異世界で演技スキルを駆使して運命を切り開く

第五章

ヴァレンティアの救護院

彼の腕から降ろされ、ふらつきながら周囲を見回すと、ヴァレンティアの街の静かな雰囲気が私を包んだ。
夜明け前の薄明かりの中、石造りの建物が並び、その間に狭い路地が伸びていた。
街灯がぼんやりと光を放ち、街全体に静かな雰囲気が漂っていた。
石畳の道は湿気を含んで冷たく、夜露に濡れた植物がささやかな香りを放っていた。

「こちらへ。」

彼の声が静けさを破り、私の肩に手を添えながら街の中心部へと導いた。
夜明けの街灯に照らされた道を進むと、救護院の看板が見えた。
救護院の建物は他の建物より少し大きく、歴史を感じさせる佇まいだった。

ドンドン、ドンドン！

彼が扉を軽く叩いたが応答がなかった。

ドンドン、ドンドン！！

さらに強めに叩くと、中からようやく優しい光が漏れてきた。

「ここなら安心だ。レイチェル夫人はいるか。」

ドアがゆっくりと開き、中には年配の女性が立っていた。
彼女は上品で機能的なドレスを着ており、白いエプロンを腰に巻いていた。
その佇まいには威厳と温かさが感じられた。

「まあ、魔法師さま。こんな朝早くにどうなさったのですか？」

「こちらの女性を手当てし、少しの間預かってほしい。そなた、名は？」

「……。」

しばらく無言のあと、私は答えた。
彼女の優しい目が私の心に少しだけ安らぎを与えてくれた。
しかし心の中では、記憶喪失の演技を続ける決意を新たにしていた。
無害な存在として扱われるために、それが最善の策だと信じていた。

「わ、わかりません。」

「は？わからないだと？」

彼は大きくため息をついた。

「夫人、厄介ごとを持ち込んで申し訳ない。この者と話して、どのような状況なのか確認を頼む。私は任務の途中で、すぐに戻らねばならぬ。」

「かしこまりました。お嬢様をお預かりいたします。」

レイチェル夫人は私に優しく微笑み、すぐに診療ベッドを指差した。
彼女の手は柔らかく温かかった。

「さあ、お嬢様、こちらへどうぞ。」

彼女は私の手を取りながら、ベッドへ向かった。

「先に手当てをいたしましょう。」

レイチェル夫人の温かい手の感触に、少しだけ安心感を覚えた。

「それでは、失礼する。」

「ま、魔法師様、ありがとうございました。」

魔法師様と呼ばれていた男に礼を言った。
彼の背中が去っていくのを見送った後、彼女の手助けでベッドに座った。

「擦り傷や打撲の跡が痛ましいですね。まずは汚れを取り、消毒いたしましょう。その後、魔法薬で治療しますからね。」

「お願いします。」

レイチェル夫人は優しい手つきで私の傷を洗い流し、消毒薬を塗った。
冷たい薬液が傷口にしみるたびに少し痛みが走ったが、その手当てに感謝の気持ちが湧いてきた。

「お嬢様、お名前は本当にわからないのですか？」

彼女の声には心からの心配がにじみ出ていた。
私はその瞳を見つめ返しながら答えた。

「はい……。何も覚えていません。」

記憶喪失の演技をしなければならないと決めた私の声は震えた。
不安と恐怖が入り混じり、心が締め付けられた。
見知らぬ場所で記憶が戻らないままどうなるのか、未来が見えない暗闇の中で足元を探るような気持ちだった。
彼女は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに優しく微笑み直した。
その微笑みには深い理解と同情が込められていた。

「そうですか。大変でしたね。」

彼女の声は柔らかく、包み込むようだった。

「でも、ここなら安心です。ゆっくり休んで、体を癒してくださいね。」

その言葉に少しだけ心の重荷が軽くなるのを感じた。
信じてもらえただろうか？
心の中で少しずつ平穏が戻ってくるのを感じた。

彼女は魔法薬を取り出し、私の傷に塗った。
瞬く間に傷が癒えていくのを感じた。
その魔法の力に驚きつつも、次第に体が軽くなっていくのを感じた。

「これで大丈夫です。しばらく安静にしていてください。何かあれば私を呼んでくださいね。」

レイチェル夫人の優しい言葉に安心して、ベッドに横たわった。

ベッドに横たわりながら、祖父とリックさんのことを考えた。
彼らは今頃どうしているだろうか。
無事でいてくれることを願いながら、次第にまぶたが重くなり、意識が遠のいた。

夢の中で、祖父とリックさんが笑顔で私を迎えてくれる光景が浮かんだ。
それが現実であるかのように鮮明で、心に温かさが広がった。

目が覚めると、窓から差し込む柔らかな光が部屋を明るく照らしていた。
どこからか香ばしい匂いが漂い、木製の家具が並ぶシンプルで温かみのある部屋で、レイチェル夫人が昼食の準備をしていた。

彼女は窓の外を見ながら静かに微笑んでいた。
窓から差し込む日差しが彼女の姿を柔らかく照らし、穏やかな空気が部屋を包んでいた。

「おはようございます、お嬢様。少しは休めましたか？」

少し戸惑いながら答えた。

「はい、ありがとうございます。」

「お食事をして、少しずつ元気を取り戻してくださいね。」

彼女の優しい声に励まされ、昼食をとることにした。

新たな一日が始まり、私の心には希望の光が差し込んでいた。