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第三部
二十六話 エンジュの香る庭 前
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◆◇◆ (グウェンドルフside)
その日は朝から体調が優れなかった。
内側から引き攣るような筋肉の鈍い疲労を自覚したとき、それに思い至った。
――魔力暴走か。
三日前に会った彼が、別れ際に言及していたことを思い出す。彼は私の魔力暴走がそろそろだと言っていた。
すぐにカシス副団長に欠勤の連絡をし、マーサにも今日は離れには来ないようにと手紙蝶を送った。マーサに魔力暴走であることを伝えると、彼にも伝わってしまうかもしれない。そう思い、日中は屋敷内の防犯魔法を練り直すから来ないようにと、事実とは違うことを伝えた。
彼に知らせるのは躊躇われた。
魔力暴走が起きるときは自分を呼べと言われたが、そんな危険を冒すわけにはいかない。彼は魔力暴走を止められると言った。しかしそんなことが可能なのだろうか。とても信じられず、呼び寄せることなどできないと思った。
通信石のついたピアスは、付けるのが躊躇われて再び棚の引き出しにしまってある。
マーサに手紙蝶を送った後、二階に被害が及ぶことを考え、私は書庫の本を一階に移動させた。五年後の自分は、何故か一階の倉庫に保管していたはずの貴重書を二階に戻していた。
それらを整理して一階に避難させる作業が終わる頃、昼前に魔力暴走が始まった。
寝室に戻ると、いつにない早さで体調が悪化する。
最初はソファに座って耐えていたが、次第に上体を起こしていることが辛くなった。前屈みに崩れるように床に膝をついて、座面に片腕をついて縋る。
身体の内側で心臓を伝う魔力が溢れて行き場を失い、噴き出そうとしている。勢いのままに放出すれば、屋敷の二階は吹き飛ぶだろう。それを懸命に身体の奥に押しとどめると、皮膚の裏側に熱湯をかけられたような痛みが走った。
「……は」
じっと身動きせずに耐える。握りしめた拳に汗が滲み、俯いた額からも汗が伝って目尻に染みた。
五年後の自分は、魔力量が確実に増えている。
今まで経験したことのない勢いで魔力が溢れ、留めきれないものが身体の外に零れていった。それは暴走した魔力の塊となって部屋の中に突風や稲妻を起こす。甲高い音を立てて窓ガラスが割れ、破片が庭に落ちるのが見えたが自分ではどうしようもなかった。このままでは屋敷がどうなるかわからない。マーサに来ないように伝えておいて正解だった。
「……っ」
全身が燃えるような熱さを感じた。
直後に自分の周囲に炎が噴き出し、ソファとテーブルを焼いた。
炎を打ち消すための魔法を放とうと顔を上げた視線の先に、窓際の棚が見える。
彼の絵が飾られたままだった。雷撃が窓を砕いていたが、額はまだ棚の上に立っている。彼が来た翌日に私はもう一度ピアスと一緒に絵を引き出しにしまったが、何度しまってもマーサが棚の上に戻してしまうので、昨日は諦めていた。
床を這うように燃える炎が、棚の表面を焦がしている。
それを見た瞬間、何故そうしたのかわからないが、私は咄嗟に手を伸ばし、風魔法を放った。
暴走する魔力を押さえながら放った魔法は弱く、制御もできない。それでも窓際に吹きつけた風は棚の上に置かれていた小さな絵の額を傾けて、割れた窓から彼の絵を外に落とした。
それを見て私は息をつき、その絵が目の前で焼けてしまわなかったことに安堵した。
それから再び魔力暴走に耐え、始まってからどれほどの時間が経ったのか判然としなくなってきた。体内の魔力は収まる気配を見せない。魔力暴走には慣れているはずなのに、頭が朦朧とするほど長く収まらないという経験は初めてだった。
握った拳に力が入らなくなってくる。
今意識を失ったら、暴走した魔力が爆発するだろう。幼い頃、母の命を奪ってしまったときのように。
そう思って気を強く持とうと息を吸い込んだ瞬間、突然部屋の扉が開いた。
ぎょっとして顔を上げた私は、そこにいる人物を見て瞠目する。
「グウェンドルフ、大丈夫か」
険しい顔でそう言いながら躊躇わずに部屋の中に入ってきた金髪の彼を、鋭い声で制した。
「入るな!」
そう言うと彼は硬い表情のまま眉を上げたが、こちらに近づいてくる足は止めない。
私の周りは台風が通ったように荒れ果て、周りの家具も焦げているが、彼は全く意に介さず私の方へ真っ直ぐに歩いてくる。その眉間には皺が寄り、常葉色の目には怒りが浮かんでいた。
彼が現れた驚きで僅かに気が緩んだ瞬間、魔力が噴き出した。
出鱈目な方向に飛び散った雷撃の一片が彼を襲う。
「危ない!」
彼は表情を変えずに立ち止まった。
雷撃が当たる直前に、彼の前には小さな結界が現れる。
結界……?
その白い光の膜は、確かに光属性の結界魔法だった。
私が目を見開くと、結界で雷撃を受け流した彼はベルトから杖を引き抜いて構え、軽く振った。それだけで私の周りに散乱していた家具は全て浮いて、部屋の隅に飛んでいく。
それを最後まで目で追わずに、彼は真っ直ぐ私のもとに歩いてきた。
蹲っている私の傍に膝をついて、不機嫌そうな表情のまま、呆然とした私の顔を覗き込んでくる。
「だから言っただろ。俺を呼べって」
そう言って、彼は床の上で固く握られていた私の手を掴んだ。
その瞬間、身体の中で行き場を求めて荒れ狂っていた魔力がすっと収まるのを感じた。収まるというのか、まるで彼の手に吸い取られていくように私の身体から魔力が抜け出ていく。
目を見開いて彼を見ると、顔を顰めたまま私を見ていた彼は、表情を緩めて唇の端をわずかに上げた。
「そうは言っても、お前の性格なら自分から助けなんて求めないよな。ごめんな、苦しい思いをさせて。もっと早く確認に来ればよかった」
「あなたは……」
意味がわからない。何故魔力暴走が止まるのか。
何が起きているのかわからず、私は彼の手を見下ろした。
私の心の声が聞こえたように、彼は頬を指で掻いてから軽く首を傾げる。
「俺はグウェンドルフから溢れ出した魔力を吸収できる。ただ、それがなんでなのかはわからないんだ。多分、チーリンに昔力を譲ってもらったのが影響してるんだと思うんだけど」
「魔力を吸収できる……?」
「そう。触れてさえいれば、お前の中から魔力を吸い出せるんだよ。だから手を掴んでれば大丈夫。肌が触れてればいいから」
魔力を吸収できるなんて、俄には信じ難い。
私は呆然としたまま彼を見つめたが、自分の身体から魔力が吸い出されているのは事実だった。
そんなことが何故可能なのか理解できなかったが、消耗した身体はそれ以上の長考を拒んだ。
状況がわからないままに、体内で蟠っていた魔力はなくなり、呼吸が楽になる。
私の顔色を注意深く見ていた彼は、やがてほっとしたように息をついた。
「マーサさんから連絡をもらった。グウェンドルフには今日は来るなって言われたけど、変だと思って屋敷の前まで来て外から様子を見てたって」
そう言われて私は膝をついたまま割れた窓を見た。ここからは外の様子は見えない。
「お前の部屋で魔法が暴走し始めたのを見て、慌てて俺の実家に連絡をくれたんだよ。マーサさんにも魔力暴走が近いって伝えておいてよかったな」
安堵したように呟いた彼に視線を戻すと、彼は眉尻を下げて私を見ていた。
「本当なら、今日の朝様子を見に来るべきだった。そろそろだってわかってたのに、苦しかったよな。ごめん」
何故彼が謝るのかわからない。
これは私の問題だと答えようとしたが、まるで自分のせいだとでも言うように沈痛な顔をした彼の表情を見たら、その一言が口から出てこなかった。
私が自分の反応に困惑していると、彼は眉尻を下げたまま口元に笑みを浮かべ、私の手をそっと引いた。
「ここじゃ休めないから、一階に行こう。少し横になった方がいいよ」
動こうとしない私を見た彼に、少し強引に腕を引かれて立ち上がった。
ベッドは部屋の隅でひっくり返っていたので、確かに休める状態ではない。
促されるままに彼と手を繋いだ状態で一階に下り、応接室に入るとソファに寝るように言われた。座面の幅は広く横になれるとはいえ、人前で横臥するのは躊躇われる。それに私が横になったら手を繋いだ彼はどうするのか。
私の戸惑った顔を見た彼はふ、と笑った。彼の両手に半ば強引に身体を押され、ソファに座らされる。それから肩を掴んだ手にぐっと体重をかけられた。
「何を」
「大丈夫だから、さっさと寝ろ」
反射的に対抗しようと身体を硬らせた私に、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて顔を近づけてきた。瞳に沈む虹彩の色が確認できるほど近づいた彼の顔に驚いて、思わず腰が下がる。隙を突かれて座面に押し倒された。ドサッと倒れた勢いで私の上に乗り上げた彼の頭が胸の上に乗る。鎖骨に当たった金髪の頭は、思いの外軽かった。
彼はすぐに上体を起こし、私を見下ろした。
硬直している私と目が合うと薄く笑い、私の上からどいて自分はソファの前の床に座る。手が離れないように位置を調整した彼は、まだ動かないでいる私を見て小さく噴き出した。
「お前の嫌がることはしないよ。ただ側にいたいだけ」
柔らかな響きのある声でそう言われ、私は瞬きして彼の顔を見た。彼は床に座り、長椅子に仰向けに寝ている私の顔を横から覗き込んでくる。
「なぁ、グウェンドルフ。お前が俺に連絡を寄越さなかったこと、責めるつもりはないんだけどさ」
そう言って彼は目をすがめ、穏やかな眼差しを私に向ける。
「言ってほしいんだ。グウェンドルフが俺の知らないところで苦しんでるのは嫌だから。一人で我慢しないで言えよ。もっと言っていいんだ。お前は、俺になら」
彼の落ち着いた声音には、微かな切なさが滲んでいるように感じられた。
瞠目した私を見下ろして笑った彼は、繋いでいない方の手で上着のポケットから白いハンカチを取り出した。手を伸ばして私の額にそっと触れ、浮いた汗を拭ってくれる。
乾いた布の感触が気持ちよかった。
思わずされるがままになっていると、片手で器用にハンカチを返しながら、彼は私を見つめて言葉を続ける。
「グウェンドルフ、お前はいつも真面目で努力家で、器も大きい。人の痛みがわかるいい奴だよ。強いし、剣と魔法の腕は天才的だし、完璧な超人みたいな奴だってみんな思ってる。でも、だからってそんなに頑張らなくてもいい」
そう言って私の額を拭ったハンカチをしまった彼は、今度は私の髪に手を伸ばす。
彼の指先が右の側頭部に触れ、髪を梳きながらそっと気遣うように頭を撫でられた。
「十五のお前はまだ気づいてないかもしれないけど、お前結構寂しがり屋だし、むきになると強情だし、心配性で臆病なところもあるんだよな。でも俺は、お前のそういう弱くて柔らかい部分も全部好きだ。だから頼ってこいよ。今は友達としてでもいい。お前が一人で床に蹲ってるのを、俺はもう見たくない」
静かな声音で告げられる彼の声は心地よかった。
彼の語る私は、まるで私とは違う人間だという気がする。私は今まで自分の人間性をそこまで深く考えたことがない。しかし、今まで気に留めなかった自分の内側について見ず知らずの人間であるはずの彼が話すのを、不思議と不快には思わなかった。
彼は私の頭を撫でた手を離し、ソファの座面に肘をついて頬杖をつく。私の顔を見ながら微笑んで、小さく嘆息した。
「なんかよかったな。俺、ずっとお前に言いたかったんだ。叡智の塔に通ってたとき、グウェンドルフともっと話せばよかったって思ってた。こんな形で叶うことになるなんて思わなかったけど、十五のお前に俺の言葉が届けられるなんて、嘘みたいだ。嬉しいよ。人生ってやっぱりわかんないもんだな」
しみじみとした口調で言った彼の言葉が、胸に落ちた。
その奇妙な感覚をなんと表現すればいいのだろう。
彼の語る言葉が私の胸の内側に落ちて、硬く渇いていた心臓に触れ、ほどけるようにして溶けて沁みていくような。
「グウェンドルフ。お前はいい奴だよ。何回でも、お前が覚えるまで、夢に出るまで言ってやるから、もっと自分に優しくなれ。お前は人から優しくされるのにふさわしい人間だ」
幼い子供に言って聞かせるような慈愛の篭った声だった。
私がじっと彼を見つめると、彼も視線を逸らさずに見つめ返してくる。しばらくして彼はまた手を伸ばしてきて、手のひらで私の目の上をそっと塞いだ。
「魔力暴走が終わるまでここにいるから、お前は少し寝ろ。顔色悪い」
囁く声に耳を傾けて、私は素直に目を閉じた。
身体が疲弊していたのは事実だったし、体力を回復させるために目を閉じて休みたいとも思っていた。
しかしそれ以上にどうしてか、私はそのとき彼の真綿のような存在感を近くに感じながら、穏やかに眠りに落ちてみたいと、確かにそう思ったのだった。
その日は朝から体調が優れなかった。
内側から引き攣るような筋肉の鈍い疲労を自覚したとき、それに思い至った。
――魔力暴走か。
三日前に会った彼が、別れ際に言及していたことを思い出す。彼は私の魔力暴走がそろそろだと言っていた。
すぐにカシス副団長に欠勤の連絡をし、マーサにも今日は離れには来ないようにと手紙蝶を送った。マーサに魔力暴走であることを伝えると、彼にも伝わってしまうかもしれない。そう思い、日中は屋敷内の防犯魔法を練り直すから来ないようにと、事実とは違うことを伝えた。
彼に知らせるのは躊躇われた。
魔力暴走が起きるときは自分を呼べと言われたが、そんな危険を冒すわけにはいかない。彼は魔力暴走を止められると言った。しかしそんなことが可能なのだろうか。とても信じられず、呼び寄せることなどできないと思った。
通信石のついたピアスは、付けるのが躊躇われて再び棚の引き出しにしまってある。
マーサに手紙蝶を送った後、二階に被害が及ぶことを考え、私は書庫の本を一階に移動させた。五年後の自分は、何故か一階の倉庫に保管していたはずの貴重書を二階に戻していた。
それらを整理して一階に避難させる作業が終わる頃、昼前に魔力暴走が始まった。
寝室に戻ると、いつにない早さで体調が悪化する。
最初はソファに座って耐えていたが、次第に上体を起こしていることが辛くなった。前屈みに崩れるように床に膝をついて、座面に片腕をついて縋る。
身体の内側で心臓を伝う魔力が溢れて行き場を失い、噴き出そうとしている。勢いのままに放出すれば、屋敷の二階は吹き飛ぶだろう。それを懸命に身体の奥に押しとどめると、皮膚の裏側に熱湯をかけられたような痛みが走った。
「……は」
じっと身動きせずに耐える。握りしめた拳に汗が滲み、俯いた額からも汗が伝って目尻に染みた。
五年後の自分は、魔力量が確実に増えている。
今まで経験したことのない勢いで魔力が溢れ、留めきれないものが身体の外に零れていった。それは暴走した魔力の塊となって部屋の中に突風や稲妻を起こす。甲高い音を立てて窓ガラスが割れ、破片が庭に落ちるのが見えたが自分ではどうしようもなかった。このままでは屋敷がどうなるかわからない。マーサに来ないように伝えておいて正解だった。
「……っ」
全身が燃えるような熱さを感じた。
直後に自分の周囲に炎が噴き出し、ソファとテーブルを焼いた。
炎を打ち消すための魔法を放とうと顔を上げた視線の先に、窓際の棚が見える。
彼の絵が飾られたままだった。雷撃が窓を砕いていたが、額はまだ棚の上に立っている。彼が来た翌日に私はもう一度ピアスと一緒に絵を引き出しにしまったが、何度しまってもマーサが棚の上に戻してしまうので、昨日は諦めていた。
床を這うように燃える炎が、棚の表面を焦がしている。
それを見た瞬間、何故そうしたのかわからないが、私は咄嗟に手を伸ばし、風魔法を放った。
暴走する魔力を押さえながら放った魔法は弱く、制御もできない。それでも窓際に吹きつけた風は棚の上に置かれていた小さな絵の額を傾けて、割れた窓から彼の絵を外に落とした。
それを見て私は息をつき、その絵が目の前で焼けてしまわなかったことに安堵した。
それから再び魔力暴走に耐え、始まってからどれほどの時間が経ったのか判然としなくなってきた。体内の魔力は収まる気配を見せない。魔力暴走には慣れているはずなのに、頭が朦朧とするほど長く収まらないという経験は初めてだった。
握った拳に力が入らなくなってくる。
今意識を失ったら、暴走した魔力が爆発するだろう。幼い頃、母の命を奪ってしまったときのように。
そう思って気を強く持とうと息を吸い込んだ瞬間、突然部屋の扉が開いた。
ぎょっとして顔を上げた私は、そこにいる人物を見て瞠目する。
「グウェンドルフ、大丈夫か」
険しい顔でそう言いながら躊躇わずに部屋の中に入ってきた金髪の彼を、鋭い声で制した。
「入るな!」
そう言うと彼は硬い表情のまま眉を上げたが、こちらに近づいてくる足は止めない。
私の周りは台風が通ったように荒れ果て、周りの家具も焦げているが、彼は全く意に介さず私の方へ真っ直ぐに歩いてくる。その眉間には皺が寄り、常葉色の目には怒りが浮かんでいた。
彼が現れた驚きで僅かに気が緩んだ瞬間、魔力が噴き出した。
出鱈目な方向に飛び散った雷撃の一片が彼を襲う。
「危ない!」
彼は表情を変えずに立ち止まった。
雷撃が当たる直前に、彼の前には小さな結界が現れる。
結界……?
その白い光の膜は、確かに光属性の結界魔法だった。
私が目を見開くと、結界で雷撃を受け流した彼はベルトから杖を引き抜いて構え、軽く振った。それだけで私の周りに散乱していた家具は全て浮いて、部屋の隅に飛んでいく。
それを最後まで目で追わずに、彼は真っ直ぐ私のもとに歩いてきた。
蹲っている私の傍に膝をついて、不機嫌そうな表情のまま、呆然とした私の顔を覗き込んでくる。
「だから言っただろ。俺を呼べって」
そう言って、彼は床の上で固く握られていた私の手を掴んだ。
その瞬間、身体の中で行き場を求めて荒れ狂っていた魔力がすっと収まるのを感じた。収まるというのか、まるで彼の手に吸い取られていくように私の身体から魔力が抜け出ていく。
目を見開いて彼を見ると、顔を顰めたまま私を見ていた彼は、表情を緩めて唇の端をわずかに上げた。
「そうは言っても、お前の性格なら自分から助けなんて求めないよな。ごめんな、苦しい思いをさせて。もっと早く確認に来ればよかった」
「あなたは……」
意味がわからない。何故魔力暴走が止まるのか。
何が起きているのかわからず、私は彼の手を見下ろした。
私の心の声が聞こえたように、彼は頬を指で掻いてから軽く首を傾げる。
「俺はグウェンドルフから溢れ出した魔力を吸収できる。ただ、それがなんでなのかはわからないんだ。多分、チーリンに昔力を譲ってもらったのが影響してるんだと思うんだけど」
「魔力を吸収できる……?」
「そう。触れてさえいれば、お前の中から魔力を吸い出せるんだよ。だから手を掴んでれば大丈夫。肌が触れてればいいから」
魔力を吸収できるなんて、俄には信じ難い。
私は呆然としたまま彼を見つめたが、自分の身体から魔力が吸い出されているのは事実だった。
そんなことが何故可能なのか理解できなかったが、消耗した身体はそれ以上の長考を拒んだ。
状況がわからないままに、体内で蟠っていた魔力はなくなり、呼吸が楽になる。
私の顔色を注意深く見ていた彼は、やがてほっとしたように息をついた。
「マーサさんから連絡をもらった。グウェンドルフには今日は来るなって言われたけど、変だと思って屋敷の前まで来て外から様子を見てたって」
そう言われて私は膝をついたまま割れた窓を見た。ここからは外の様子は見えない。
「お前の部屋で魔法が暴走し始めたのを見て、慌てて俺の実家に連絡をくれたんだよ。マーサさんにも魔力暴走が近いって伝えておいてよかったな」
安堵したように呟いた彼に視線を戻すと、彼は眉尻を下げて私を見ていた。
「本当なら、今日の朝様子を見に来るべきだった。そろそろだってわかってたのに、苦しかったよな。ごめん」
何故彼が謝るのかわからない。
これは私の問題だと答えようとしたが、まるで自分のせいだとでも言うように沈痛な顔をした彼の表情を見たら、その一言が口から出てこなかった。
私が自分の反応に困惑していると、彼は眉尻を下げたまま口元に笑みを浮かべ、私の手をそっと引いた。
「ここじゃ休めないから、一階に行こう。少し横になった方がいいよ」
動こうとしない私を見た彼に、少し強引に腕を引かれて立ち上がった。
ベッドは部屋の隅でひっくり返っていたので、確かに休める状態ではない。
促されるままに彼と手を繋いだ状態で一階に下り、応接室に入るとソファに寝るように言われた。座面の幅は広く横になれるとはいえ、人前で横臥するのは躊躇われる。それに私が横になったら手を繋いだ彼はどうするのか。
私の戸惑った顔を見た彼はふ、と笑った。彼の両手に半ば強引に身体を押され、ソファに座らされる。それから肩を掴んだ手にぐっと体重をかけられた。
「何を」
「大丈夫だから、さっさと寝ろ」
反射的に対抗しようと身体を硬らせた私に、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて顔を近づけてきた。瞳に沈む虹彩の色が確認できるほど近づいた彼の顔に驚いて、思わず腰が下がる。隙を突かれて座面に押し倒された。ドサッと倒れた勢いで私の上に乗り上げた彼の頭が胸の上に乗る。鎖骨に当たった金髪の頭は、思いの外軽かった。
彼はすぐに上体を起こし、私を見下ろした。
硬直している私と目が合うと薄く笑い、私の上からどいて自分はソファの前の床に座る。手が離れないように位置を調整した彼は、まだ動かないでいる私を見て小さく噴き出した。
「お前の嫌がることはしないよ。ただ側にいたいだけ」
柔らかな響きのある声でそう言われ、私は瞬きして彼の顔を見た。彼は床に座り、長椅子に仰向けに寝ている私の顔を横から覗き込んでくる。
「なぁ、グウェンドルフ。お前が俺に連絡を寄越さなかったこと、責めるつもりはないんだけどさ」
そう言って彼は目をすがめ、穏やかな眼差しを私に向ける。
「言ってほしいんだ。グウェンドルフが俺の知らないところで苦しんでるのは嫌だから。一人で我慢しないで言えよ。もっと言っていいんだ。お前は、俺になら」
彼の落ち着いた声音には、微かな切なさが滲んでいるように感じられた。
瞠目した私を見下ろして笑った彼は、繋いでいない方の手で上着のポケットから白いハンカチを取り出した。手を伸ばして私の額にそっと触れ、浮いた汗を拭ってくれる。
乾いた布の感触が気持ちよかった。
思わずされるがままになっていると、片手で器用にハンカチを返しながら、彼は私を見つめて言葉を続ける。
「グウェンドルフ、お前はいつも真面目で努力家で、器も大きい。人の痛みがわかるいい奴だよ。強いし、剣と魔法の腕は天才的だし、完璧な超人みたいな奴だってみんな思ってる。でも、だからってそんなに頑張らなくてもいい」
そう言って私の額を拭ったハンカチをしまった彼は、今度は私の髪に手を伸ばす。
彼の指先が右の側頭部に触れ、髪を梳きながらそっと気遣うように頭を撫でられた。
「十五のお前はまだ気づいてないかもしれないけど、お前結構寂しがり屋だし、むきになると強情だし、心配性で臆病なところもあるんだよな。でも俺は、お前のそういう弱くて柔らかい部分も全部好きだ。だから頼ってこいよ。今は友達としてでもいい。お前が一人で床に蹲ってるのを、俺はもう見たくない」
静かな声音で告げられる彼の声は心地よかった。
彼の語る私は、まるで私とは違う人間だという気がする。私は今まで自分の人間性をそこまで深く考えたことがない。しかし、今まで気に留めなかった自分の内側について見ず知らずの人間であるはずの彼が話すのを、不思議と不快には思わなかった。
彼は私の頭を撫でた手を離し、ソファの座面に肘をついて頬杖をつく。私の顔を見ながら微笑んで、小さく嘆息した。
「なんかよかったな。俺、ずっとお前に言いたかったんだ。叡智の塔に通ってたとき、グウェンドルフともっと話せばよかったって思ってた。こんな形で叶うことになるなんて思わなかったけど、十五のお前に俺の言葉が届けられるなんて、嘘みたいだ。嬉しいよ。人生ってやっぱりわかんないもんだな」
しみじみとした口調で言った彼の言葉が、胸に落ちた。
その奇妙な感覚をなんと表現すればいいのだろう。
彼の語る言葉が私の胸の内側に落ちて、硬く渇いていた心臓に触れ、ほどけるようにして溶けて沁みていくような。
「グウェンドルフ。お前はいい奴だよ。何回でも、お前が覚えるまで、夢に出るまで言ってやるから、もっと自分に優しくなれ。お前は人から優しくされるのにふさわしい人間だ」
幼い子供に言って聞かせるような慈愛の篭った声だった。
私がじっと彼を見つめると、彼も視線を逸らさずに見つめ返してくる。しばらくして彼はまた手を伸ばしてきて、手のひらで私の目の上をそっと塞いだ。
「魔力暴走が終わるまでここにいるから、お前は少し寝ろ。顔色悪い」
囁く声に耳を傾けて、私は素直に目を閉じた。
身体が疲弊していたのは事実だったし、体力を回復させるために目を閉じて休みたいとも思っていた。
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辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
余命僅かの悪役令息に転生したけど、攻略対象者達が何やら離してくれない
上総啓
BL
ある日トラックに轢かれて死んだ成瀬は、前世のめり込んでいたBLゲームの悪役令息フェリアルに転生した。
フェリアルはゲーム内の悪役として15歳で断罪される運命。
前世で周囲からの愛情に恵まれなかった成瀬は、今世でも誰にも愛されない事実に絶望し、転生直後にゲーム通りの人生を受け入れようと諦観する。
声すら発さず、家族に対しても無反応を貫き人形のように接するフェリアル。そんなフェリアルに周囲の過保護と溺愛は予想外に増していき、いつの間にかゲームのシナリオとズレた展開が巻き起こっていく。
気付けば兄達は勿論、妖艶な魔塔主や最恐の暗殺者、次期大公に皇太子…ゲームの攻略対象者達がフェリアルに執着するようになり…――?
周囲の愛に疎い悪役令息の無自覚総愛されライフ。
※最終的に固定カプ
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