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第77話 隣なのに、遠い
しおりを挟むカーテンがしゃっと開かれ、明るい光が差し込む。きゅっきゅっと蛇口をひねり、水がどぼどぼと流れる音が聞こえた。
「んん……メアリー、もう朝……?」
目を開けば、見慣れない桃色の天蓋。慣れ親しんだ我が家ではなく、ここは精霊の国の離宮だ。
(そうだわ、私は昨日アルの離宮に来たんだったわね……)
目を擦りぼんやりしていると、奥からぱたぱたと人が走ってくる。目の覚めるような長い緑色の髪を三つ編みに編み込んだ綺麗な女性だ。
「おはよぉ~朝よぉ~」
「あ、貴女は?」
「私ミース。エアリエルから頼まれたのよぉ」
語尾を伸ばした話し方をする妖精は、私を菫色の瞳で覗き込むと、眉を下げた。
「まあ、ばっちいわぁ~。早くお風呂にはいってちょうだい!」
あっという間にお風呂に連れて行かれ、「えっえっ」と動揺する私の服をキャベツを剥くように脱がせていった。
「これが石鹸で、タオルとガウンはここにあるわぁ」
「あ、あの……」
「どうしたのぉ?洗ってあげましょうかぁ?」
「い、いえ!結構です!」
上擦った声で叫べば、妖精はにっこり笑って出て行った。嵐が通り過ぎたようだ。確かに昨日は歩き通しだったし、荒野は砂埃が舞っていて髪の毛も汚れていた。
湯船につかると、転んで擦りむいた膝と手のひらがつん、と染みる。
湯船は花の香油でいい匂いがした。温かい湯が疲れた体に染み渡っていく。
はあ、とため息を漏らし顔を手で覆うと、ドアがガチャリと開く音がした。
(ミースさんかしら?)
そう思って音がした方に顔を向けると、湯気で靄がかかった扉の先にいたのは――口を半開きにしたアルだった。
「……っ!きゃあああ!?」
私が悲鳴を上げたのと扉が物凄い勢いで閉じたのは、ほぼ同時だった。
(な、なんで!?ここ、私の部屋なのよね!?なんでアルがいるの!?)
体を両手で覆い隠し震えていると、「もしもーし」とミースの声がした。扉が開くと、小さくぺろりと舌をだしたミースが手を合わせていた。
「ごめんねぇ、鍵かけてっていうの忘れちゃったわぁ」
……そういう問題ではないと思うわ!
「ここ、私の部屋の浴室よね!?どうしてア……あの人が来たの!?」
「あら?エアリエルから聞いていないのぉ?浴室は共用。ここはアルサリオン様の部屋と連結しているのよぉ」
「れ、連結!?なんで!?客室よね、この部屋!?」
「客室なんか使わないから、長い間お掃除してないのよねぇ。この部屋しかなかったのぉ」
悪びれもなくミースは笑っていた。私は顔を真っ赤にして恥辱に震えていた。
「見られたわ、絶対……」
「まあまあ、いいじゃない。見られて減るものでもないんだからぁ。さあ、上がって綺麗にしましょうねぇ~」
ミースが用意してくれたのは、エンパイアのイエローのドレス。袖はパゴダスリーブで、ロンドンの空でスローワルツを踊った夜に着たドレスと似たようなデザインだ。
胸元には宝石が散りばめられていて、一目で手の込んだ衣装なのだと言うことが分かる。
ミースは私の髪を魔法で乾かし、櫛で梳いてくれた。
「あらぁ、よくお似合いだわぁ~」
鏡の中の私は小綺麗になり、ようやく貴族令嬢らしさを取り戻せたような気がした。
すると、次はワゴンを押すエアリエルが入ってきた。ワゴンの上には、パンと果物と具沢山のスープが乗せられて、ほんわかといい香りの湯気を漂わせている。
「お口に合うかは分かりませんが」
「ありがとう、エアリエル。……ねえ、アルと部屋が連結してるってどうして教えてくれなかったの?」
「申し訳ありません、私としたことが。夫婦ともども失礼いたしました」
「いたしましたぁ~」
息のピッタリ合った二人は並んでぺこりとお辞儀をする。
……ん?夫婦?
「もしかして、ミースさんってエアリエルの奥さんなの!?」
「はい、ミースは私の妻です」
「妻でーす」
ミースさんののほほんとした声に思わず気が抜ける。この人が昨年の夏「新婚なんです!」と半泣きで喚いていたエアリエルの奥様。なんというか、少しだけ意外だった。
「ご飯が済んだら宮内を案内するわねぇ」
二人は「また来る」と言い残し、部屋を後にした。
しんとした広い部屋にひとりぼっち。お腹は空いている。カトラリーを持ち、スープを口に運んだ。
野菜の旨みが口に広がり、胃を優しく温めてくれる。次の一口を運ぼうとして、手が止まった。
「同じ宮にいるのにね……」
すぐ隣の部屋にいるのに、遥か遠く隔たりを感じた。一人で食べる食事は、味気なかった。
♢♢♢【side アルサリオン】
「《エアリエル、どういうことだ。なぜ私の部屋の隣に人間の娘がいる》」
「《客室は現在清掃中ですよ。最低限の人員しか配置しないから、人手が足りていないのです。それに、離宮内ならどこでも行っていいと仰ったのは殿下ではないですか》」
この妖精はいけしゃあしゃあとした顔で悪びれもなく言い放った。その顔に益々苛立ちが募る。
「《シルヴァーラといい、お前といい、なんなんだ。あの人間の娘を娶れとでも言いたいのか?》
鋭い目つきを向ければ、彼はうやうやしく頭を下げた。
「《まさかそんな……ですが、そのようにされても良いかと思いますよ》」
「《馬鹿を言うな……頭が痛くなる》」
「《頭が痛むのはお休みになられていないせいです。そろそろきちんと休暇を取ってください》」
エアリエルはそう言って私の手から書類を取り上げた。
「《夜は彼女と夕食でも共にするのはいかがでしょう?事故といえど、レディの素肌を見てしまったのですから謝罪をしませんと》」
「《なぜ私が……はあ、もういい。下がれ》」
眉間の皺を伸ばすように指で押さえ、エアリエルを下がらせると、私は寝台に倒れこんだ。長く続く不眠は心をゆっくりと蝕んでいく。眠りにつこうとしても、背筋が寒くなるような感覚ですぐに目が覚める。
悪夢でも見ているのか、起きるたびに全身が痙攣するくらいの悪寒を味わうのだ。それならばいっそ眠らない方がマシだと思うほどに。
何かをしていなければ、気が紛れない。
しかし、何から気を紛らわしたいのかも分からない。
ただひたすら、立ち止まることなく、過ぎ去る日々を見送る。
何にも興味を惹かれない。
景色を美しいと感じる心も、誰かと心を通わせたいという感情もない。
世界はずっとモノクロだ。
きっとエルフの中でもひと際情緒が薄いのだろう。
凪いだ心は、きっと永遠に振るわない。
そっと瞼を閉じると、またあの娘の顔が思い浮かぶ。名前を、リーナと言ったか。
エルフが人間に懸想するなんて、笑えもしない悪い冗談だ。一瞬で枯れる花をわざわざ摘んで愛でる愚か者はいないだろう。
そう思っているのに。
隣の部屋から、生活音が聞こえる。耳がひくりと動いた。
人の話し声。扉が閉まる音。カトラリー の金属音。
なぜこんなにも彼女の気配を取りこぼさないように耳を澄ませているのだろう。
「リーナ……」
その名前を口にする。
知らない音のはずなのに。
ほんの些細な違和感を残して、淡く消えていくような音階。「出来るだけ長く眠れるように」と願い、瞼をそっと降ろした。
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