3 / 5
3.叶わないかもしれない約束
しおりを挟むイレーネはしばらく地方神殿で暮らした後、その地域では一番大きな街で暮らし始めた。
かつて、裕福な商家の息子と偽って生活していた国王サリアンの知り合いのつてを頼ったのだ。
彼は儀式の翌日、イレーネが大神殿を後にする直前に、その知り合い宛の紹介状を届けさせてくれていた。
イレーネはこの半年の間、地方神殿で暮らしながら近くの町へ行き、一般の暮らしを学んだ。
とっくに忘れたと思っていた、両親たちと共にあちこちを渡り歩いていた頃の記憶は確かに彼女の中にあった。
金銭での売り買いや、市井での暮らしには、思っていたよりもずっと違和感なく溶け込めた。
そして、神殿を出る時はあっという間にやってきた。
地方神殿でもイレーネの素性を知る者はごく限られていた。元聖女だと知る神官たちは、もちろん何の役にも立たなくなったイレーネを引き止めなかった。
むしろ、一緒に生活していた、下働きの女性たちに心配されてしまった。彼女たちは、イレーネがどれほど世間知らずか知っている。
初めの頃、洗濯の仕方や料理、それ以前に火のおこし方まで、身の回りのことを一人では何一つ出来なかったイレーネに、それらを根気強く教えてくれたのが彼女たちだった。
彼女たちと別れの挨拶をしながら、イレーネはあの頃の自分の、あまりの生活力のなさを思い出し、小さく笑う。
彼女たちが街に出た時には、ぜひ店に寄って欲しいと言うと、彼女たちは微笑んで「応援してるわ」「頑張って」と口々に言って送り出してくれた。
イレーネは貸し馬車に荷物を積み込むと、笑顔でそこを後にした。
イレーネは、聖女としての務めを果たしたことに対する報賞を、かさ張らない宝石や、わずかな金銭で受け取っていた。それらは目立たないように荷物のあちこちに分けて忍ばせている。
もちろん手元にあるのはほんの一部だ。地方神殿にいる間から、それらの大半は貸金庫に預けてある。
その額は女一人が慎ましく生きて行くのには十分なものだったから、イレーネはその一部を使って店を借り、レースを売る店を開いた。
レースを編むのは、大神殿で暮らしていた時から、毎日空き時間になるとしていた数少ない趣味の一つだった。
これは世話をしてくれていた老女に教わって覚えたものだ。老女は毎日飾り気のない聖女特有の衣装しか身に纏えないイレーネに同情していたようだったから、それを教えてくれたのだろう。
自分の部屋でしか身につけられなかったものの、髪飾りやショールを、いくつもの図柄で編んだものだった。
イレーネは地方神殿で生活している間に、とにかく店頭に並べるものを用意しなければと、せっせとレースを編んでいた。
服に飾りとして縫い付けて使う細くて長さのあるものから、家具の上に飾るもの、壁掛けに加工出来るほどの大きさの物まで、工夫しながら編んだ。
街に出た時には、市場に場所を借りて、小さな物を売ってみたりもした。
どのような品物が好まれるのか調べるだけのつもりだったものの、イレーネのレースは年齢を問わず女性たちに人気があり、思いの外売れた。
そして、彼女らから、長細いレースを巻きつけながら縫い留めた、花のような飾りはないかと聞かれ、それらも作るようになった。
店を開くにあたっては、家賃代を商品に上乗せしなくてはいけなかったため、レースは市場で売っていた時よりも高い値段で売ることにした。それくらいの値段でも買うと、市場に来た客たちが言ってくれていたからだ。
その頃にはまだ不安が先んじていたイレーネも、市場で出会った彼女たちのおかげで自信を持てるようになっていた。
イレーネが地方神殿を出て、街中で本格的に暮らし始めて半年も経つ頃には、常連も出来て、店の経営もなんとか軌道に乗った。
家賃と生活にかかる金銭を商売の儲けだけで賄えるようになって、イレーネはようやくほっと出来た。
店番をしながら品物を作り続け、客が来れば接客もする。
ほんの一年前には想像もできなかった日々だったけれど、楽しくて充実していた。
そんな生活がさらに一年ほど続いたある日、街中の鐘が不気味に鳴り響いた。
国王の訃報だった。
その日店を閉める時、隣の花屋の女主人に、神殿に花を手向けに行かないかと誘われた。イレーネはそれを断った。
そして、それからは必要最低限の買い物をのぞいて、店から一歩も出なくなった。
店を閉めた後も、店の奥にある小さな台所と二部屋だけの生活空間にすら、必要な時以外は立ち入らなかった。
ずっと玄関のある店にいて、商品を作り、そして眠気の限界がくると灯りを落として作業台に突っ伏して眠った。
信じたかった。彼が逃げ出せたのだと。
今頃、彼が行くようにと勧めてくれた、イレーネがいるこの街に向かっているはずだと。
しかし、三週間も経つ頃には、その希望もしぼみかけていた。
王都からこの街へは、十日もあれば辿り着けるはずなのだ。
そこで思い当たった。
彼はもし生きていても、イレーネの元に来るとは限らないのだと。
離れていた間に他に愛する人が出来て、その人と逃げているのだと思いたかった。
イレーネは、彼にとって、たった一度情を交わしただけの相手だ。しかも、それは儀式にのっとった、義務以外の何ものでもなかっただろう。
縋るものを探していたイレーネにとっては彼との思い出は大切な物だったけれど、彼にとっては違ったのだろう。
イレーネのことなど忘れたから姿を現さないのだと、何度も自分に言い聞かせた。
その方が良かった。
死んでしまったと認めるよりは。
イレーネは、部屋に戻って眠り、外出もする生活に戻った。
きっと彼はどこかで愛する人と幸せに暮らしているのだと自分に言い聞かせながら。
不意に涙が流れてしまう日はあったけれど、それを拭っていつも通りの生活を送る。
イレーネは一人ででも生きていかねばならないから。
◆
その日はなかなか店を閉めることが出来なかった。常連の商家の夫人とその娘たちが、商品を選ぶのに手間取っていたからだ。
この夫人は、三人娘の長女の嫁ぎ先が決まり、持参品として持たせる品物の中にイレーネのレースも入れたいと特別な品を注文してくれた。花の模様を編み込んだ、かなり手間のかかる物だった。
もしかしたら壁掛けに加工させるかもしれないと言う大きな品物だったので、この数週間はそれにかかりきりだったけれど、それが出来上がったので取りに来てくれたのだ。
夫人は注文のレースに目を輝かせて礼を言ってくれたから、ほっとしていたのだが、それを見た妹たちが騒ぎだしてからが大変だった。
自分たちも何か欲しいと言い出した彼女たちが、最近は注文の品に手が取られていたから、ただでさえ品薄気味の棚から、あれもこれもと引っ張り出しては、店の中央に置いてある机の上にそれらを広げて、あれがいい、これがいいと母親にねだっていたのだ。
彼女たちが帰ったのは、それから半刻もしてからだった。閉店時間はとっくに過ぎていたものの、イレーネは楽しそうに笑い合いながらレースを選ぶ彼女たちを追い出せなかったのだから仕方がない。
ようやく閉店の看板を扉にかけ、通りがかりの近所の商店主に挨拶をしてから扉を閉めようとした時だった。
路地から人影が現れたかと思ったら、背の高い男がイレーネを押し込むようにして、店の中に入り込んできた。
イレーネはとっさに男から離れると、扉の近くに置いてあった閂の棒を取って振りかざした。治安の良い地域とはいえ、女一人で店をやっているから、何かあった時にはこうしようと前もって決めていた。
しかし。
「イレーネ!」
イレーネは聞き覚えのある声に手を止めた。棒が力の抜けた手から滑り落ち、床で大きな音を立てる。
顔を隠すように乱雑に垂らした髪をかき上げたのは長身の男だった。そしてそこに現れた顔は、もう待つのをやめようと心に誓った人のものだった。
「陛下……」
いや違う。もう国王は死んだ。今ここにいるのは、ただこの二年以上の間、心の中から消えてくれなかった人だ。
「イレーネ。やっと会えた」
今にも泣きだしそうな顔をした彼に抱きしめられる。
土埃のような匂いのする彼は、確かにもう国王ではない。
あの夜の彼からは、ほのかに花の香りが漂い、髪も丁寧に梳られていた。でもイレーネは、何の手入れもされていない彼の匂いの方が好きだと思った。
ただ困ったことに、体は抱きすくめられていて動かせないし、彼を何と呼んでいいのか分からなくて声も出せなかった。
そんなイレーネを、抱擁を解いた彼が心配そうに見つめてくる。
「……迷惑だった? ごめん。思ったよりも遠回りをしたから時間がかかってしまって。この街には三日前に着いていたんだけど、君に監視がついていないか確かめていて……。イレーネ。何か言ってくれ」
イレーネはやはり彼を何と呼んでいいのか分からなかった。涙で目の前がにじむ。どれだけ心配して、絶望して、涙を流させたと思っているのかと言ってやりたかった。
でも口から漏れ出たのは安堵の言葉だった。
「よかった……。生きていたのね」
「うん。協力者を買収して。死んだと思われているだろうと思う。油断はできないけれど」
彼は長い指で彼女の顔から涙をぬぐった。
「来たよ。君が来いと言ったから。死に物狂いで逃げ出してきた。君は求婚を受けてくれたよね。その気持ちに変わりはある?」
そうだった。イレーネは、「求婚は受け入れるから自分で私の元に来い」と言ったのだった。
現実感がないままに彼の手を取った。大きくて暖かい手が、イレーネの細い指を握り返した。
「変わっていないわ。あなたを待っていたの。ずっと……」
「よかった。でも一つ、君に詫びないといけないことがある」
「何?」
イレーネは、彼はもう充分に謝ってくれたのにと思った。
「この街は僕に……前国王にゆかりがありすぎる。遠くの街に一緒に行ってもらわなくてはいけない。
実はここに来る途中、目星をつけておいた場所を回って来たんだ。よさそうな街を見つけたから、もう一緒に住む場所を借りて、すぐに暮らし始められるようにしてある。せっかくの君の店を移転させるのが申し訳ないけど」
そんなことかとイレーネは思った。
どこでも出来る商売を選んだ。そんな事態も有り得るだろうと思って。彼がやってきたら、一緒にどこまででも行けるように。
「特別の注文は今日納品し終わったところなの。すぐにでも出発できるわ」
彼はとても嬉しそうに、あの少年のような顔で微笑んだ。でもそこで、思い出したように眉をしかめる。
「そういえば、君は僕の名前を呼んでくれていない。もう肩書きも何もなくなった。名前を呼んで、イレーネ」
イレーネは、何か恐れ多いことをしている気分になりながら、恐る恐る彼の名を呼んだ。
「サリアン……」
彼は輝かんばかりの笑顔でイレーネに口づけてくれた。
1
あなたにおすすめの小説
聖女の力に目覚めた私の、八年越しのただいま
藤 ゆみ子
恋愛
ある日、聖女の力に目覚めたローズは、勇者パーティーの一員として魔王討伐に行くことが決まる。
婚約者のエリオットからお守りにとペンダントを貰い、待っているからと言われるが、出発の前日に婚約を破棄するという書簡が届く。
エリオットへの想いに蓋をして魔王討伐へ行くが、ペンダントには秘密があった。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
余命わずかな私は、好きな人に愛を伝えて素っ気なくあしらわれる日々を楽しんでいる
ラム猫
恋愛
王城の図書室で働くルーナは、見た目には全く分からない特殊な病により、余命わずかであった。悲観はせず、彼女はかねてより憧れていた冷徹な第一騎士団長アシェンに毎日愛を告白し、彼の困惑した反応を見ることを最後の人生の楽しみとする。アシェンは一貫してそっけない態度を取り続けるが、ルーナのひたむきな告白は、彼の無関心だった心に少しずつ波紋を広げていった。
※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも同じ作品を投稿しています
※全十七話で完結の予定でしたが、勝手ながら二話ほど追加させていただきます。公開は同時に行うので、完結予定日は変わりません。本編は十五話まで、その後は番外編になります。
私の願いは貴方の幸せです
mahiro
恋愛
「君、すごくいいね」
滅多に私のことを褒めることがないその人が初めて会った女の子を褒めている姿に、彼の興味が私から彼女に移ったのだと感じた。
私は2人の邪魔にならないよう出来るだけ早く去ることにしたのだが。
包帯妻の素顔は。
サイコちゃん
恋愛
顔を包帯でぐるぐる巻きにした妻アデラインは夫ベイジルから離縁を突きつける手紙を受け取る。手柄を立てた夫は戦地で出会った聖女見習いのミアと結婚したいらしく、妻の悪評をでっち上げて離縁を突きつけたのだ。一方、アデラインは離縁を受け入れて、包帯を取って見せた。
【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。
ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。
「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」
ある日、アリシアは見てしまう。
夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを!
「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」
「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」
夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。
自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。
ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。
※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。
【完結】愛されないと知った時、私は
yanako
恋愛
私は聞いてしまった。
彼の本心を。
私は小さな、けれど豊かな領地を持つ、男爵家の娘。
父が私の結婚相手を見つけてきた。
隣の領地の次男の彼。
幼馴染というほど親しくは無いけれど、素敵な人だと思っていた。
そう、思っていたのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる