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あとがき
あとがき①
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― あとがき ―
冒頭に記したように、本書は歴史資料として、もっとも信憑性の高い「信長公記」に基づき創作したものである。その例をいくつか挙げ補足する。
・簗田広正、政綱、弥次右衛門について
実は、政綱の名は、信長公記には出てこない。しかし、他の歴史資料では沓掛城主として散見し、広正はその息子と言われている。弥次右衛門については信長公記に、信長の清州城奪取に貢献し、九之坪城主になったとの記述がある。この3人は、同一人物との説もあるため、九之坪城主だったり、桶狭間の土豪だったりと伝えられ、謎が多い人物でもある。
本書では3人とも別人とし、政綱と弥次右衛門は、兄弟という設定にした。兄弟も多かった時代であるから、可能性としては十分あると思われる。
・武田信玄の信長評
本書で、かの武田信玄が若き日の信長を評価した、との記述がある。これも信長公記に記載があり、尾張の高僧から信長の鷹狩の話を聞いて、信玄が「戦を良く知っている」と評価した。鷹狩の話から、突然戦の話になったため、高僧は不思議がったという。
・守護会談
三河での守護会談も信長公記に記載がある。義元の提案で開催され、信長は参加したとあるが、義元本人が来たとは書かれていない。しかし、守護同士の会談を設定しておきながら、発案者が出席していないのも可笑しな話であるため、義元が参加した可能性は高いと言える。本書では、義元は信長を直接目にし、潜在能力の高さを見抜き、信長抹殺を決意する。一方、信長は、義元の顔と輿を覚えていたため、桶狭間山で義元の位置を確信することになる。
・義元本陣の位置
信長公記では、信長が善照寺砦へ着くころ、義元も桶狭間山に居たとの記載がある。山の上であれば、目立っていたであろうし、義元の位置は、かなり周知の事実であったと思われる。義元本陣の位置を突き止めた事で、政綱が一番手柄となったとの説があるが、場所を報告しただけで手柄になるとは考えにくい。本書では、破格の恩賞の理由は、息子広正の活躍と将来性によるものとした。
・信長の大高攻め発言、義元の謡
信長公記では、信長が中島砦を出る際、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずという趣旨の発言をし、家臣を励ましたとある。そのため、信長は、大高方面の今川軍を叩こうとして、偶然義元本陣と接触したとの説もある。また、義元が謡をうたって、戦勝気分だったとの記載もある。しかし、命をかけて戦う戦国大名同士、しかも信長と義元程の武将である。そのような勘違いや油断があったとは考えにくい。
本書では、双方が綿密な戦略をもって、かつ並々ならぬ決意で戦に望んだと仮定し、これらの発言は作戦の一部だったとした。その上で、辻褄が合うよう両軍の戦略を想像した。
・佐々政次、千秋季忠の突撃
信長公記では、佐々、千秋隊が、わずか3百の兵で今川軍へ突入したと記載がある。これも不可解な行動のため、色々と憶測を呼んでいる。単に、手柄を急いだとの説。信長の影武者として戦い、信長が死んだと見せかける説。隊が全滅したと見せかけて、義元本陣の背後に回る別動隊説。
本書では、義元本隊ではなく、前衛部隊へ攻撃をしかけるための出陣とした。これにより、信長が義元の作戦に気付くきっかけとした。
・中島砦からの正面攻撃
信長公記では、中島砦から出陣し、義元本陣へ近づいたと記載がある。本書も、その通りとしたが、単純な正面攻撃ではなく、隠れ山道を使って密行する作戦とした。
・雨の降るタイミング
信長公記では、信長が桶狭間山の近くまで到着した時、にわかに雨が降り出したとある。よくある説として、雨が降ったため、中島砦から義元本陣まで信長が気付かれなかった、というものがある。
しかし、本書では信長公記の記載通り、雨の降るタイミングは、信長が桶狭間山付近に到着した後とした。そして大雨は、信長の接近を、最後に少し後押しする程度の役割にとどめた。
冒頭に記したように、本書は歴史資料として、もっとも信憑性の高い「信長公記」に基づき創作したものである。その例をいくつか挙げ補足する。
・簗田広正、政綱、弥次右衛門について
実は、政綱の名は、信長公記には出てこない。しかし、他の歴史資料では沓掛城主として散見し、広正はその息子と言われている。弥次右衛門については信長公記に、信長の清州城奪取に貢献し、九之坪城主になったとの記述がある。この3人は、同一人物との説もあるため、九之坪城主だったり、桶狭間の土豪だったりと伝えられ、謎が多い人物でもある。
本書では3人とも別人とし、政綱と弥次右衛門は、兄弟という設定にした。兄弟も多かった時代であるから、可能性としては十分あると思われる。
・武田信玄の信長評
本書で、かの武田信玄が若き日の信長を評価した、との記述がある。これも信長公記に記載があり、尾張の高僧から信長の鷹狩の話を聞いて、信玄が「戦を良く知っている」と評価した。鷹狩の話から、突然戦の話になったため、高僧は不思議がったという。
・守護会談
三河での守護会談も信長公記に記載がある。義元の提案で開催され、信長は参加したとあるが、義元本人が来たとは書かれていない。しかし、守護同士の会談を設定しておきながら、発案者が出席していないのも可笑しな話であるため、義元が参加した可能性は高いと言える。本書では、義元は信長を直接目にし、潜在能力の高さを見抜き、信長抹殺を決意する。一方、信長は、義元の顔と輿を覚えていたため、桶狭間山で義元の位置を確信することになる。
・義元本陣の位置
信長公記では、信長が善照寺砦へ着くころ、義元も桶狭間山に居たとの記載がある。山の上であれば、目立っていたであろうし、義元の位置は、かなり周知の事実であったと思われる。義元本陣の位置を突き止めた事で、政綱が一番手柄となったとの説があるが、場所を報告しただけで手柄になるとは考えにくい。本書では、破格の恩賞の理由は、息子広正の活躍と将来性によるものとした。
・信長の大高攻め発言、義元の謡
信長公記では、信長が中島砦を出る際、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずという趣旨の発言をし、家臣を励ましたとある。そのため、信長は、大高方面の今川軍を叩こうとして、偶然義元本陣と接触したとの説もある。また、義元が謡をうたって、戦勝気分だったとの記載もある。しかし、命をかけて戦う戦国大名同士、しかも信長と義元程の武将である。そのような勘違いや油断があったとは考えにくい。
本書では、双方が綿密な戦略をもって、かつ並々ならぬ決意で戦に望んだと仮定し、これらの発言は作戦の一部だったとした。その上で、辻褄が合うよう両軍の戦略を想像した。
・佐々政次、千秋季忠の突撃
信長公記では、佐々、千秋隊が、わずか3百の兵で今川軍へ突入したと記載がある。これも不可解な行動のため、色々と憶測を呼んでいる。単に、手柄を急いだとの説。信長の影武者として戦い、信長が死んだと見せかける説。隊が全滅したと見せかけて、義元本陣の背後に回る別動隊説。
本書では、義元本隊ではなく、前衛部隊へ攻撃をしかけるための出陣とした。これにより、信長が義元の作戦に気付くきっかけとした。
・中島砦からの正面攻撃
信長公記では、中島砦から出陣し、義元本陣へ近づいたと記載がある。本書も、その通りとしたが、単純な正面攻撃ではなく、隠れ山道を使って密行する作戦とした。
・雨の降るタイミング
信長公記では、信長が桶狭間山の近くまで到着した時、にわかに雨が降り出したとある。よくある説として、雨が降ったため、中島砦から義元本陣まで信長が気付かれなかった、というものがある。
しかし、本書では信長公記の記載通り、雨の降るタイミングは、信長が桶狭間山付近に到着した後とした。そして大雨は、信長の接近を、最後に少し後押しする程度の役割にとどめた。
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「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
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「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
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と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
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と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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