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第64話 その不安を飲み込んで
しおりを挟む波乱に満ちた1888年が明けて、1889年を迎えた。
昨年の今頃は、まさかこんなことになっているだなんて、想像さえもできなかった。
静かな年明けの朝、私は少しだけ窓を開けて、その年最初の領地の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
はあ、と真っ白な息を吐くと、頭の中が冴えわたり厳かな気持ちになった。
この冬を超えれば、結婚して領地を出る。
私は、新たな世界に踏み出すのだ。
♢♢♢
年初めの朝食の時間、お父様はある提案を私に持ちかけた。
「南フランスへ?」
「ああ、2月から二週間。イートン時代の古い友人が今はマルセイユにいるんだ。結婚前の、最後の家族旅行と思ってね」
年明け早々にお父様から南フランスへの旅行を提案された。マルセイユは、確かお父様とお母様の新婚旅行先だ。
いつか行ってみたいと思っていた場所だが、生憎中々その機会に恵まれなかった。
「数日だけアルルにも足を延ばしたいんだ。その頃には、アーモンドの花が咲いているだろうから」
懐かしむような顔で話す父の瞳に、母の顔が浮かんだ気がした。その直後、穏やかな表情は固まった。
「ゴホッゴホッ……」
「お父様、大丈夫?少し顔色が悪いわ」
「大丈夫さ……すまない、少し失礼するよ」
父はナプキンで口元を押さえ、何度か咳ばらいをして席を立った。父の皿にはまだポリッジが半分ほど残っていた。
♢♢♢
その日の午後、シャーロットが屋敷に来てくれた。ドローイングルームのソファで私たちは隣り合って座っている。
「いらっしゃい、シャーロット。結婚式まで会えないと思っていたわ。よくお母様がお許しになったわね」
「貴女がエルフの王太子と婚約したと知って掌を返したのよ。本当に自分の母ながら最低だと思うわ」
眉間に皺を寄せてティーカップを持ったシャーロットは、小さく吐き捨てるように言った。落ちぶれた貴族との関りを断とうとするのは、貴族社会ではよくあること。
それでも交友を続けてくれたシャーロットには、感謝しかない。
「それで、彼とはどうなの?婚約指輪も貰ったんでしょう?」
シャーロットは嬉々として私からの婚約報告をねだった。私はおずおずと左手を差し出した。七色に輝く宝石の花を見ると、彼女は感嘆のため息を漏らして瞳を輝かせた。
「素晴らしいわ……こんな美しい指輪、きっと女王陛下だってお持ちでないわ」
「ドワーフの細工師が作ったんですって。この花びらは精霊の国のエレンヌーレという鉱石で作られているらしいわ」
淡々と指輪の説明をすると、シャーロットは片眉を上げて、まじまじと私の顔を見つめた。
「それにしては、幸せ満開ではなさそうね。何かあったの?」
「……分からないの。なんだか、夜になると無性に不安で。幸せなはずなのに、アルも優しくてとっても良くしてくれるのに。この指輪の石だって、お母様の形見を探してくれて……」
段々と声が震えてきた。彼女の心配そうな視線を感じる。ついに私の眦からは涙があふれ出した。
「こんなの我儘よね。でも、自分でもどうすればいいのか分からなくて苦しいの」
するとシャーロットは私の肩にそっと手を置き、優しくさすってくれた。
「結婚前には憂鬱になるものだわ。私のお姉さまも仰ってたし、私だって時折ナーバスな気持ちになるわよ。これまでの生活とがらりと変わるのだもの。特に貴女は違う世界へ行くのだし、おかしなことではないわ」
「どうしたらいいのかしら。私、今が一番幸せでこれから恐ろしいことが待っているんじゃないかと考えてしまうの」
「きっと辛い経験がそうさせるのだわ。エヴェリーナは苦労したのだから、これ以上神様は貴女に試練をお与えにはならないわよ」
彼女はそっと私を抱きしめてくれた。ストロベリーブロンドの巻き毛から香る甘い薔薇の匂いが、私の鼻孔を擽る。
(シャーロットはこんなにも立派な令嬢なのに、どうして私は子どもみたいに泣いてしまうのかしら)
未熟な自分に嫌気がさして、鼻を啜った。
「大丈夫よ、これからはアヴァロン卿が貴女を守ってくれるわ」
シャーロットが私を元気付けようと、明るい声で励ましてくれるのが分かる。けれど、アルのことを考えた瞬間、肩がひくりと震えた。
私の顔を覗き込んだシャーロットは、首を傾げた。
「彼とうまくいってないの?」
「そういうわけじゃ……」
しばらくの間口篭ったが、胸のつかえを吐き出すように彼女に告白した。
「――彼から焦燥感を感じるの。逃げたいわけじゃないんだけど、こう……絶対に逃がさないって圧を感じるというか、それが少し怖くも感じるの。アルは、私に何か思うことがあるのかしら」
「エヴェリーナ、それは……」
シャーロットは一瞬言い淀み、視線を彷徨わせた。けれど、すぐに慰めの方向へ舵を取った。
「アヴァロン卿の愛は凄まじいわね。でも、それはきっといいことよ。愛の熱はいずれ穏やかに冷めていくのだから。私たちって世間一般から見て幸せな方よ?好きな相手と結婚できるじゃない」
貴族で愛のある結婚をできる私たちは、運の良い令嬢と言えるだろう。十分すぎるほど説得力のある言葉に「そうね、その通りだわ」と自分を納得させるより他なかった。
♢♢♢
「アル、ごめんなさい。私やっぱり貴方とは結婚できないわ。精霊の国には行けない」
ダイニングの端席に座った彼女は、なんの感情も宿さぬ瞳で、一番聞きたくない言葉を吐いた。
エヴェリーナは婚約指輪をそっと外して、席を立つ。
そのまま、私に背を向けて遠ざかっていく。
待って
行かないで
そう叫びたいのに、声にならない。
追いかけたいのに、足が震えて動かない。
駄目だ。そんなの――許さない。
弾かれるように立ち上がると、ティーカップが床へと身を投げ出し、甲高い悲鳴を上げて割れた。
追いかけて、彼女の手首を掴み強く引く。
振り返ったエヴェリーナは、真紅の雫を瞳から流していた。
「貴方のせいよ、アルサリオン」
「ハッ!!」
唐突に意識が引き戻され、目が覚めた。
背中はぐっしょりと汗で濡れている。不快感を露わにして顔をしかめた。
湿り気のある前髪をかき上げ、長めに息を吐き出し呟いた。
「夢……」
震える手を見つめた。彼女の手首を掴んだ生々しい感触が、まだ残っている気がする。
バルコニーの窓を開けると、まだ曙の刻だ。
刺すような凍てつく空気を吸い込むと、一瞬で指先は氷のように冷え切った。
求婚の儀が成功しても。
彼女に指輪を贈っても。
何度口付けを交わしても。
安心なんかできなかった。繰り返し、何度も同じ夢を見る。
ブライアから、男爵がなんらかの病気を患っている可能性を聞いた。
その時頭に浮かんだのは、"もし男爵が病気になったら、エヴェリーナは私を選んで精霊の国に来てくれるのだろうか"という浅ましい考えだった。
彼女は私を愛してくれている。
なのに、なぜこんなにも不安になるのだろう。
吐く息が白く染まり、朝焼けの空に登っていく。
左隣のエイヴェリーマナーハウスに目を向けた。エヴェリーナはまだ眠っている時間だろう。
共に眠れば、こんな悪夢も見ないだろうか。
彼女さえいれば、大丈夫だと思えるはずなのに。
静かに窓を閉め、目を伏せた。
汚い感情も、胸が押しつぶされそうな不安も飲み込んで見上げた空は、鮮やかな緋色だった。
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