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第1話 通りすがりのエルフです
しおりを挟む「この婚約は無効です。なぜなら、彼女は私のものだからです」
「お、お前、何者だ!?」
「私?……通りすがりの、エルフです」
拝啓、天国のお母様。ロンドンのど真ん中の高級ホテルに、エルフって通りすがるものなのでしょうか?そして第三者が婚約無効を宣誓した時の貴族令嬢の嗜みを、どうして誰も教えてくれなかったのでしょう。
「……そんなことってある?」
エヴェリーナ・エイヴェリー、17歳の4月の春。通りすがりのエルフに、婚約無効を宣言されました。
♢♢♢
朝靄の漂う森の中。私は鼻歌混じりにご満悦で歩いていた。昨夜仕掛けた罠に、野うさぎがかかっていたのだ。冬に備えて丸々と太った野うさぎは、推定800gはあるだろう。
可愛いけれどごめんなさいね、あなたは我が家のお夕食よ。歩くたびに揺れるアーモンド色のポニーテールは、私の浮かれた心を代弁するかのように跳ねている。
「今晩は、久々にお肉の入ったシチューが食べられるわ!おまけに朝は卵を割ったら双子だったし、神様が私を祝福してくれているのね」
なぜ貴族令嬢の私がこんなことをしているかって?それは、我が家が困窮した、貧乏男爵家だからである。
どのくらい貧乏かというと、真冬に暖炉がつくのは一部屋だけだし、紅茶の葉は使い回しだ。
それでも、日々ご飯が食べられて、家族みんな元気に暮らせている。それはとても尊いことなのだ。
今日はお父様もロンドンから帰ってくるし、本当に最高の日になりそう――帰ってきた父の顔を見るまでは、心の底からそう思っていた。
「お父様、お帰りなさい!」
階段を降りて応接間の扉を開くと、侍女頭のメアリーと執事のロナルドが、青ざめた顔でお父様を見つめていた。
我が家の応接間は、華やかさの欠片もない。昔はたくさんの調度品が飾られていたが、困窮と共に売られていった。
絵画が掛かっていた壁は、その部分だけが寂しげに白く浮かんでいる。
そんな殺風景な部屋のソファに座っていたのは、グレーのスーツを羽織った見覚えのない中年の紳士。私は背中が痺れるような、嫌な予感がした。その男は私を見ると、酷くニヤついて口元を歪めたから。
「すまないみんな、エヴェリーナ……私はまた騙されてしまった……」
ロナルドが言うには、「ブルーダイヤモンドの鉱山権を借金してまで購入したものの、調査を進めてみればごくありふれた宝石しか採掘できず、投資した金額の回収は絶望的」だということ。
お父様はとても心の優しい人だ。家族を愛し、領地民を愛し、いつも穏やかな愛で溢れている人。わたしのたった一人の、愛する家族。ただ唯一の欠点は――経営の才能が無い。そしてそれは領主としては致命的な弱点だった。
「お父様、一体いくら借金したの?わたしの支度金で賄えるなら、使ってしまいましょう、ね?」
赤字経営の男爵家でも、娘の支度金だけはと毎年僅かながらも積み立ててきた。確か1500ポンドはあったはず、と頭の中で帳簿を開く。やつれた顔の父はアッシュグレーの瞳をゆらめかせ、掠れた声で金額を呟いた。
借金の金額は1万ポンド。私の支度金では到底間に合わない、領地を手放さなくてはいけないほどの大金だった。
「1万、ポンド……」
その数字を口に出してみて、愕然とした。指先がどんどん冷えていく。十年前の流行り病で領地は大打撃を受け、収入は目減りする一方だった。使用人を減らし、タウンハウスを手放し、領地の一部も売りに出した。イングランドのコッツウォルズ地方にある、エイヴェリー領。二千エーカーの小さな領地は、私のすべてだった。
それを聞いた途端に、メアリーは泣き出してしまった。お母様が亡くなった時でさえも気丈に振舞って我が家を支えてくれた彼女が、肩を震わせて泣いている。
「メアリー、泣かないで」
「ああ、お嬢様、申し訳ありません。でも、メアリーは悲しくてやりきれません……」
その空気を破るように、ブルネットの髪の紳士は、軽く会釈をして私に挨拶をした。
「こんにちは、レディエイヴェリー。お目にかかれて光栄です。私はジョシュア・コナーと申します」
「お言葉ありがとうございますコナー様。本日はどのようなご用件でしょうか?見ての通り、わが家は立て込んでいる状況でして」
「まさに、私があなたがたをお救いするために来たのですよ。私たち二人の将来のご縁について、真剣にお話しさせていただきたいと存じます。」
彼は狐のような顔つきでわざとらしく父と私を交互に見た。お父様は黙って唇を噛みしめていたが、やがてその重たい口を開いた。要約すれば、このコナー氏が借金を肩代わりする代わりに私を娶りたいということだった。
「私、結婚しなきゃいけないのね……」
茫然と事実を口にした私に、父は私の両肩に震える手を置いて、涙ながらに首を横に振った。
「エヴェリーナ、本当にこんなことになってすまない。グレイスにも合わせる顔が無い……だが、領地を手放して借家暮らしになれば、お前の縁談は……」
この時代に貴族女性が結婚できないだなんて、社交界のいい笑いものだ。それに、父と母との思い出が詰まったマナーハウスを手放すこともできない。領地民のことを想えば、初めから私に選択の余地はなかった。
「大丈夫よ、お父様。コナーさん、その話お受けいたしますわ」
1887年の冷たい風が吹きつける秋に、私の将来は決まった。
♢♢♢
ついにこの日がやってきた。私はロンドンで一番の最高級ホテルの目の前に立ち尽くしていた。薄黄色の石造りの、豪華で優雅な建物。イングランドの貴族令嬢なら誰もがこのホテルでのアフタヌーンティーを夢見るだろう。もちろん私もそのうちの一人だった。
でも、私の心は曇天のこの空のよう。着いたばかりなのに、もう森の匂いと青い空のエイヴェリー領が恋しかった。
コナー氏は、今ロンドンで最も勢いのある実業家だ。いくつもの会社を経営する彼にとって、一万ポンドは高貴な血を買えるのなら、安い金額なのかもしれない。
その証拠に、婚約を結んでから半年の間に彼から届いた手紙は二通。会った回数は一度だけ。
私は今日、愛してもいない男に人生を捧げる約束をしないといけないのだ。
母が父と婚約式を交わした時身に纏っていた優しいイエローのドレスは、すっかり流行り廃れた型だった。だが、手直しすれば着られるはずだ。新しいドレスを仕立てる余裕は無かったし、お母様のドレスを着るのは子どもの頃からの憧れだったのだ。
こんな気持ちで着たくはなかったのだけど――。
私はため息まじりに控室で物思いに耽っていた。すると、ドアをノックする音が聞こえる。顔を上げると、コナー氏がドアの前に立っていた。私の顔を一瞥し視線をドレスに移すと、顔を僅かに歪めてこう言った。
「ああ……そのドレス、君には少し似合っていないね。こちらのドレスを着てくれたまえ」
差し出されたのは、彼が用意した最高級のシルクとレースで仕立てられた、淡いラベンダーのドレス。
「……お気遣い、ありがとうございます」
メアリーは黙ってドレスを受け取り、最後まで笑顔を絶やさず扉を閉めた。
「はぁー、あのお方の目は本当に節穴ですこと。お嬢様のどこをどう見たらこんな……いいえ、お嬢様はなんでもお似合いになりますよ、でもねこの色は……」
「いいのよメアリー、分かってるから」
淡いラベンダーのドレスは深層の貴族令嬢ならその白い肌によく映えるドレスだろう。残念ながら、私の少し日に焼けた肌には絶対に似合わない色だ。案の定、顔がくすんで見えた。
婚約式は滞りなく進められた。お互いの家族を紹介し、指輪を贈られる。コナー氏がベルベットの小箱から取り出したのは、大粒のローズカットのダイヤモンド。来賓客はどよめき、彼は満足そうに鼻を高くしていた。
そのダイヤモンドを見ても、私の心はちっとも弾まない。
(まるでお人形ね。綺麗なドレスにアクセサリーで飾り立てられて、お金で買われていく売り物だわ。"あら、そのお人形素敵ね、いくらで購入されたの?″"ほんの1万ポンドですよマダム――″)
自虐的な想像とは正反対の愛想笑いを浮かべ、指輪を通そうとしたその瞬間――。
「その婚約に異議を申し立てます」
凛とした声がボールルームに響いた。その場にいた全員の視線が声の主に注がれる。
そこにいたのは、純白の燕尾服に身を包み、肩まで届く緩やかな銀糸の巻毛を持つ紳士。彼の肌は雪のように真っ白で、瞳は春の空を閉じ込めたセレストブルー。こんなに恐ろしいほどに美しい人間を、私は見たことがなかった。形の良い唇はにこやかに持ち上がり、有無を言わせない威圧感と共に言葉が紡がれる。
「この婚約は無効です。何故なら、彼女は私のものだからです」
ボールルームは騒めき、コナー氏は狼狽して私を見た。そんな風に見られても私には何が何だかさっぱりで、酸素を求める金魚のようにぱくぱくと口を開けた。
「お、お前、何者だ!?」
「私?……通りすがりの、エルフです」
シルクハットを脱ぐと見えた、尖った長い耳。彼の発音は、嘘みたいに綺麗なクイーンズ・イングリッシュだった。
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