそりと佇む小料理屋だった。
通された個室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。

緊張で背筋を伸ばす皐月の前で、雨宮は手酌で日本酒を煽った。

「……今日の発表、良かった」

唐突な言葉に、皐月は顔を上げた。 雨宮は猪口を置き、普段の厳しい表情を少しだけ緩めていた。

「質疑応答の切り返しも完璧だった。……私が教えた通りにな」

「あ、ありがとうございます。先生のご指導のおかげです」

皐月が深く頭を下げると、雨宮はふっと息を吐き、姿勢を崩した。
眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐに皐月を射抜く。

「……天野。もう、仕事の話は終わりだ」

雨宮の声色が、ふわりと変わった。

「ここからは、指導医としてではなく、俺の言葉で話す」

一人称が『私』から『俺』へ。

たった一文字の変化が、二人の間の空気を劇的に変質させた。



雨宮に連れられたのは、路地裏にひっそりと佇む小料理屋だった。
通された個室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。

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「……今日の発表、良かった」

唐突な言葉に、皐月は顔を上げた。 雨宮は猪口を置き、普段の厳しい表情を少しだけ緩めていた。

「質疑応答の切り返しも完璧だった。……私が教えた通りにな」

「あ、ありがとうございます。先生のご指導のおかげです」

皐月が深く頭を下げると、雨宮はふっと息を吐き、姿勢を崩した。
眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐに皐月を射抜く。

「……天野。もう、仕事の話は終わりだ」

雨宮の声色が、ふわりと変わった。

「ここからは、指導医としてではなく、俺の言葉で話す」

一人称が『私』から『俺』へ。

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