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第94話 贖罪
しおりを挟む【side シルヴァーラ】
離宮にある、誰もいない小さな白い部屋。開け放した窓からは風が入り込み、カーテンを大きく揺らしている。
部屋の真ん中には、風でゆらゆらと傾くゆりかご。
中を覗いても、誰もいない。
「《私は……母にはなれなかった……》」
ぽつりと溢した声は、淡い胸の痛みにかき消されていく。
私は精霊の国を治めるエルフの女王。
私はあの子に、愛を抱けなかった。
後悔はない。
間違いだとも思っていない。
私の心は、昔も今もこれからも、彼にしか動かせないのだから。
♢♢♢
物心がついた時から、私はエルフの女王だった。
与えられる責任の重さと、自由の無さ。
それが当たり前だった。
疑問を持つことは許されなかった。
エルフの女王は毎日マロルンの木に祝福を与えなければならない。
それだけが、生命の木が枯れない唯一の方法だからだ。
何百年も同じ日々を繰り返し、ある日急になにもかもを放り出したくなった。
王宮を抜け出し、妖精の泉まで逃げて来た時、私は人間の少年に出会った。
生まれて初めて見る、人間。
名を、ルークといった。
話を聞けば、親に捨てられ森で彷徨っていた所、妖精の隊列に紛れてこちらに渡ったようだった。
「お前は名前を知られたから、もう帰れないぞ」
「いいよ。帰る場所もないんだ。ここにいていいなら、いるよ」
私は王宮へルークを連れ帰った。
ルークは初めて私を自由にしてくれた存在だった。
私たちは友のように過ごし、成長と共に互いを愛し合うようになった。
彼の前でだけは、私は一人の女になれた。
だが、人間には寿命がある。
ルークは50年も生きられなかった。
「嫌だ、私を置いていくなんて、許さない!」
年老いた彼の亡骸に縋り、誰にもそばに近付くことを許さなかった。
棺の中に横たわるルークは、ただ眠っているだけのように見える。
魔法で腐敗を止め、死後もそのまま私はルークの亡骸と共に暮らした。
「《シルヴァーラ様、亡骸をそのままにしておくのは自然の摂理に反します。肉体は大地に還り、魂は天に昇るのです。それが人間という種族の生き方です》」
老齢のエルフに諫められても、私はルークを手放せなかった。
そうして何年もの月日が経った。
私は毎日ルークに話しかけた。
返事が返ってこないことを知りながら、それでも話すことをやめられなかった。
いつか返事が返ってくるのではないか。
何ごともなかったかのように起き上がるのではないか。
そんな叶うはずもない幻想を抱き続ける日々は、私の瞳から流れた涙によって突然終わりを迎えた。
涙は真珠のような塊に硬化し、私の足元に転がり落ちた。
その瞬間に、亀裂が開いた。
深い闇の底から、銀色の目玉が私を嘲笑うかのように見下ろしている。
【この男が欲しいか。孤独は恐ろしいか】
【欲しい。ルークさえいれば他に何もいらない】
【エルフの涙で願いを叶えろ。死人を生き返らせることはできないが、その男の魂に鎖をつけることはできる】
【鎖……?そうしたらどうなるんだ?】
【その男が再び生まれ変わっても、魂に鎖がついていれば必ず分かる。お前は何度でもこの男を手に入れることができる】
【でも、また人間に生まれ変わってもいつか別れが来るではないか……!】
【だから、エルフに生まれ変わらせるのさ。三度同じ魂がこちらに渡って死を迎えれば、次はエルフに生まれ変われる。お前ならできる……女王なのだから】
甘美な誘惑を断ち切る勇気はなかった。
倫理がなんだ。
禁忌がなんだ。
そんなものは愛の前では無力だ。
そうして私はエルフが初めて流した涙の奇跡を使い、ルークの魂に鎖をつけた。
人間の国でルークと同じ魂を持つ人間が生まれるたびに、精霊の国に迷い込ませ、攫い、愛した。
それを三度繰り返し、エルフとして生まれたのが――ロリアンだ。
今度こそ、永遠を共に過ごせる。
もう私たちは誰にも引き裂かれない。
私はこの時まだ知らなかった。
魂の循環を捻じ曲げた、その代償を。
♢♢♢
ロリアンと番になり、100年が過ぎようとしていた頃。
私の胎に、命が宿った。
ロリアンは人間だった頃の名残なのか、感情が豊かでよく笑う男だった。
赤子ができたと伝えた時も、この世の春のような顔をして喜んでいた。
彼が喜ぶならいいだろう。
その時は、その程度のことにしか思っていなかった。
♢♢♢
1868年4月10日。アルサリオンが生まれた。
赤子が生まれても、私の心は平坦だった。
我が子を抱いても、なんの感情も湧かなかった。
(子どもとは、こんなものか。魔力が強いから次の王かもしれん)
それくらいの感慨だった。
しかし、ロリアンは違った。
「《ああ、シルヴァーラ、ありがとう……私たちの子だ。なんて可愛いんだ……》」
ロリアンは赤子を抱きしめながら、初めて涙を流した。
私ではない、他の誰かのために。
私にだけ向けられるはずだった愛が、アルサリオンに注がれている。
「《ほら、この子は君にそっくりだよ。魔力も強いから、きっと立派なエルフになる。楽しみだなぁ、早く大きくならないかな》」
ロリアンの瞳には、息子への情愛が溢れていた。赤子を抱き、柔い頬を愛おしそうに指でなぞるのだ。
全身に鳥肌がたつような激しい嫌悪感。嫉妬。憎悪。
自我を乗っ取られそうなほどの歪んだ感情が、溢れ出して止まらない。
生まれたばかりの我が子が、心底憎く思えた。
私はきっとこの子を――殺してしまう。
その日、魔物の国が国境を越えて侵攻した。
私はすぐに議会を招集し、アルサリオンをチェンジリングで人間界に送ることを決めた。
それは国の為でもあり、自分の為でもある選択だった。
これが魂の循環を捻じ曲げた代償。
私が愛に固執したために起きた、大罪だ。
♢♢♢
「《シルヴァーラ、こんなところにいたの》」
部屋にロリアンが入ってきた。彼は私の隣に静かに佇んだ。
「《アルサリオンたちは行ってしまったよ》」
「《そう》」
私は彼と目も合わせず、ただ目の前のゆりかごを見つめていた。
「《……寂しい?》」
「《まさか。私は母にはなれなかった。それだけよ》」
自らの選択を嘆く資格等、私にはない。
女王であることより、母であることより、女を選んだ。
私が死ぬまで背負い続けていく罪と罰だ。
だから私の手の届かぬ場所に逃げておくれ。
もう二度と会うことはない。
それが私にできる、せめてもの贖罪だ。
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