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105 胎内記憶
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トイレを口実にして長埜を探す。そして冬次は彼女を職員用の給湯室で見つけた。けれどうつむいて立っている長埜はひっそりと涙を流しており話しかけることがためらわれ、声をかけないまま相談室に戻った。
そんな中、長埜は何事もなかった顔で戻ってきた。涙ぐんだ痕跡も感じさせず、席に座ると南雲に母親の話をしはじめる。
「涼さんを生んだ夕貴には運命の番がいましたよ」
南雲が話に吸い寄せられていくのを見ながら、冬次は長埜の涙のわけを考えていた。
「その人は母さんのそばにいたんだね?」
興味の示すことには無邪気な南雲の問いを長埜はためらいなく肯定する。
でも真実なのかどうか、どうしても冬次は信じられない。
なぜこれまで一度もその話が出てこなかったのか、理由を考えれば明確だった。
長埜はまるで正しいことだと思い込ませるような嘘をつく。
「写真を見たいな。かおる先生、お願いします」
「ごめんなさい。写真は施設を移す時に処分してしまったの」
写真などあるわけない長埜は南雲にそう説明したが、南雲の研究に対する執念深い性格が災いした。
「母さんが写ってるのに捨てるの? きっと一枚くらい探したらあるよね。職員に訊いてみてもいいですか?」
「あ・・・・・・」
今にも立って行こうとする南雲を説得する材料がなく万策が尽き、冬次はやはり黙ってられなくなった。
「運命の番がいたなんて嘘っすよね」
冬次の告発に長埜は見事なほど白々しく首をかしげる。
「本当よ。写真がないのは写真嫌いだったからなの」
「ご自分で写真は処分したって言いませんでしたか?」
心苦しくも冬次は淡々と指摘した。
「両方理由なの」
意外にも頑固に嘘を突きとおそうとする長埜。
しかし南雲の顔を見て込みあげる感情を抑えられなくなり、長埜は急拵えの決意を揺らがせ、張りつめていた緊張の糸を弛ませた途端に椅子の上で肩を落とした。
「えっ、嘘なの? なんで?」
南雲が眼を白黒させる。
「僕の推測はまちがっていたのか。運命の番がいないなら仮説は成り立たないよ」
冬次は愕然とする南雲を優しい目でなだめた。
「涼くんは見えてないの? 自分の頭の中ばかり見てないでお母さんが誰を大切にしていたか思い出してみなよ」
だが南雲は眉をひそめ、またぶつぶつ念仏を唱えるようにひとり言をくりかえしながら椅子の上で縮こまる。
ああ、もう、と冬次は南雲の頰を叩いて目を覚まさせてやりたい衝動にとらわれた。関与しないつもりの兄貴は使い物にならなそうだし、冬次がこの場をおさめなくては帰れないのだ。
「長埜さん、涼くんはこういう子ですよ。空気で感じとってもらおうとか無理ですから。あなたが本当のことを打ち明けないと、涼くんは正解が見つかるまでぐるぐるぐるぐる考えつづけることになります。それこそ夜も寝ないで」
南雲の悩みがいかに深いものになるか知っている冬次は、長埜が思わず耳をかたむけるほどに鬼気迫る口調で喋っていた。
冬次が真摯にぶつけた気持ちを長埜は凍りついた顔で聞いていた。
「そうね」
長埜がこらえきれず口を覆い、涙で声を詰まらせる。長埜は南雲の顔を上げさせてから、スマホケースから写真を抜きとって置いた。
「見たがってた写真よ」
冬次は南雲の横から写真を覗かせてもらう。若い頃の夕貴と長埜を撮った写真だ。
南雲がほしがった答えの全てが写っているが、鈍感な少年は写真を長埜の方へ滑らせ、あまつさえ口角をキュッと上げてみせた。
「これじゃないよ?」
そのため冬次は南雲が突き返した写真を彼の前に戻す。
「よく見て。よく思い出して。君のお母さんが助けを必要としている時に長埜さんを求めたのはどうしてだと思う? 長埜さんが無条件に君のお母さんを助けたのはどうしてだと思う?」
ようやく南雲の目に冬次が言わんとしていることを悟った輝きが灯った。
「母さんとかおる先生が運命の番?」
天才とは思えない呆れた結論だが、冬次は根気強く南雲を導こうとする。
「長埜さんはベータでしょ」
南雲は余計に混乱した。
「つまり恋愛感情とバース性がもたらす影響を分けて考える必要はないってこと?」
「俺は教えられるほど経験豊富ってわけじゃないけどそういうことになるんじゃないの」
冬次に教えられるのはそこまでだ。冬次は長埜に嘘を吐いた説明を求めた。
長埜はもはや観念して隠し立てせず打ち明ける。
「大人になった涼さんと話し合って決めてたの」
「また僕かよ」
南雲が舌打ちする。
「彼ね、私たちの関係を知ってすごく怯えてたみたいだった。だから私本当のことは言わないでと乞われてついうなずいちゃったのよ。生まれてきた涼さんが私と母親の関係を気にするとは限らないしって軽く考えてた部分もあったから。本当に嘘をつくかどうかはその時に決めればいいやとも思ってた」
「それで涼くんの顔を見て嘘をつく方に決めた?」
「ええそうしたの。涼さんが運命の番と私たちを重ねてくれたことが嬉しかった・・・・・・」
長埜は涙ぐんでしまい言葉を続けられない。
冬次が感じたのは長埜は南雲の中でだけでも好きな人の運命の番になりたかったのかもしれないということ。アルファやオメガは性分化してからベータとは離れたレールの上を歩かされる。ベータが望んでも手に入らないものを羨み、一瞬の心の迷いに負けてしまうことだってある。
「未来の僕の言いなりになんてならないでよ」
一方で南雲は彼女の想いの丈に理解が及ばず、まだ文句を垂れている。
「僕のくせに僕の人生を邪魔したいの?」
すると長埜は涙をふいて口をひらいた。
「夕貴が涼さんに残した手紙ね、あれの内容は夕貴が押しきって書いたのよ。大人のあなたは書かないでと言っていたけど息子に指図されるほど弱い母親になるつもりはないってキッパリ断ってた。特別な頭をもって生まれてくる息子に隠し立てしたって意味がないってそりゃあすごい剣幕でね。話さないってことは信じてないってことになる。息子なら乗り越えられるって信じてるから時がきたら手紙に託して話すよって言うもんだから大人の涼さんも折れたのよ」
この言葉は大人の南雲にも向けられていたはずで、母から直接この言葉を聞いた南雲さんはきっと嬉しかったにちがいない。
南雲少年は何を思っているのだろう。
そんな中、長埜は何事もなかった顔で戻ってきた。涙ぐんだ痕跡も感じさせず、席に座ると南雲に母親の話をしはじめる。
「涼さんを生んだ夕貴には運命の番がいましたよ」
南雲が話に吸い寄せられていくのを見ながら、冬次は長埜の涙のわけを考えていた。
「その人は母さんのそばにいたんだね?」
興味の示すことには無邪気な南雲の問いを長埜はためらいなく肯定する。
でも真実なのかどうか、どうしても冬次は信じられない。
なぜこれまで一度もその話が出てこなかったのか、理由を考えれば明確だった。
長埜はまるで正しいことだと思い込ませるような嘘をつく。
「写真を見たいな。かおる先生、お願いします」
「ごめんなさい。写真は施設を移す時に処分してしまったの」
写真などあるわけない長埜は南雲にそう説明したが、南雲の研究に対する執念深い性格が災いした。
「母さんが写ってるのに捨てるの? きっと一枚くらい探したらあるよね。職員に訊いてみてもいいですか?」
「あ・・・・・・」
今にも立って行こうとする南雲を説得する材料がなく万策が尽き、冬次はやはり黙ってられなくなった。
「運命の番がいたなんて嘘っすよね」
冬次の告発に長埜は見事なほど白々しく首をかしげる。
「本当よ。写真がないのは写真嫌いだったからなの」
「ご自分で写真は処分したって言いませんでしたか?」
心苦しくも冬次は淡々と指摘した。
「両方理由なの」
意外にも頑固に嘘を突きとおそうとする長埜。
しかし南雲の顔を見て込みあげる感情を抑えられなくなり、長埜は急拵えの決意を揺らがせ、張りつめていた緊張の糸を弛ませた途端に椅子の上で肩を落とした。
「えっ、嘘なの? なんで?」
南雲が眼を白黒させる。
「僕の推測はまちがっていたのか。運命の番がいないなら仮説は成り立たないよ」
冬次は愕然とする南雲を優しい目でなだめた。
「涼くんは見えてないの? 自分の頭の中ばかり見てないでお母さんが誰を大切にしていたか思い出してみなよ」
だが南雲は眉をひそめ、またぶつぶつ念仏を唱えるようにひとり言をくりかえしながら椅子の上で縮こまる。
ああ、もう、と冬次は南雲の頰を叩いて目を覚まさせてやりたい衝動にとらわれた。関与しないつもりの兄貴は使い物にならなそうだし、冬次がこの場をおさめなくては帰れないのだ。
「長埜さん、涼くんはこういう子ですよ。空気で感じとってもらおうとか無理ですから。あなたが本当のことを打ち明けないと、涼くんは正解が見つかるまでぐるぐるぐるぐる考えつづけることになります。それこそ夜も寝ないで」
南雲の悩みがいかに深いものになるか知っている冬次は、長埜が思わず耳をかたむけるほどに鬼気迫る口調で喋っていた。
冬次が真摯にぶつけた気持ちを長埜は凍りついた顔で聞いていた。
「そうね」
長埜がこらえきれず口を覆い、涙で声を詰まらせる。長埜は南雲の顔を上げさせてから、スマホケースから写真を抜きとって置いた。
「見たがってた写真よ」
冬次は南雲の横から写真を覗かせてもらう。若い頃の夕貴と長埜を撮った写真だ。
南雲がほしがった答えの全てが写っているが、鈍感な少年は写真を長埜の方へ滑らせ、あまつさえ口角をキュッと上げてみせた。
「これじゃないよ?」
そのため冬次は南雲が突き返した写真を彼の前に戻す。
「よく見て。よく思い出して。君のお母さんが助けを必要としている時に長埜さんを求めたのはどうしてだと思う? 長埜さんが無条件に君のお母さんを助けたのはどうしてだと思う?」
ようやく南雲の目に冬次が言わんとしていることを悟った輝きが灯った。
「母さんとかおる先生が運命の番?」
天才とは思えない呆れた結論だが、冬次は根気強く南雲を導こうとする。
「長埜さんはベータでしょ」
南雲は余計に混乱した。
「つまり恋愛感情とバース性がもたらす影響を分けて考える必要はないってこと?」
「俺は教えられるほど経験豊富ってわけじゃないけどそういうことになるんじゃないの」
冬次に教えられるのはそこまでだ。冬次は長埜に嘘を吐いた説明を求めた。
長埜はもはや観念して隠し立てせず打ち明ける。
「大人になった涼さんと話し合って決めてたの」
「また僕かよ」
南雲が舌打ちする。
「彼ね、私たちの関係を知ってすごく怯えてたみたいだった。だから私本当のことは言わないでと乞われてついうなずいちゃったのよ。生まれてきた涼さんが私と母親の関係を気にするとは限らないしって軽く考えてた部分もあったから。本当に嘘をつくかどうかはその時に決めればいいやとも思ってた」
「それで涼くんの顔を見て嘘をつく方に決めた?」
「ええそうしたの。涼さんが運命の番と私たちを重ねてくれたことが嬉しかった・・・・・・」
長埜は涙ぐんでしまい言葉を続けられない。
冬次が感じたのは長埜は南雲の中でだけでも好きな人の運命の番になりたかったのかもしれないということ。アルファやオメガは性分化してからベータとは離れたレールの上を歩かされる。ベータが望んでも手に入らないものを羨み、一瞬の心の迷いに負けてしまうことだってある。
「未来の僕の言いなりになんてならないでよ」
一方で南雲は彼女の想いの丈に理解が及ばず、まだ文句を垂れている。
「僕のくせに僕の人生を邪魔したいの?」
すると長埜は涙をふいて口をひらいた。
「夕貴が涼さんに残した手紙ね、あれの内容は夕貴が押しきって書いたのよ。大人のあなたは書かないでと言っていたけど息子に指図されるほど弱い母親になるつもりはないってキッパリ断ってた。特別な頭をもって生まれてくる息子に隠し立てしたって意味がないってそりゃあすごい剣幕でね。話さないってことは信じてないってことになる。息子なら乗り越えられるって信じてるから時がきたら手紙に託して話すよって言うもんだから大人の涼さんも折れたのよ」
この言葉は大人の南雲にも向けられていたはずで、母から直接この言葉を聞いた南雲さんはきっと嬉しかったにちがいない。
南雲少年は何を思っているのだろう。
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