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119 藤井家再び
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バース性抹消薬のニュースが世に出てから一週間。冬次は仕事の合間に座間に電話をかけた。
「はぁ」
座間は一度も電話に出ない。メッセージも既読無視だ。しかし見てくれているなら生存確認はできている。冬次と話をしたくないだけなんだろう。
あれから世の中に広まる情報は日に日に更新されていく。ナナクサ製薬はバース性抹消薬を大々的に認めて事業を再開した。上層部の方向転換は早く、社内で真逆の研究を推し進めていたことが嘘のように経営の軸をこれ一本に切り替えた。ナナクサ製薬が政治家の思惑を切り離して決断したことで世論が味方につき、省庁のお偉いさんは沈黙させられたのである。
谷峨のシナリオどおりにこちらにとってこれ以上ない好展開に転がりつつあり、兄貴は警戒を強めていた。兄貴は涼くんの管理権をもぎとり、邸宅に信頼のおける部下を置いた。
冬次が感じた嫌な予感は少しずつ芽を出しはじめていて、涼くんがいる邸宅には情報の早いマスコミがさっそく張りついている。部外者の冬次は彼らの姿を見かけてから足を運ぶのを避け兄貴に任せることにした。手を出せない立場になり下がったことがひどくもどかしい。
この日、冬次は大事な用を控えていた。仕事終わりに急いで向かったのは藤井家。藤井の退院日なのだ。
藤井家の玄関前は掃き清められており、窓には明かりが灯る。人の温かみが戻った藤井家に冬次は胸を踊らせた。気を揉んでばかりだった近頃は心体共にガチガチに固まっていて、藤井家の玄関の懐かしい香りがそんな冬次の体と心をふわりと解きほぐした。
「克己さん」
ただいまか、おかえりなさいか? ごめんくださいか?
言葉に迷っているうちに奥から「おつかれさん」と藤井が出迎えにきた。冬次は付き添っている七草に目を丸くする。
「退院おめでとう⋯⋯」
「ありがとう。やっと我が家に帰ってこれて嬉しいよ」
藤井と会話しながらも冬次は七草を見ていた。七草は完全に猫をかぶるのをやめたらしく、愛想笑いせず「こんばんは」と口にした。嫌われているなとわかる態度がむしろ清々しい。彼を傷つけた冬次に言えることじゃないが冬次と一緒にいた頃より好感がもてる素の姿だった。
玄関には見慣れない花瓶に綺麗に花が生けられている。藤井が退院時に迎えにいこうかという冬次の申し出を固辞したのは七草と帰ってくる予定があったからなのだ。
「俺お邪魔だったんじゃない?」
ふざけたようにそう言うと、冬次は曲がれ右をする。
「お前を呼んだのは俺だろう。遠慮しないで上がってくれよ」
本当にいいのか。冬次は気まずさを拭えず、七草をのぞき見た。
「どうぞ」
と七草がスリッパを用意してくれる。
そこまでされて帰る理由もない。冬次はありがたくスリッパに足を入れ、家に上がった。
その後リビングで夕食をご馳走になり、不動産会社の近況を中心に話をした。そして冬次の話題が終われば、藤井の生活に触れる流れになり、冬次は藤井へ「これからどうするのか」と訊ねた。指と目線で藤井と七草を交互にさしながら。
「善光くん、実家から出られたんだね」
七草は口を歪めて笑う。
「うちは今それどころじゃないからね。世間で大騒ぎになってるあれのせいで家族はみんな忙殺されてる。冬次さんと婚約破棄してすぐ次を充てがわれるかと思ったけど仁科さんが便宜をはかってくれたからおかげで自由になれた」
「兄貴が便宜って?」
冬次が眉をひそめると藤井が短くため息をつく。
「春真から聞いてないのか。俺たち形だけだが籍を入れたんだ」
「入れた?」
冬次は口をパクパクさせた。
「結婚という形で善光くんが自由に生きる障壁を取り除けるならしてもいいかと思って」
「や、でもさ、急すぎないか」
「今の混乱に乗じるんだって兄貴が言ってたぞ」
そうだよと、七草が相槌を打った。
「本来は蕾会に報告して許しをもらうっていう順序が必要なんだよ。今だからそこをすっとばせたの。うちや座間家と繋がりが深い蕾会も影響を受けて活動を停止してるみたい。このまま解体されて失くなっちゃうんじゃないかって話もでてる」
ちっとも残念がらずに七草は言う。蕾会が存続させられていた裏の目的を知らずとも七草を籠の鳥のごとく縛り閉じこめた蕾会に未練もクソも感じるはずもない。やっと自分らしく生きる足がかりを掴んだ七草に、足がかりを作り支えようとする藤井に、冬次が口を挟めることは何もなかった。
ただ本心から藤井が心を寄せられるオメガができてよかったと思うだけだ。
「二人の末永い幸せに乾杯しとこうよ」
冬次がビールを開けようとすると、七草が渋い顔をする。何かまちがったのか?
藤井は咳払いして続けた。
「形だけって言ったろ。恋愛感情はないんだよ」
「少しも互いに気持ちがないのに結婚したわけ?」
「だからそうなんだって」
藤井が夢描いた運命の番とかけ離れた選択だ。だが七草の前で問うほど冬次は無神経な人間じゃない。言いたいことを呑み込んで口を引き結んだが、冬次は困惑して目線が責めたようになり七草を怒らせた。
「どうせオメガはアルファがいないと生きていけないって馬鹿にしてるんでしょ」
「してないよ!」
「そのとおりだから。冬次さんに気に入ってもらえるように大人しくしてつき合ってたし、それが駄目になったから次は克己さんに近づいた。次から次にオメガって寄生虫みたいだよね。バース性抹消薬が完成してこの面倒な体から解放されたら絶対にアルファなんか頼らないっ。ひとりで生きていってやるからっ!」
悪気はなかったが、地雷を踏んでしまった。七草は辛辣に自身をおとしめ、呼吸を乱しはじめた。すかさず藤井が止めに入り、七草をなだめながら別室に連れていった。
「はぁ」
座間は一度も電話に出ない。メッセージも既読無視だ。しかし見てくれているなら生存確認はできている。冬次と話をしたくないだけなんだろう。
あれから世の中に広まる情報は日に日に更新されていく。ナナクサ製薬はバース性抹消薬を大々的に認めて事業を再開した。上層部の方向転換は早く、社内で真逆の研究を推し進めていたことが嘘のように経営の軸をこれ一本に切り替えた。ナナクサ製薬が政治家の思惑を切り離して決断したことで世論が味方につき、省庁のお偉いさんは沈黙させられたのである。
谷峨のシナリオどおりにこちらにとってこれ以上ない好展開に転がりつつあり、兄貴は警戒を強めていた。兄貴は涼くんの管理権をもぎとり、邸宅に信頼のおける部下を置いた。
冬次が感じた嫌な予感は少しずつ芽を出しはじめていて、涼くんがいる邸宅には情報の早いマスコミがさっそく張りついている。部外者の冬次は彼らの姿を見かけてから足を運ぶのを避け兄貴に任せることにした。手を出せない立場になり下がったことがひどくもどかしい。
この日、冬次は大事な用を控えていた。仕事終わりに急いで向かったのは藤井家。藤井の退院日なのだ。
藤井家の玄関前は掃き清められており、窓には明かりが灯る。人の温かみが戻った藤井家に冬次は胸を踊らせた。気を揉んでばかりだった近頃は心体共にガチガチに固まっていて、藤井家の玄関の懐かしい香りがそんな冬次の体と心をふわりと解きほぐした。
「克己さん」
ただいまか、おかえりなさいか? ごめんくださいか?
言葉に迷っているうちに奥から「おつかれさん」と藤井が出迎えにきた。冬次は付き添っている七草に目を丸くする。
「退院おめでとう⋯⋯」
「ありがとう。やっと我が家に帰ってこれて嬉しいよ」
藤井と会話しながらも冬次は七草を見ていた。七草は完全に猫をかぶるのをやめたらしく、愛想笑いせず「こんばんは」と口にした。嫌われているなとわかる態度がむしろ清々しい。彼を傷つけた冬次に言えることじゃないが冬次と一緒にいた頃より好感がもてる素の姿だった。
玄関には見慣れない花瓶に綺麗に花が生けられている。藤井が退院時に迎えにいこうかという冬次の申し出を固辞したのは七草と帰ってくる予定があったからなのだ。
「俺お邪魔だったんじゃない?」
ふざけたようにそう言うと、冬次は曲がれ右をする。
「お前を呼んだのは俺だろう。遠慮しないで上がってくれよ」
本当にいいのか。冬次は気まずさを拭えず、七草をのぞき見た。
「どうぞ」
と七草がスリッパを用意してくれる。
そこまでされて帰る理由もない。冬次はありがたくスリッパに足を入れ、家に上がった。
その後リビングで夕食をご馳走になり、不動産会社の近況を中心に話をした。そして冬次の話題が終われば、藤井の生活に触れる流れになり、冬次は藤井へ「これからどうするのか」と訊ねた。指と目線で藤井と七草を交互にさしながら。
「善光くん、実家から出られたんだね」
七草は口を歪めて笑う。
「うちは今それどころじゃないからね。世間で大騒ぎになってるあれのせいで家族はみんな忙殺されてる。冬次さんと婚約破棄してすぐ次を充てがわれるかと思ったけど仁科さんが便宜をはかってくれたからおかげで自由になれた」
「兄貴が便宜って?」
冬次が眉をひそめると藤井が短くため息をつく。
「春真から聞いてないのか。俺たち形だけだが籍を入れたんだ」
「入れた?」
冬次は口をパクパクさせた。
「結婚という形で善光くんが自由に生きる障壁を取り除けるならしてもいいかと思って」
「や、でもさ、急すぎないか」
「今の混乱に乗じるんだって兄貴が言ってたぞ」
そうだよと、七草が相槌を打った。
「本来は蕾会に報告して許しをもらうっていう順序が必要なんだよ。今だからそこをすっとばせたの。うちや座間家と繋がりが深い蕾会も影響を受けて活動を停止してるみたい。このまま解体されて失くなっちゃうんじゃないかって話もでてる」
ちっとも残念がらずに七草は言う。蕾会が存続させられていた裏の目的を知らずとも七草を籠の鳥のごとく縛り閉じこめた蕾会に未練もクソも感じるはずもない。やっと自分らしく生きる足がかりを掴んだ七草に、足がかりを作り支えようとする藤井に、冬次が口を挟めることは何もなかった。
ただ本心から藤井が心を寄せられるオメガができてよかったと思うだけだ。
「二人の末永い幸せに乾杯しとこうよ」
冬次がビールを開けようとすると、七草が渋い顔をする。何かまちがったのか?
藤井は咳払いして続けた。
「形だけって言ったろ。恋愛感情はないんだよ」
「少しも互いに気持ちがないのに結婚したわけ?」
「だからそうなんだって」
藤井が夢描いた運命の番とかけ離れた選択だ。だが七草の前で問うほど冬次は無神経な人間じゃない。言いたいことを呑み込んで口を引き結んだが、冬次は困惑して目線が責めたようになり七草を怒らせた。
「どうせオメガはアルファがいないと生きていけないって馬鹿にしてるんでしょ」
「してないよ!」
「そのとおりだから。冬次さんに気に入ってもらえるように大人しくしてつき合ってたし、それが駄目になったから次は克己さんに近づいた。次から次にオメガって寄生虫みたいだよね。バース性抹消薬が完成してこの面倒な体から解放されたら絶対にアルファなんか頼らないっ。ひとりで生きていってやるからっ!」
悪気はなかったが、地雷を踏んでしまった。七草は辛辣に自身をおとしめ、呼吸を乱しはじめた。すかさず藤井が止めに入り、七草をなだめながら別室に連れていった。
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