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英国編

番外編 エリオット視点(前編)

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 冬。十一月も半ばに差し掛かった頃、エリオットは朝早くから寒空の下で精を出していた。クリスマスツリー用のもみの木を用意したのだ。高さはおよそ二メートル近くあり、立ち上がった野生の熊を間近に見ているくらいの迫力があった。
 そんな巨大なクリスマスツリーを、今年は生まれて初めてのクリスマスを経験する小さなアッシュと愛しい我が子を産んでくれた成彦のためにせっせと手配していたのである。
 
「いいよ。いい感じ」
 
 ドミニクに指示を出し、使用人の手を借りてリビングに運び入れる。部屋の中央にある暖炉の横に置けば見栄えもばっちりだ。ちょうど窓の横にも重なるので、運良く雪が降ってくれたとしたら、窓の外の雪景色と相まって素晴らしいクリスマスになるだろう。
 そして夜はツリー飾りと揃えてカーテンにも飾りをつけようと、エリオットはわくわくと楽しい想像を膨らませた。
 
「あなたがそのような顔をなさるとは驚きですよ」
 
 ドミニクがくすくすと笑う。
 
「そのようなとはなんだ。言ってみろ」
 
 エリオットはよく知る間柄だからこそのくだけた調子で返す。
 
「外では怖い顔がゆるんでゆるんで頬っぺたが落ちそうです」
「ははっ、言ってくれる」
「エリオット様が言えとおっしゃったので」
 
 それは間違いないが、実践してくるのはドミニクしかいない。サテンスキー家およびオリバー商会において、エリオットは家長であり全従業員のあるじ、まさに王だからだ。
 ———と、寝室で赤ん坊の泣き声がした。
 アッシュが目覚めたのだろう。力強い泣き方は将来の有望さを感じさせる。一方、泣き止ませる役目の者は楽観的なことばかり言ってられない。エリオットは寝室に足を運んだが、すでにセイが助っ人に参上しており、息子のおしめを替えている成彦のそばで汚れを拭き取る用のホットタオルや新しい洋服を準備している。手際がいい。
 
「我々は完全に蚊帳の外ですね」
 
 と呟くドミニクにエリオットは同意する。
 
「これに関しては仕方ない」
「私は仕方ないで許されるかもしれませんが、エリオット様は仕方なくありません」
「何だって?」
「何だって、じゃありませんよ。父親でしょうに」
 
 まったくこの家令は、うぐっと返答に困ることを的確に突いてくる。
 
「成彦様は体調が優れない中で頑張っていらっしゃいます。今日は何のための休みですか?」
 
 クリスマスツリーを拵えるためと答えたら、どんな冷たい目で見られるか。
 エリオットもわかっている。数日前に上流階級の賓客を招いた結婚式と披露宴パーティーを終えた。成彦はその日まで気を張っていたせいもあり、直後から糸が切れてしまったように体調を崩していた。
 無理をさせてしまったことに心が痛み、だからこそ元気を出してもらおうとクリスマスを計画しているわけで。
 だがドミニクの言うように、身体を起こすだけで辛そうな成彦を労ってあげるにはクリスマスパーティーの前にやるべきことがある。
 エリオットがドアのふちをトントンとノックすると、成彦は青白い顔でふにゃりと微笑んだ。
 
「おはようございますエリオット様。気づかなくてすみません」
「いや、いいんだ。成彦は今日も顔色が良くないね」
「でも昨日よりは良くなっているんですよ。この頃ベッドの中だからそろそろアッシュと遊んであげないと」
「ああ、そうだな。承知した」
 
 そしてエリオットは足の指と睨めっこをしているアッシュを抱き上げた。
 
「アッシュ、今日はパパと過ごそう」
「う?」
 
 アッシュは目をぱちくりすると、わっと声を上げる。
 
「わぁ、や、やーー! まぁあああーー!」
 
 一瞬喜んでくれたのかと思ったエリオットは落胆を隠せない。母を呼ぶアッシュの悲嘆の声が大きく響き、お目目からぽろぽろと涙が。
 
「あ、あの、替わりましょうか?」
 
 見かねたセイが助け舟を差し伸べてくれるが、ここで引き渡すのは父として情けないにも程がある。
 
「大丈夫だ。君は成彦についててやってくれないか。今日は一日アッシュの世話のことは気にせず休ませてあげてほしい」
「わかりました」
 
 エリオットは決意が鈍らないうちにアッシュを寝室の外に連れ出した。
 朝食を食べさせてやるためにダイニングに移動し、ぐずるアッシュを宥めようと背中をとんとんするが、耳元でつんざくような泣き声を上げられ、早くも挫折がすぐそこまで迫る。
 
「なぁ、ドミニク、アッシュにパパなんて嫌いと思われてやしないだろうか」
「思われてるかもしれないですね」
「頼むからそこは否定してくれよ」
「・・・・・・んふ、くく、すみません」
「笑いごとじゃないぞ」
「ですけれど、社交界の場にいらっしゃるお子様たちには平気で接しているのに。あのキラキラしたスマイルは何処に置いてきたんですか?」
「アッシュは特別だよ」
 
 エリオットにとっては格上の気難しい相手と商談をまとめる以上の困難だ。
 アッシュは当然ながらエリオットの肩書きに目の色を変えない。忖度し、取り入ろうとして機嫌を取ろうとしない。まだ言葉が通じず、何を求めているのかも、育児の経験が浅いエリオットには理解ができない。それから何より嫌われたくない。大切にしたい。
 
「よしよし、パパと朝ご飯を食べよう。・・・あー、お願いだ、パパと朝ご飯を食べてくれないか? パパが可愛いアッシュと朝ご飯を食べたいんだ。どうかな?」
「う・・・ううう・・・うー」
 
 アッシュの涙は止まったものの、子ども用の椅子に下ろそうとすると、今度はエリオットの着ているセーターをぎゅっと握りしめて断固拒否だ。
 
「アッシュ・・・・・・」

 エリオットは困り果てる。
 
「椅子ではなくお膝の上はどうでしょう?」
 
 ドミニクの助言どおりにしてみると、すんなり座る。ホッとしたが、ものの数秒もしないうちにテーブルから皿が落下した。もちろん落としたのはアッシュだ。小さな悪戯小僧は父の膝の上で掴まり立ちし、びっくりするような手捌きで目に映るもの全てを掴んでは投げる。
 そのたびにキャッキャッと愛らしい反応を見せてくれるけれど看過できない。
 
「おっと、アッシュ、おしまいだ」
「イヤ!」
 
 アッシュは「まだやるの!」と伝えるように首をぶるぶると横に振る。
 
「洋服が汚れてしまうからね。それに食器が割れたら危険だよ」
「イヤー!」
 
 エリオットの手はジャムがたっぷりついたアッシュの手で払われた。その手でべちべちと叩かれ、クランベリーの果肉が膝の上とセーターに飛び散った。
 甘酸っぱい香りのする汚れを見つめ、エリオットはため息をあわやのところで呑み込む。
 
「成彦と共に食事をする時はもう少し穏やかにしていたと思うんだが」
「こう見えても子は賢いですから。赤子なりに考えているんです」
「私だから大騒ぎなのだな」
「甘えているのか、不満なのか」
「不満・・・なのだろうな」
「両方という可能性もありますよ。父親に甘えたい、でも負けたくないといった本能がすでに芽生えているのかもしれません」
 
 エリオットはドミニクの意見にはたと聞き入った。
 
「続けろ」
「まだまだ小さいのでわかりませんが、アッシュ様はエリオット様の血を濃く引き継いでいるように思えます。自分が大好きな母親を守るんだと、すでに強い意志を持っているのだと思います。エリオット様どうしますか? 強力なライバルの出現ですね」
 
 引き継がれていくのは外見や貴族の血筋だけじゃない。ドミニクが言いたいのはきっと争えないアルファの血のこと。
 
「こりゃ参ったな。しかしなアッシュ」
 
 エリオットは息子の頭を撫でる。
 
「今はいったん停戦して、アッシュとパパの二人で一日を乗り切ろうじゃないか。ママが安心して休めるように協力してほしいんだ。ついでに元気のないママを喜ばせる計画を立てよう」
 
 アッシュは父ゆずりのサファイアのような碧い目を見開いて、エリオットを見上げた。わずかながら見つめ合った後、ジャムのついた手をはむはむと口に入れる。
 
「もしかして、朝ご飯を食べてくれる気になったのではないですか」
 
 ドミニクが柔らかく焼いたパンケーキにジャムをつけて差し出すと、アッシュは素直に食べ始めた。
 
「偉いぞ、助かったよアッシュ」
 
 エリオットは胸を撫で下ろすと、アッシュが食事をする合間に自身も朝食にありついた。
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