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第40話 禁じられるほど、欲しくなる
しおりを挟む風に乾いた麦の香りが、エイヴェリー領を包み込んでいる。太陽が降り注ぐ夏が終わり、実りの秋の訪れを感じさせる匂いだ。
例年よりも麦束がぱんぱんに詰め込まれている納屋を見て、私は思わずにんまりと笑った。
「今年は豊作だわ……ようやく赤字を回避できるかも」
その日の午後、私はお父様と書斎でロナルドからの報告を聞いていた。
「こちらが農民に支払う金額で、こちらは売却予想額です。恐らく本年度は……」
「黒字だな!」
「やったわ!」
私たちは三人で手を取り合い、数年ぶりの黒字見込みに歓喜の声を上げた。
「確実とは申せませんよ、市場価格が見えてからでないと……」
「今年もなんとか冬を越せそうだ、ああよかった……っ!ごほっごほっ!」
「お父様、大丈夫?」
「お水をお持ちします」
「ああすまない、大声を上げたらむせてしまった。寄る年波には勝てないね」
お父様は胸をさすって、水を飲んだ。お父様は今年で46歳だ。まだまだお若いと思うけれど、ここ数年で少し老け込まれたような気がする。
体を大切にして欲しい。
私の結婚が決まればお父様の肩の荷も降りるのだろうけど、それは到底無理な話なのだから。
♢♢♢
「エヴェリーナ、どこに行くんですか?」
「……りんごを収穫しにいくのよ」
玄関を開けたら、アルも同時に家を出てきた。幼馴染で隣人になった彼は、相変わらず距離感が可笑しい。なぜ私が出かけることがわかるのかしら?
私は髪の毛を三つ編みに編み込み、ガーデンハットをかぶって赤いスカートを履いていた。作業用のドレスなんか何度も見せているはずなのに、なぜか今日は妙に恥ずかしくて、帽子を目深に被った。
「私も一緒に行っていいですか?幼馴染だし、いいですよね?」
「別に、いいけど」
私たちは村の果樹園に向かった。早生種のりんごは赤く色づき、甘酸っぱい香りが立ち込めている。農民たちははしごに登り、籠いっぱいにりんごを収穫していた。私はその中の高齢の男性に声を掛けた。
「ヘンダーソンさん、今年のりんごはどうかしら?」
「お嬢様、おはようございます。今年は豊作ですよ、どれも大振りで、色づきもいい」
果樹園を見渡すと、農民の表情は明るい。籠いっぱいのりんごがいくつも並んでいた。大人が枝を揺らすと、子どもたちはきゃっきゃと騒いで落ちたりんごを競って拾い上げていた。
私も届く範囲の枝をつかんで、慎重に果実を摘み取る。籠はアルが持ってくれたので、私はどんどんりんごを入れていく。アルは感心したような口ぶりで「貴女は本当に働き者ですね」と言った。
「貧乏男爵令嬢ですもの。それに、怠け者の手は悪魔の道具になるのよ」
ぱちん、とりんごを切り取る音。草を踏みしめる音。土の匂い。私は、こうした農作業の音や匂いが好きなのだ。実は貴族令嬢より、農民の娘の方が性に合っているのかもしれない。
「まだ少し上の方にあるわね。ヘンダーソンさん、はしごを借りられる?」
「へえ、とんでもない!お嬢様をはしごに登らせるなんて!置いといていただければ、後で我々がやりますから」
「大丈夫よ、後少しだけだからやらせてちょうだい」
ヘンダーソンさんはおっかなびっくりな顔をしてはしごを持ってきてくれた。確かにはしごに登ってりんごを収穫する令嬢なんて、イングランド中探しても私くらいなものでしょうね。
「私が支えてますから、大丈夫ですよ」
アルがはしごを下で支えてくれている。私は胸が高鳴るのを感じながら、スカートの裾を片手でそっと持ち上げて、はしごを登った。
正直に言って、幼馴染のアルとの距離感が分からない。
いくら気持ちを押し込めても、いずれはアルの知るところになるだろう。なにせ私は分かりやすいんだから。
次に彼に愛してると言われたら、私は拒めるだろうか。嘘でも"嫌い"だなんて言えるのだろうか。
……きっと無理よね。
だって、今こうして隣にアルがいることが、私は嬉しいのだもの。
艶やかに色付く赤いりんごを見つめる。ふと、"禁断の果実"という単語が頭をよぎった。聖書に出てくる、アダムとイヴを楽園から追放するきっかけとなった、知恵の実のことだ。
手にしてはいけないと禁じられるほどに、欲しくなる。
(愛は執着。手に入らないからこそ欲しくなる……まさに禁断の果実ね。エヴェリーナ、これは堕落した考えだわ。諦めるって決めたでしょ。……欲しがっちゃだめ)
ふう、とため息を吐いて、はしごを降りようとしたその時。
足を滑らせて梯子を踏み外した私は、背中から落ちた。
「きゃっ……」
「エヴェリーナ!」
衝撃に備えて身を固くしたが、ドサッと鈍い音がしたのに背中が地面に叩きつけられることはない。私の体はアルに抱きしめられ、彼を下敷きにして身を投げ出していた。
「あっ……アル、ごめんなさい!だいじょ……」
起き上がってアルの顔を覗き込んだ瞬間、私は全身の血の気が引いた。
心地良かった風の音も、子どもたちの笑い声も聞こえない。世界から音が消失したみたいだ。
「アル......?」
彼は地面に倒れたまま、ぴくりとも動かなかった。
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