【R18】うっかり攻めたら、年下国王陛下に求婚されました。

針沢ハリー

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2.破瓜の儀式★

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 イレーネは身を清めて、一人で儀式が行われる部屋に入った。

 奥に天蓋付きの豪華な寝台が見え、思わず足が止まる。さすがにあからさま過ぎる気がしたけれど、文句を言う相手もいない。
 イレーネは持ってきた本と、小瓶の入った布袋を握りしめた。その二つが今夜の数少ない味方だ。

 イレーネはゆっくりと息を吐き出すと、改めて部屋を見まわした。右手には机と二脚の椅子があり、果物や果実酒の瓶が用意されていた。
 反対側を向くと、左手の窓のそばに大きな背もたれ付きの長椅子がある。その前に背の低い机があったので、とりあえずそこに本を置き、小瓶を入れた袋は手に握りしめていた。

 
 少し待っていると両開きの扉が開かれ、まだ少年らしさを残した青年が姿を現した。そのすぐ後ろで扉が音高く閉められる。彼は振り返ってそれを忌々しそうに見た。

 彼はこの国の国王だった。濃い金色の髪と茶色の瞳の、背の高い青年だ。
 イレーネは何度も彼に会ったことがある。でも、ここまではっきりと彼の顔を見たのは今日が初めてだった。いつもはイレーネが顔を覆うように目の前に薄布を垂らしているからだ。
 
 当然相手も状況は同じだ。こちらの顔を初めて見た彼は、少したじろいだようだった。
 
 思ったよりも年上で驚いたのだろうかと申し訳なくなる。彼はおそらくイレーネよりも五歳ほど若いはずだ。
 彼は王族の成人男性の中で唯一独身なので、この意味のない儀式を押し付けられたのだろう。

 先代の国王陛下とも顔を合わせていたイレーネは、その軍人然とした逞しさに恐ろしさすら感じたものだった。でも、今代の国王は細身で、まるで学者か何かのようだ。
 神官よりはたくましいものの、色白で繊細な印象を受ける。とても美しい青年だった。


 その国王は咳払いを一つすると、イレーネの前に進み出た。

「今宵の儀式のお相手を務めさせていただく。貴方が万事準備を整えていると聞いたのだが……」

 彼はそこまで言うと、瞳をゆらめかせた。
 イレーネはこれまで、彼からは高貴な人間特有の無関心さを感じていた。
 だが、今の彼は一所懸命に虚勢を張っているように感じられた。
 二人きりで互いの素顔をさらしているからだろうか。彼の思っていたよりも少年めいた顔が不安そうに見えてしまうのは。

 イレーネは聞かれたことに答えた。

「はい。陛下にお手間をおかけしないよう、媚薬を持って参りました。教本もございますので、どのようなものがお好みかお教えいただければ、ご期待に添えるように致します」
「教本? 媚薬については聞いているが」
「はい。聖女たるもの、陛下のお手を煩わせないよう、その教本で学習を終えて儀式に臨んでおります」

 イレーネが先ほど長椅子の近くに置いた本を指し示しながら言うと、首を傾げながら国王はイレーネが持ち込んだ教本を開いた。
 そして、パラパラとそれをめくった所で、彼の目が驚きに見開かれ、顔が赤く染まった。

「な……」

 彼はそれだけ言うと、それを閉じてイレーネの方を向いた。彼はなぜか口元を押さえている。そして目元は相変わらず赤いし、目が合わない。

「何かご注文はございますか?」
「あ、貴方はこれを、読んだのか?」
「はい。もちろんでございます」

 教本には、男女の体の仕組みの違いから、実際にまぐわう際の体位まで、事細かに図入りで解説されている。
 そこには人によって快感を得られる体位が違うと書かれていたから、イレーネは彼の好みを聞こうと思ったのだ。でも、それに対する返答はなかった。

 イレーネは媚薬を飲むので関係ないけれど、彼はしたくもない儀式に付き合わされているだけだ。だから彼が快楽を得なければ破瓜は成し遂げられないのではないかと思う。
 国王の反応のなさに内心戸惑っていたけれど、この儀式を終えなければ次へは進めない。イレーネは覚悟を決めた。

 彼は何か呟いているが独り言のようなので、それには構わずに手に持っていた袋から媚薬の瓶を取り出し、それを少しだけ飲み込んだ。
 人によって効き方が違うので、初めは少しだけ飲んで、足りなければ飲み足すようにと指示されている。

 そして、頭からすっぽりと被る衣装を脱ぎ捨てた。恥ずかしく思いつつも、胸当てと腰に巻いた布だけという姿になる。
 媚薬の小瓶は、寝台の端に置いた。もう一度飲まなくてはいけないかもしれないから。

 イレーネは決められた手順通りに行動している。それなのに、国王は大いに驚いているようで、口をわずかに開いたまま微動だにしない。
 イレーネは彼の反応の意味がよく分からない。彼の望むままにせよと教えられているのに、どうしたらよいのだろうか。

「お手を煩わせなくても、じきに体の準備は整うはずです。それまで何か飲まれますか?」

 イレーネはとりあえず彼のために果実酒でも注ごうかと思った。でも、彼に腕をつかまれて止められる。
 その瞬間、その手から熱が伝わってきて、全身に痺れのような感覚が走った。

「もう、貴方の体は反応しているようだ。体も、その、少し、様子が違う」
「……からだ?」

 イレーネは自分の体を見下ろした。胸当ての布地を硬く立ち上がった乳首が押し上げてしまっている。そして、そこを意識した途端、そこに甘い痺れが走る。戸惑いはしたものの、儀式の準備が整いつつあるのは確認できた。

 国王は何かを耐えるように顔を歪めていた。そして唐突に言った。

「そのように誘えと習ったのか?」
「え……?」

 次の瞬間、イレーネは寝台に押し倒されていた。目の前には目元を赤くした彼の顔がある。
 彼はおずおずと胸当てを外し、まろび出た胸をやわやわと揉んだ。
 いきなりのことで驚いているうちに、尖り切った乳首に彼の指が触れ、痺れが走ったと同時に体が跳ねてしまう。

「あ、ぅ、陛下、あの、わたくしはどうすれば?」
「私が知るものか。くそっ」

 彼は悔しそうに顔を歪め、胸に舌を這わせた。その行為にイレーネの口からは熱い吐息が漏れ、体中に快感が広がる。
 媚薬が十分に効いているようだった。男性のものを受け入れる場所が、粗相をしてしまったのかと思うほど濡れているのが、わずかに両足を動かした時の感触で分かってしまう。
 そして、頭がふわふわとしてきた。体中が物足りなさを訴えて、早く早くと何かにせき立てられるように、足の間が疼いた。

「んっ、陛下、体がもう……」
「媚薬の効果か? しかし、そう簡単には中に入らないと聞いている」

 彼はそう言うと、揉みしだいていた胸から手を離し、イレーネの足の間をまさぐった。
 でもそれはもどかしいばかりで、イレーネは耐え切れないほどの熱に浮かされ始めていた。
 彼は焦ったくて、もどかしすぎた。

「お手伝い致します」

 イレーネは教本を暗記するほど読み込んでいた。だから、聖女がお相手の準備を手伝う場合があると知っている。
 体を起こし、驚いている彼を逆に寝台に寝転がせた。

 少々強い力で押してしまった気もするけれど、今のイレーネにはそんなことはどうでもよかった。
 ただこの熱をなんとかしたい一心で彼の服を乱雑に脱がせていく。
 軽く手で抑えられそうになるのが煩わしくて、荒くなる呼吸のまま睨みつけると、彼は大人しくなった。

 彼の引き締まった上半身が露わになると、彼がイレーネにしたように、固い胸に舌を這わせ、そのままうっすらと割れ目のある腹を舐めていく。
 表情をうかがおうと上目遣いで見やるが、彼は口元を手で押さえて横を向いてしまっていた。

「あ、まっ、聖女どのっ」

 彼が焦った声を出したのは、イレーネが彼の下半身に手を伸ばし、その男根を取り出して握った時だった。
 でもそんなことには構わずにそれを舐め、口に含む。その瞬間、彼が鼻にかかった声を上げたのに煽られて、それを続けた。

 そして、あっという間に勃ち上がったそれから唇を離し、眺める。

 イレーネの呼吸はもうどうにもならないほど荒くて、体は熱い。なぜかそれが欲しくて仕方がない。
 その大きさに怯むなと教本には書かれていた。でも、もうその頃には、教本に書かれていた内容も、国王の意思に沿うようにと言われたことも、全て頭から消え去っていた。

 目の前で顔を赤らめて、何かに耐えるように眉を寄せている彼の顔に胸が高鳴る。

 彼の服を全て取り去って、その上に跨っても、彼は抵抗もせず、されるがままだ。
 彼のものを秘所に当てがった。場所だけは事前に自分でも確認していたので、どこに入れるかは知っている。

「あ、聖女殿っ、まてっ、そんないきなりはっ」
「もう、待てません」

 イレーネが腰を落とすと、その先端が濡れそぼった秘所の中に入ってきた。痛みは感じない。
 ふと、自分は媚薬がとても効きやすい体質だったのかと思った。でもすぐにそんな考えはどこかへ行ってしまう。
 とにかくそれがもっと奥に欲しくて仕方がない。

「あ、んっ、入ってくるっ。あ、熱いっ」
 
 イレーネが熱に浮かされながらそれをどんどん中に埋めて行くと、彼に腰をつかまれてしまった。

「まってくれ、このままでは、もうっ」

 イレーネは切羽詰まった顔で声を上げる彼の目にも欲望が宿っているのに気づいた。息も荒い。彼も快楽を感じているのだと確信する。

 彼の手が邪魔をするのを無視して、欲望のままに腰を動かした。中が擦れて気持ちがいい。「一度止まってくれ」と懇願するように言われても止められない。

「ああっ、そんなふうにしたらっ! もっ、でるっ!」
「んっ……」

 体の奥に何か放たれたのが分かる。子種だろう。イレーネが口にした媚薬には避妊効果もあると言うから、問題はない。

 問題なのは、まだ熱に浮かされたままのイレーネが、物足りなくて動いていたのを、彼が腰をつかむ手に力を込めて動けなくしてしまったことだ。

「待ってくれ、今達したから、あっ、一度抜いて……」
「まだです。もっと欲しくておかしくなりそう……」

 このまま放り出されたら、この体の熱をどうすればいいのか分からない。イレーネが満足するまで、彼にも欲情していて欲しかった。

 イレーネは寝台の上に置いてあった小瓶に手を伸ばし、荒い息を吐いている彼に、口移しで媚薬を飲ませた。
 それが手っ取り早い。彼も自分と同じように欲望に流されてしまえばいい。

 彼がきちんとそれを飲み込むように、媚薬を彼の舌に擦り付けるようにする。それが気持ちよくて続けてしまっていたら、もう媚薬が効き始めたのか、彼も舌を絡めてきて、さらなる快感に彼のものが入ったままの場所が期待に震えてしまう。

「んっ、陛下、どこが気持ちいいですか?」
「え? あっ、うっ!」

 イレーネが自分がされて気持ちよかった、彼の平らな胸の上で存在を主張している乳首を舐めると、彼の腰が揺れた。
 繋がったままの彼の男根がまた大きくなって、イレーネの中をいっぱいにしてくれる。

「あ、んっ、聖女どの、そこは」
「もう私は聖女ではありません。イレーネとお呼び下さい」
「え?」
「儀式は終わりましたので」
「あ……イレーネ……。体中が、おかしいっ、ぁうっ」
 
 イレーネがその固い胸に手を這わせただけで体を跳ねさせた彼が、欲望の宿った眼差しで彼女を見つめて来る。
 目元を染めている彼が、どうしようもなく可愛く思えてしまうのも媚薬の効果だろうか。
 
 彼が反応する胸や首筋に舌を這わせるたびに彼は体をよじるので、自然とイレーネの中を押し広げる彼自身も動くことになる。
 その刺激に秘所が収縮する。気持ちが良いとそうなってしまうものらしかった。

「陛下もお好きになさって下さいませ」
「……っ! 分からないっ、こんなこと、初めてでっ、んっ」

 彼もこのような行為をするのは初めてだったらしいと知って、イレーネは、にわかに我を取り戻した。
 まだ体には熱がくすぶっていたものの、思考を奪っていたもやが薄れ、とんでもない真似をしてしまったことに気づく。

 破瓜の儀式は終わったにも関わらず、国王に媚薬を飲ませ、その体を好きにしようとしていたなんて。
 彼はこういった行為に慣れているのかと思っていたのに、そうではないと言う。イレーネはその事実に青ざめた。

「あ……。私は何ということを……。申し訳ございませんっ」

 慌ててイレーネが彼の上からどいた。
 彼のものが抜ける瞬間、まだ疼いている体がびくびくと震えてしまうが、それは歯を食いしばって耐える。
 もっと欲しいけれど、これ以上すれば、もう聖女でなくなったイレーネはただでは済まないだろう。

「イレーネ……。そなた、媚薬が切れたのか?」
「はい、多少。本当に申し訳ございませ、あっ!」

 イレーネが謝っていたのに、国王に腕を取られ寝台に押し倒される。
 そして彼は、先ほどまで入っていた場所に再び男根を突き入れてくる。

「ん、あぁっ! あ、や、そんなに、はげしいっ」
「そなたのせいだっ、責任は、とれっ、ぐっ!」

 彼はその髪から汗を滴らせながらイレーネを揺さぶり、抱き続けた。それに翻弄されて、最奥を穿たれるたびに自分のものとは思えない声をあげてしまう。
 媚薬の効果か、それは数え切れないほど繰り返された。そのうちの二度ほどは、イレーネが彼の上に乗り、自分の快楽を追って腰を振った。
 そしてまた組み敷かれ、何度目か分からない絶頂に導かれる。
 
「あ、もう、だめぇっ!」
「ん、私も、もうっ、ああっ」

 彼はまた中に熱い液体を注ぎ込むと、イレーネの上に倒れ込んだ。
 そして、なぜか抱きしめられる。
 でも、とても温かかった。その重みも心地いい。


 そう言えば、神殿で暮らし始めるまでは、家族たちと狭い部屋の中でごちゃごちゃと寝転がりながら、一緒に眠っていた。そんな懐かしい記憶が脳裏をよぎる。
 そして、もう二度と会えないだろう彼らを思って涙がこぼれてしまった。

 しかし、それを見た国王は、その涙を自分のせいだと思ったようで、慌てて上から飛び退くと、なぜか「すまない、しつこくしてしまって」と謝ってきた。
 イレーネには彼が何に対して謝っているのか分からなかったけれど、微笑みながらきちんと説明した。

「昔を思い出してしまっただけです。家族との思い出です。それに、陛下のような身分の方が、ただの平民に謝るなんて」

 イレーネは涙を拭うと、今の状況がおかしくて笑った。
 慌てた様子だった国王は寝台に座っていて、イレーネもそれにつられて起き上がっていた。二人とも一枚の掛け布の両端で、それぞれ裸の体を何とか隠している。

「家族か。そなたはここを出たら家族のもとに帰るのか」

 イレーネは首を横に振り、もう家族の居場所が分からないのだと説明した。国の境すらも渡って行く人たちだった。

 イレーネが神殿に引き渡された時のことを思い出す。
 その時に出迎えた神官は、聖女の務めを終えた者は裕福な家に嫁ぐものだと言っていた気がするから、家族も娘を迎えに来ようとは考えていないだろう。もし考えていたら、とっくに接触があっただろうから。

「では……どこかに行く当てが?」
「しばらくは地方神殿でお世話になれますので、その間に考えます。街で暮らしたくて」

 彼は神妙な顔つきで頷いた。

「私は以前、街中で暮らしていた。もしよければ人を紹介しよう。他人の手を借りなくても済むのならそれで構わないが、念の為に。学舎の運営や商売もしている男だ。先代の王の信頼も厚かった。悪いことにはならないだろう」

 イレーネは目の前に光が差したような気がした。
 ほんの少しの希望でも、もしそれで上手くいかなかったとしても、それがあると思うだけで頑張れる気がした。
 
 礼を言うと、彼は「もしくは……」と言いかけ、黙り込んだ。
 言いにくそうな彼を促すと、彼は何度か瞳を左右に揺らしてから口を開いた。

「地方神殿には行かず、私の元に輿入れしてもいい」
「……は……?」

 イレーネは予想もしていなかった彼の言葉に驚いてしまって、声が出せなかった。彼はそれを気にした風もなく話し続ける。

「私の命は数年以内には失われるかもしれない。それまでの間、貴方のような人に近くにいて欲しい」

 彼はイレーネはきちんと逃すように手配をするから、と言った。

「命が失われる?」
「そう。聖女はそのような話とは無縁だろう。私はただの繋ぎの王だ。亡くなった母は正式な側妃ですらなかったから、後ろ盾もない。いずれ弟を王位に就けたい人間が、いつでも玉座から引きずり下ろせる私を、とりあえず即位させただけだ」
「……命まで……?」
「どちらが良いかは分からないが、一生幽閉される可能性もあるな」

 彼は諦め切ったように苦笑していた。まるで死を待つだけの病人のように見えた。

「それまでの間、私を側に……?」
「その後の身の振り方や暮らしについては、その間に出来る限り準備をすればいい」
「ただ私がそれまでお側にいれば、お慰めすれば、ご自身はその後はどうなっても良いと?」

 彼はうつむきながら「もう私は自分の運命を受け入れている」とだけ言った。

 彼はつい先ほど、イレーネが生きて行くための見通しを示してくれた。その人がそんな悲しい言葉を口にしたのに無性に腹が立った。
 そして、輿入れして欲しいと、求婚をした人間が、その相手に言うべきことではないと思った。あまりに無責任ではないか。

「では、ご自分も逃げたらよろしいのでは? 求婚をしておいて、側にいて欲しいと言いながら、死に行く夫を捨てて逃げろとは、随分と酷いことをおっしゃる」
「しかし、私と貴方とでは逃げやすさが違う」

 彼の顔には生きようという意思が感じられなかった。でも、それではあまりにも悲しすぎる。
 彼にも生きて欲しい。その可能性を諦めないで欲しかった。


 イレーネはふと、彼が自分と一緒に自由に生きて行ければいいのにと思ってしまった。
 これまでそのような感情を抱く機会はなかったけれど、彼は年下だからか庇護欲を刺激する。
 このまま彼を見捨てて自分だけが幸福を追い求めるなんて、とても出来そうになかった。

「では、ご自分が生き残る状況をお作り下さい。求婚はお受けします。ですから、生き延びて、私の元にご自分で来たらよろしいわ」
「は……? 私が……?」
「はい。私はあなた様のおかげで自分一人でも生活していけると、そう思えた所でした。私はそうします。ご自分の人生も諦めないでください」

 彼は困ったように眉を寄せた。その顔は傷つき途方に暮れる子どものようで、イレーネは思わず彼を引き寄せる。

 彼はされるがまま、イレーネの胸に顔を埋めて頬ずりをした。ただ口が塞がれて苦しかっただけかも知れないけれど。
 その様子が可愛らしくて、ついつい肩よりも長く伸びた彼の髪を撫でていると、彼は眠たそうに目を瞬いた。

「お疲れですか?」
「もう、父が死んでからずっと、よく眠れていないんだ」
「……そうでしたか」

 イレーネはずっと自分のことばかり考えてきた。誰かの幸福は祈っても、実際に苦しんでいる人と接する機会などまるでなかった。
 どうするのが一番いいのかは分からなかったけれど、彼の頭を抱いて、「少しでもお休み下さい」と囁く。

 彼はイレーネを抱きしめながら、寝台に寝転がり、この胸の中で目を閉じた。それにつられるように、イレーネも眠気に襲われる。
 二人はほどなく眠りに落ちた。


 イレーネは温かい存在が離れて行ったのに気づいて目を覚ました。
 横たわったまま、口を開かずに、彼が背を向けながら服を着るのを見つめる。
 イレーネは寝ているふりをした。交わすべき言葉は、もう何もなかったから。

 彼は部屋を出て行った。

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