16 / 20
第16話 国境会談という名の断罪
しおりを挟む
帝国ガルガディアと、崩壊した王国ルミナス。その国境線上に位置する中立都市ベルンは、古くから通商と外交の要衝として栄えてきた歴史ある街だ。 石造りの重厚な建築物が並び、運河が穏やかに流れる美しい街並みは、今日という日を迎えるにあたり、かつてないほどの緊張感に包まれていた。
街の至る所に帝国の紋章旗――双頭の氷狼が描かれた旗が掲げられ、空には飛竜騎兵団が旋回している。 表向きは「警備」だが、それは誰の目にも明らかな「威圧」だった。 今日ここで行われるのは対等な外交ではない。勝者による敗者への、慈悲という名の首輪をかける儀式なのだ。
その舞台となるベルン迎賓館の特別控え室で、私は鏡の前に立っていた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、自分の姿を映す。 今日の装いは、ジークハルトが直々に選んだものだ。 帝国の高貴な色とされる漆黒のドレス。しかし喪服のような重苦しさはない。生地には微細な銀糸が織り込まれ、光の加減で星空のように煌めく。 デコルテを美しく見せるスクエアネックと、足元まで流れるようなAラインのシルエット。 飾り立てるのではなく、身に纏う者の品格を際立たせる、洗練されたデザインだった。 髪は高く結い上げられ、そこには「皇帝の婚約者」を示す証として、大粒のサファイアのティアラが輝いている。
鏡の中の私は、かつて王城の片隅で背中を丸めていた「地味な公爵令嬢」ではなかった。 帝国という強大な後ろ盾を得て、自らの足で立つ「一人の女性」の顔をしていた。
「……美しいな」
背後から、感嘆の声が降ってきた。 振り返ると、正装の軍服に身を包んだジークハルトが立っていた。 その胸には数え切れないほどの勲章が飾られ、肩には皇帝のマントが掛けられている。 圧倒的な美貌と、見る者をひれ伏させるカリスマ性。 彼が部屋にいるだけで、空気がピンと張り詰めるようだ。
「準備はいいか、リーゼロッテ」 「はい。……覚悟はできています」
私が答えると、彼は近づいてきて、私の手にキスを落とした。 手袋越しの感触。でも、その温もりは心臓まで届く。
「無理はするなと言いたいところだが……今日ばかりは、存分にやっていい」 「え?」 「あの愚か者に、現実を教えてやるのが今日のメインイベントだからな。……貴様が言葉の刃で刺そうが、氷魔法で凍らせようが、私がすべて許可する」
彼は悪戯っぽく笑った。 その瞳の奥には、私を傷つけた者への冷たい怒りが、まだ消えずに残っている。
「ありがとうございます。……でも、暴力は使いませんよ。言葉だけで十分ですから」 「ふっ、それもまた恐ろしいな。……さあ、行こうか。観客たちが待ちわびている」
彼は右手を差し出した。 私はその腕に手を添える。 エスコートされる腕の頼もしさに、私の心の震えは完全に止まった。
◇
迎賓館の大ホールは、数百名の参加者で埋め尽くされていた。 帝国側の高官、軍人、そして周辺諸国の外交官たち。彼らは皆、華やかな正装に身を包み、余裕のある表情で談笑している。 対照的に、会場の片隅に固まっている一団があった。 王国ルミナスの暫定政府代表団だ。 急ごしらえの代表団には、革命軍のリーダーや、生き残った旧貴族たちが混在しているが、彼らの顔色は一様に悪い。 着ている服も、帝国の煌びやかさに比べれば古臭く、みすぼらしく見えた。 彼らはまるで、屠殺場に連れてこられた羊のように怯えた目で周囲を窺っている。
ファンファーレが鳴り響く。 会場の喧騒がピタリと止み、全員が入り口へと向き直った。
「ガルガディア帝国皇帝、ジークハルト・ヴォルフ・ドラグーン陛下! 並びに、リーゼロッテ・フォン・エーデル様、ご入場でーす!!」
重厚な扉が開かれる。 まばゆい光と共に、私たちが足を踏み入れると、会場中がどよめきとため息に包まれた。
「おお……なんと神々しい」 「あれが噂の『光の魔術師』か。美しい……」 「皇帝陛下とお似合いだ。まるで絵画のようだ」
割れんばかりの拍手が巻き起こる。 私たちは悠然と赤い絨毯の上を歩き、会場最奥に設置された壇上へと向かった。 そこには三つの席が用意されている。 中央に皇帝の席。その右に私の席。 そして、左側の下段に、ポツンと置かれた粗末な椅子が一つ。
私たちは席に着いた。 ジークハルトが軽く手を挙げると、拍手が鳴り止み、静寂が支配する。
「……これより、戦後処理会談を始める」
彼の低い声は、マイクも使っていないのに会場の隅々まで響き渡った。
「まずは、今回の紛争の主犯であり、王国崩壊の元凶となった人物を入廷させる。……連れてこい」
彼の合図で、反対側の小さな扉が開いた。 ガシャン、ガシャン、と鎖を引きずる音が聞こえてくる。 会場の空気が一気に冷えた。 侮蔑と、好奇心と、そして哀れみの視線が注がれる中、その男は姿を現した。
アルフォンス・フォン・ラインハルト。 かつての第一王子。 彼の手足には魔封じの枷が嵌められ、両脇を屈強な帝国兵に抱えられている。 着ているのは囚人服ではなく、かつて彼が愛用していた王族の正装だった。しかし、それは何日も洗濯されていないようで薄汚れ、あちこちが擦り切れている。金糸の刺繍もほつれ、かつての栄光の残骸のようだった。
彼はよろめきながら、引きずられるようにして歩いてきた。 その顔色は土気色で、頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。 しかし、その瞳だけは異様にギラギラと輝いていた。
「……離せ! 私は歩ける!」
彼は兵士の手を振りほどこうと暴れたが、ビクともしない。 そのまま壇上の前まで連行され、粗末な椅子に座らされた。
彼は荒い息を吐きながら顔を上げ、そして私たちを見た。 正確には、私だけを見た。
「……リーゼ、ロッテ……」
彼の唇が震えた。 その目が見開かれ、私の全身を舐め回すように凝視する。 漆黒のドレスに身を包み、宝石のように輝く私。 その姿を見た瞬間、彼の瞳に「恍惚」とも「執着」ともつかない、粘着質な光が宿った。
(……ああ、やっぱり。やっぱり君は美しい) (そのドレスも、宝石も、すべて私のために着飾ってくれたんだね?) (君は待っていたんだ。私が迎えに来るのを)
彼の心の声が聞こえてくるようだった。 現実と妄想の区別がつかなくなっている。 彼はニタリと笑い、口を開こうとした。
「静粛に」
進行役のフランツ宰相が冷たく遮った。
「発言の許可があるまで、被告人は沈黙を守るように。……では、条約の読み上げに移ります」
フランツが羊皮紙を広げ、淡々と条文を読み上げ始めた。 それは、王国にとって屈辱的とも言える内容だった。
一、ルミナス王国は帝国の保護国となり、外交権および軍事権を放棄する。 一、王国のインフラ管理権は、今後百年間、帝国魔導省に委譲される。 一、王国は帝国に対し、今回の騒乱に対する賠償金として金貨百万枚を支払う(ただし、分割および現物支給を認める)。 一、元凶となったアルフォンス元王子の身柄は、帝国の法に基づいて裁かれる。
会場の王国代表団たちは、項垂れて震えている。 反論などできるはずもない。彼らは生殺与奪の権を握られているのだから。
「……以上。王国代表、異存はあるか?」
ジークハルトが問いかける。 暫定政府の代表である老人が、涙ながらに答えた。
「い、異存は……ございません。慈悲深きご提案、感謝いたします……」
屈服。完全なる敗北宣言。 これで全てが終わる。 そう思った、その時だった。
「待てェェェェッ!!」
アルフォンスが叫んだ。 彼は枷のついた両手で机をバン!と叩き、立ち上がった。
「認めん! 私は認めんぞ! こんな不平等条約!」 「……座れ」
ジークハルトが冷たく言ったが、アルフォンスは止まらなかった。 彼は血走った目で周囲を睨み回した。
「貴様ら、騙されるな! 帝国は我々の国を乗っ取るつもりだ! インフラ管理権? ふざけるな! それは我が国の心臓部だぞ! それを奪われたら、我々は帝国の奴隷も同然じゃないか!」
彼の言っていることは、ある意味では正しい。 しかし、その状況を招いたのが誰なのか、彼は決定的に忘れていた。
「そもそも! 私がこんな目に遭っているのは陰謀だ! 横領の罪? あれは部下が勝手にやったことだ! 私は何も知らなかった! 私は嵌められたんだ!」
彼は唾を飛ばして喚き散らす。 会場の人々は、軽蔑を通り越して呆れの表情で彼を見ていた。 自分の責任を一切認めず、他人に転嫁する。 その醜悪な精神性が、公衆の面前で露呈していた。
「そして! リーゼロッテ!」
彼は突然、ターゲットを私に変えた。 身を乗り出し、懇願するように手を伸ばしてくる。
「君も騙されているんだ! その男……皇帝は、君を利用しているだけだ! 君の魔導技術を搾取するために、甘い言葉で洗脳しているんだ!」
会場がざわめく。 不敬にも程がある発言だ。 ジークハルトの眉がピクリと動いた。周囲の温度が急激に下がり始める。
「目を覚ませ、リーゼロッテ! 君が愛しているのは私だろう? 私たちは幼い頃から一緒だったじゃないか! 君はいつも私の後ろをついてきて、私のために尽くしてくれた!」
アルフォンスは陶酔したように語り続けた。
「あの楽しかった日々を忘れたのか? 君が夜遅くまで私の書類を手伝ってくれたこと。私が失敗した時、君が必死でカバーしてくれたこと。……あれこそが愛だ! 君は私に必要とされている時が一番輝いていた!」
私の心の中に、冷たい感情が広がっていく。 楽しかった日々? 彼にとってはそうだったかもしれない。 面倒な仕事を全て押し付け、自分は遊び呆け、手柄だけを横取りする。 私にとっては、それは「労働」であり「忍耐」の日々でしかなかった。 それを「愛」だと?
「今ならまだ許してやる! こっちへ来い! 二人でこの腐った状況を覆そう! 君の力があれば、帝国なんて追い払えるはずだ!」
彼は叫んだ。 「戻ってこい、私のリーゼロッテ! 君には私が、王子の隣こそがふさわしい!」
シン……と、会場が静まり返った。 あまりにも身勝手で、あまりにも現実が見えていないその言葉に、誰もが言葉を失っていたのだ。 あるいは、次に起こるであろう皇帝の激怒を恐れて、息を潜めていたのかもしれない。
ジークハルトがゆっくりと立ち上がった。 彼の周囲で、空気がバリバリと音を立てて凍りついていく。 青白い魔力の光が彼の体から溢れ出し、アルフォンスを押し潰そうとしていた。
「……貴様、死にたいようだな」
絶対零度の殺気。 アルフォンスは「ひっ」と悲鳴を上げて椅子にへたり込んだが、それでもまだ口を動かそうとしていた。
私は、ジークハルトのマントの裾を軽く引いた。
「……ジーク。待ってください」 「リーゼロッテ? 止めるな。この汚物を今すぐ浄化してやる」 「いいえ。……私がやります」
私は静かに立ち上がった。 ジークハルトは私の顔を見て、その瞳に宿る決意を感じ取ったのか、不満そうにしながらも魔力を収め、席に戻った。
「……存分にやれ」
私は壇上の端まで進み、眼下のアルフォンスを見下ろした。 彼と視線が合う。 彼は私が前に出てきたことを見て、パァッと顔を輝かせた。
「リーゼロッテ! 分かってくれたか! さあ、私の手を取って……!」
彼は期待に満ちた手を伸ばしてくる。 私はその手を無視し、冷ややかに、しかし会場中に響くクリアな声で言った。
「アルフォンス様。……一つ、訂正させていただきます」
私の声に、アルフォンスがキョトンとした。
「私が貴方の後ろをついて歩いていたのは、貴方が道に迷うからでした。私が貴方の書類を手伝っていたのは、貴方の計算間違いがあまりにも酷くて、国庫が破綻するのを防ぐためでした。……それを『愛』と勘違いされていたとは、驚きです」
会場から、クスクスという失笑が漏れた。 アルフォンスの顔が赤くなる。
「な、なんだと……? 照れているのか? 強がらなくていいんだぞ」 「照れてなどいません。……事実を述べているだけです」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「貴方は言いましたね。『私に必要とされている時が一番輝いていた』と。……それは大きな間違いです」
私は自分の胸に手を当てた。
「私は今、帝国で自分の意志で働き、自分の知識で人々を助け、そして正当な評価を得ています。……今の私は、貴方の影に隠れていたあの頃よりも、ずっと自由で、ずっと輝いています」
「そ、そんなはずはない! 君は私の付属品だ! 私がいなければ君は何の価値もないはずだ!」
彼は錯乱して叫んだ。 付属品。 その言葉が、彼の本音のすべてだった。
「……それが答えですね」
私は哀れむような目で彼を見た。
「貴方は私を一人の人間として見ていなかった。ただの便利な道具、あるいは自分を飾るアクセサリーとしてしか見ていなかった。……だから、貴方は気づかなかったのです。私がどれほど疲弊し、どれほど傷つき、そしてどれほど貴方に絶望していたかを」
「う、嘘だ……。君は笑っていたじゃないか……」 「笑うしかなかったのです。……未来の王妃として、感情を殺して」
私は一歩踏み出した。
「でも、もう終わりです。私は自分の人生を取り戻しました。……アルフォンス様、貴方との婚約は破棄されました。そして今日、私の中の貴方への情も、完全に消滅しました」
「や、やめろ……言うな……!」 「さようなら、アルフォンス・フォン・ラインハルト。……貴方は、貴方が見下していた『帝国の奴隷』としてではなく、自らの無能さが招いた『孤独な裸の王様』として、その罪を償ってください」
私の言葉は、決定的な拒絶として彼に突き刺さった。 アルフォンスは口をパクパクさせ、何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。 彼の構築していた「自分は悲劇のヒーローで、最後にヒロインと結ばれる」という妄想の世界が、音を立てて崩れ去ったのだ。
「あ……あぁ……」
彼は頭を抱え、獣のような唸り声を上げた。 現実を突きつけられた愚者の末路。 会場の人々は、もはや彼を見る目にも嫌悪感すら抱かず、ただ「終わった人間」として無関心に視線を逸らしていた。
私は背を向け、ジークハルトの元へと戻った。 彼は満足げに微笑み、私の手を握った。
「……見事だ、私の皇后」 「ありがとうございます。……少し、スッキリしました」
ジークハルトは立ち上がり、再び会場を見渡した。
「会談を再開する。……ただし、これ以上の雑音は許さん」
彼は指を鳴らした。 衛兵たちがアルフォンスを取り囲み、強制的に退場させようとする。
「いやだ! いやだぁぁぁッ! 私は王子だぞ! リーゼロッテェェェェッ!!」
断末魔のような叫び声を残し、アルフォンスは引きずられていった。 扉が閉まり、彼の声が消える。 会場には、再び厳粛な静寂が戻った。 しかし、その空気は先ほどまでとは違う、清々しいものに変わっていた。
一つの時代が終わり、新しい時代が始まる。 私は隣に座るジークハルトを見上げ、静かに微笑んだ。 彼もまた、優しく微笑み返してくれた。 私たちの手は、固く結ばれていた。
街の至る所に帝国の紋章旗――双頭の氷狼が描かれた旗が掲げられ、空には飛竜騎兵団が旋回している。 表向きは「警備」だが、それは誰の目にも明らかな「威圧」だった。 今日ここで行われるのは対等な外交ではない。勝者による敗者への、慈悲という名の首輪をかける儀式なのだ。
その舞台となるベルン迎賓館の特別控え室で、私は鏡の前に立っていた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、自分の姿を映す。 今日の装いは、ジークハルトが直々に選んだものだ。 帝国の高貴な色とされる漆黒のドレス。しかし喪服のような重苦しさはない。生地には微細な銀糸が織り込まれ、光の加減で星空のように煌めく。 デコルテを美しく見せるスクエアネックと、足元まで流れるようなAラインのシルエット。 飾り立てるのではなく、身に纏う者の品格を際立たせる、洗練されたデザインだった。 髪は高く結い上げられ、そこには「皇帝の婚約者」を示す証として、大粒のサファイアのティアラが輝いている。
鏡の中の私は、かつて王城の片隅で背中を丸めていた「地味な公爵令嬢」ではなかった。 帝国という強大な後ろ盾を得て、自らの足で立つ「一人の女性」の顔をしていた。
「……美しいな」
背後から、感嘆の声が降ってきた。 振り返ると、正装の軍服に身を包んだジークハルトが立っていた。 その胸には数え切れないほどの勲章が飾られ、肩には皇帝のマントが掛けられている。 圧倒的な美貌と、見る者をひれ伏させるカリスマ性。 彼が部屋にいるだけで、空気がピンと張り詰めるようだ。
「準備はいいか、リーゼロッテ」 「はい。……覚悟はできています」
私が答えると、彼は近づいてきて、私の手にキスを落とした。 手袋越しの感触。でも、その温もりは心臓まで届く。
「無理はするなと言いたいところだが……今日ばかりは、存分にやっていい」 「え?」 「あの愚か者に、現実を教えてやるのが今日のメインイベントだからな。……貴様が言葉の刃で刺そうが、氷魔法で凍らせようが、私がすべて許可する」
彼は悪戯っぽく笑った。 その瞳の奥には、私を傷つけた者への冷たい怒りが、まだ消えずに残っている。
「ありがとうございます。……でも、暴力は使いませんよ。言葉だけで十分ですから」 「ふっ、それもまた恐ろしいな。……さあ、行こうか。観客たちが待ちわびている」
彼は右手を差し出した。 私はその腕に手を添える。 エスコートされる腕の頼もしさに、私の心の震えは完全に止まった。
◇
迎賓館の大ホールは、数百名の参加者で埋め尽くされていた。 帝国側の高官、軍人、そして周辺諸国の外交官たち。彼らは皆、華やかな正装に身を包み、余裕のある表情で談笑している。 対照的に、会場の片隅に固まっている一団があった。 王国ルミナスの暫定政府代表団だ。 急ごしらえの代表団には、革命軍のリーダーや、生き残った旧貴族たちが混在しているが、彼らの顔色は一様に悪い。 着ている服も、帝国の煌びやかさに比べれば古臭く、みすぼらしく見えた。 彼らはまるで、屠殺場に連れてこられた羊のように怯えた目で周囲を窺っている。
ファンファーレが鳴り響く。 会場の喧騒がピタリと止み、全員が入り口へと向き直った。
「ガルガディア帝国皇帝、ジークハルト・ヴォルフ・ドラグーン陛下! 並びに、リーゼロッテ・フォン・エーデル様、ご入場でーす!!」
重厚な扉が開かれる。 まばゆい光と共に、私たちが足を踏み入れると、会場中がどよめきとため息に包まれた。
「おお……なんと神々しい」 「あれが噂の『光の魔術師』か。美しい……」 「皇帝陛下とお似合いだ。まるで絵画のようだ」
割れんばかりの拍手が巻き起こる。 私たちは悠然と赤い絨毯の上を歩き、会場最奥に設置された壇上へと向かった。 そこには三つの席が用意されている。 中央に皇帝の席。その右に私の席。 そして、左側の下段に、ポツンと置かれた粗末な椅子が一つ。
私たちは席に着いた。 ジークハルトが軽く手を挙げると、拍手が鳴り止み、静寂が支配する。
「……これより、戦後処理会談を始める」
彼の低い声は、マイクも使っていないのに会場の隅々まで響き渡った。
「まずは、今回の紛争の主犯であり、王国崩壊の元凶となった人物を入廷させる。……連れてこい」
彼の合図で、反対側の小さな扉が開いた。 ガシャン、ガシャン、と鎖を引きずる音が聞こえてくる。 会場の空気が一気に冷えた。 侮蔑と、好奇心と、そして哀れみの視線が注がれる中、その男は姿を現した。
アルフォンス・フォン・ラインハルト。 かつての第一王子。 彼の手足には魔封じの枷が嵌められ、両脇を屈強な帝国兵に抱えられている。 着ているのは囚人服ではなく、かつて彼が愛用していた王族の正装だった。しかし、それは何日も洗濯されていないようで薄汚れ、あちこちが擦り切れている。金糸の刺繍もほつれ、かつての栄光の残骸のようだった。
彼はよろめきながら、引きずられるようにして歩いてきた。 その顔色は土気色で、頬はこけ、目の下には濃い隈ができている。 しかし、その瞳だけは異様にギラギラと輝いていた。
「……離せ! 私は歩ける!」
彼は兵士の手を振りほどこうと暴れたが、ビクともしない。 そのまま壇上の前まで連行され、粗末な椅子に座らされた。
彼は荒い息を吐きながら顔を上げ、そして私たちを見た。 正確には、私だけを見た。
「……リーゼ、ロッテ……」
彼の唇が震えた。 その目が見開かれ、私の全身を舐め回すように凝視する。 漆黒のドレスに身を包み、宝石のように輝く私。 その姿を見た瞬間、彼の瞳に「恍惚」とも「執着」ともつかない、粘着質な光が宿った。
(……ああ、やっぱり。やっぱり君は美しい) (そのドレスも、宝石も、すべて私のために着飾ってくれたんだね?) (君は待っていたんだ。私が迎えに来るのを)
彼の心の声が聞こえてくるようだった。 現実と妄想の区別がつかなくなっている。 彼はニタリと笑い、口を開こうとした。
「静粛に」
進行役のフランツ宰相が冷たく遮った。
「発言の許可があるまで、被告人は沈黙を守るように。……では、条約の読み上げに移ります」
フランツが羊皮紙を広げ、淡々と条文を読み上げ始めた。 それは、王国にとって屈辱的とも言える内容だった。
一、ルミナス王国は帝国の保護国となり、外交権および軍事権を放棄する。 一、王国のインフラ管理権は、今後百年間、帝国魔導省に委譲される。 一、王国は帝国に対し、今回の騒乱に対する賠償金として金貨百万枚を支払う(ただし、分割および現物支給を認める)。 一、元凶となったアルフォンス元王子の身柄は、帝国の法に基づいて裁かれる。
会場の王国代表団たちは、項垂れて震えている。 反論などできるはずもない。彼らは生殺与奪の権を握られているのだから。
「……以上。王国代表、異存はあるか?」
ジークハルトが問いかける。 暫定政府の代表である老人が、涙ながらに答えた。
「い、異存は……ございません。慈悲深きご提案、感謝いたします……」
屈服。完全なる敗北宣言。 これで全てが終わる。 そう思った、その時だった。
「待てェェェェッ!!」
アルフォンスが叫んだ。 彼は枷のついた両手で机をバン!と叩き、立ち上がった。
「認めん! 私は認めんぞ! こんな不平等条約!」 「……座れ」
ジークハルトが冷たく言ったが、アルフォンスは止まらなかった。 彼は血走った目で周囲を睨み回した。
「貴様ら、騙されるな! 帝国は我々の国を乗っ取るつもりだ! インフラ管理権? ふざけるな! それは我が国の心臓部だぞ! それを奪われたら、我々は帝国の奴隷も同然じゃないか!」
彼の言っていることは、ある意味では正しい。 しかし、その状況を招いたのが誰なのか、彼は決定的に忘れていた。
「そもそも! 私がこんな目に遭っているのは陰謀だ! 横領の罪? あれは部下が勝手にやったことだ! 私は何も知らなかった! 私は嵌められたんだ!」
彼は唾を飛ばして喚き散らす。 会場の人々は、軽蔑を通り越して呆れの表情で彼を見ていた。 自分の責任を一切認めず、他人に転嫁する。 その醜悪な精神性が、公衆の面前で露呈していた。
「そして! リーゼロッテ!」
彼は突然、ターゲットを私に変えた。 身を乗り出し、懇願するように手を伸ばしてくる。
「君も騙されているんだ! その男……皇帝は、君を利用しているだけだ! 君の魔導技術を搾取するために、甘い言葉で洗脳しているんだ!」
会場がざわめく。 不敬にも程がある発言だ。 ジークハルトの眉がピクリと動いた。周囲の温度が急激に下がり始める。
「目を覚ませ、リーゼロッテ! 君が愛しているのは私だろう? 私たちは幼い頃から一緒だったじゃないか! 君はいつも私の後ろをついてきて、私のために尽くしてくれた!」
アルフォンスは陶酔したように語り続けた。
「あの楽しかった日々を忘れたのか? 君が夜遅くまで私の書類を手伝ってくれたこと。私が失敗した時、君が必死でカバーしてくれたこと。……あれこそが愛だ! 君は私に必要とされている時が一番輝いていた!」
私の心の中に、冷たい感情が広がっていく。 楽しかった日々? 彼にとってはそうだったかもしれない。 面倒な仕事を全て押し付け、自分は遊び呆け、手柄だけを横取りする。 私にとっては、それは「労働」であり「忍耐」の日々でしかなかった。 それを「愛」だと?
「今ならまだ許してやる! こっちへ来い! 二人でこの腐った状況を覆そう! 君の力があれば、帝国なんて追い払えるはずだ!」
彼は叫んだ。 「戻ってこい、私のリーゼロッテ! 君には私が、王子の隣こそがふさわしい!」
シン……と、会場が静まり返った。 あまりにも身勝手で、あまりにも現実が見えていないその言葉に、誰もが言葉を失っていたのだ。 あるいは、次に起こるであろう皇帝の激怒を恐れて、息を潜めていたのかもしれない。
ジークハルトがゆっくりと立ち上がった。 彼の周囲で、空気がバリバリと音を立てて凍りついていく。 青白い魔力の光が彼の体から溢れ出し、アルフォンスを押し潰そうとしていた。
「……貴様、死にたいようだな」
絶対零度の殺気。 アルフォンスは「ひっ」と悲鳴を上げて椅子にへたり込んだが、それでもまだ口を動かそうとしていた。
私は、ジークハルトのマントの裾を軽く引いた。
「……ジーク。待ってください」 「リーゼロッテ? 止めるな。この汚物を今すぐ浄化してやる」 「いいえ。……私がやります」
私は静かに立ち上がった。 ジークハルトは私の顔を見て、その瞳に宿る決意を感じ取ったのか、不満そうにしながらも魔力を収め、席に戻った。
「……存分にやれ」
私は壇上の端まで進み、眼下のアルフォンスを見下ろした。 彼と視線が合う。 彼は私が前に出てきたことを見て、パァッと顔を輝かせた。
「リーゼロッテ! 分かってくれたか! さあ、私の手を取って……!」
彼は期待に満ちた手を伸ばしてくる。 私はその手を無視し、冷ややかに、しかし会場中に響くクリアな声で言った。
「アルフォンス様。……一つ、訂正させていただきます」
私の声に、アルフォンスがキョトンとした。
「私が貴方の後ろをついて歩いていたのは、貴方が道に迷うからでした。私が貴方の書類を手伝っていたのは、貴方の計算間違いがあまりにも酷くて、国庫が破綻するのを防ぐためでした。……それを『愛』と勘違いされていたとは、驚きです」
会場から、クスクスという失笑が漏れた。 アルフォンスの顔が赤くなる。
「な、なんだと……? 照れているのか? 強がらなくていいんだぞ」 「照れてなどいません。……事実を述べているだけです」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「貴方は言いましたね。『私に必要とされている時が一番輝いていた』と。……それは大きな間違いです」
私は自分の胸に手を当てた。
「私は今、帝国で自分の意志で働き、自分の知識で人々を助け、そして正当な評価を得ています。……今の私は、貴方の影に隠れていたあの頃よりも、ずっと自由で、ずっと輝いています」
「そ、そんなはずはない! 君は私の付属品だ! 私がいなければ君は何の価値もないはずだ!」
彼は錯乱して叫んだ。 付属品。 その言葉が、彼の本音のすべてだった。
「……それが答えですね」
私は哀れむような目で彼を見た。
「貴方は私を一人の人間として見ていなかった。ただの便利な道具、あるいは自分を飾るアクセサリーとしてしか見ていなかった。……だから、貴方は気づかなかったのです。私がどれほど疲弊し、どれほど傷つき、そしてどれほど貴方に絶望していたかを」
「う、嘘だ……。君は笑っていたじゃないか……」 「笑うしかなかったのです。……未来の王妃として、感情を殺して」
私は一歩踏み出した。
「でも、もう終わりです。私は自分の人生を取り戻しました。……アルフォンス様、貴方との婚約は破棄されました。そして今日、私の中の貴方への情も、完全に消滅しました」
「や、やめろ……言うな……!」 「さようなら、アルフォンス・フォン・ラインハルト。……貴方は、貴方が見下していた『帝国の奴隷』としてではなく、自らの無能さが招いた『孤独な裸の王様』として、その罪を償ってください」
私の言葉は、決定的な拒絶として彼に突き刺さった。 アルフォンスは口をパクパクさせ、何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。 彼の構築していた「自分は悲劇のヒーローで、最後にヒロインと結ばれる」という妄想の世界が、音を立てて崩れ去ったのだ。
「あ……あぁ……」
彼は頭を抱え、獣のような唸り声を上げた。 現実を突きつけられた愚者の末路。 会場の人々は、もはや彼を見る目にも嫌悪感すら抱かず、ただ「終わった人間」として無関心に視線を逸らしていた。
私は背を向け、ジークハルトの元へと戻った。 彼は満足げに微笑み、私の手を握った。
「……見事だ、私の皇后」 「ありがとうございます。……少し、スッキリしました」
ジークハルトは立ち上がり、再び会場を見渡した。
「会談を再開する。……ただし、これ以上の雑音は許さん」
彼は指を鳴らした。 衛兵たちがアルフォンスを取り囲み、強制的に退場させようとする。
「いやだ! いやだぁぁぁッ! 私は王子だぞ! リーゼロッテェェェェッ!!」
断末魔のような叫び声を残し、アルフォンスは引きずられていった。 扉が閉まり、彼の声が消える。 会場には、再び厳粛な静寂が戻った。 しかし、その空気は先ほどまでとは違う、清々しいものに変わっていた。
一つの時代が終わり、新しい時代が始まる。 私は隣に座るジークハルトを見上げ、静かに微笑んだ。 彼もまた、優しく微笑み返してくれた。 私たちの手は、固く結ばれていた。
14
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢の逆襲
すけさん
恋愛
断罪される1年前に前世の記憶が甦る!
前世は三十代の子持ちのおばちゃんだった。
素行は悪かった悪役令嬢は、急におばちゃんチックな思想が芽生え恋に友情に新たな一面を見せ始めた事で、断罪を回避するべく奮闘する!
悪役令嬢ですが、兄たちが過保護すぎて恋ができません
由香
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢・セレフィーナに転生した私。
破滅回避のため、目立たず静かに生きる――はずだった。
しかし現実は、三人の兄による全力溺愛&完全監視生活。
外出には護衛、交友関係は管理制、笑顔すら規制対象!?
さらに兄の親友である最強騎士・カインが護衛として加わり、
静かで誠実な優しさに、次第に心が揺れていく。
「恋をすると破滅する」
そう信じて避けてきた想いの先で待っていたのは、
断罪も修羅場もない、安心で騒がしい未来だった――。
仮面王の花嫁〜婚約破棄された薄幸令嬢は仮面の王に愛される〜
松雪
恋愛
婚約者を腹違いの妹に奪われ、新しい相手も見つからず修道院に行く覚悟を決めたルチア。修道女となるため髪を切った日の夜、王城から「国王がルチアを妻に望んでいる」という書簡を持った使者がやって来た。
しかし、従兄弟であり恋仲だったニールが国王のせいで死に至った過去を持つルチアは、国王からの求婚を喜べずーー。
逃げたい悪役令嬢と、逃がさない王子
ねむたん
恋愛
セレスティーナ・エヴァンジェリンは今日も王宮の廊下を静かに歩きながら、ちらりと視線を横に流した。白いドレスを揺らし、愛らしく微笑むアリシア・ローゼンベルクの姿を目にするたび、彼女の胸はわずかに弾む。
(その調子よ、アリシア。もっと頑張って! あなたがしっかり王子を誘惑してくれれば、私は自由になれるのだから!)
期待に満ちた瞳で、影からこっそり彼女の奮闘を見守る。今日こそレオナルトがアリシアの魅力に落ちるかもしれない——いや、落ちてほしい。
地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです
阿里
恋愛
「君は地味で、将来の役に立たない」
そう言われ、幼なじみの婚約者にあっさり捨てられた侯爵令嬢の私。
社交界でも忘れ去られ、同情だけを向けられる日々の中、私は王宮の文官補佐として働き始める。
そこで出会ったのは、権力争いを嫌う変わり者の王弟殿下。
過去も噂も問わず、ただ仕事だけを見て評価してくれる彼の隣で、私は静かに居場所を見つけていく。
そして暴かれる不正。転落していく元婚約者。
「君が隣にいない宮廷は退屈だ」
これは、選ばれなかった私が、必要とされる私になる物語。
婚約破棄された堅物令嬢ですが、鬼の騎士団長の娘として宮廷の陰謀を暴くのに忙しいので、美貌のカストラート(実は王子)に溺愛される暇はありません
綾森れん
恋愛
「お前のような真面目くさった女はいらない。婚約は破棄させてもらう!」
婚約者だった公爵令息に冷酷に言い放たれたリラ・プリマヴェーラ。
だが、彼女の心にあったのは悲しみではなく―― 十年前の王族暗殺事件を調査したいという情熱だった。
伯爵令嬢であるリラは、鉄の掟を守る『鬼の騎士団長』の娘。
彼女には恋よりも何よりも優先すべき使命があった。それは、十年前に幼い王子が暗殺された事件の真相を暴き、父を、そして王国を陰謀から救うこと。
婚約破棄直後、彼女の前に現れたのは、天使の歌声を持つ美貌のカストラート(去勢歌手)、アルカンジェロだった。
彼が十年前の事件について密かに調べていることを、リラは知ってしまう。
真相を探るため、リラは彼を自分の音楽教師として迎え入れ、距離を縮めていく。
事件解決の協力者として彼と接するうち、リラは謎めいたアルカンジェロに危機を救われることになる。
しかし、リラは知らない。
アルカンジェロの正体が、十年前に暗殺されたはずの第三王子であることを。
そして彼にとってリラこそが、初恋の女性であることを。
彼は十年間、密かにリラを想い続けていたのだ。
王位を狙う者たちから身を隠すため、声楽の技術を駆使して、教会歌手として大聖堂で生き延びてきたアルカンジェロだったが、王家を巡る不穏な陰謀が静かに動き始めていた。
捜査に猪突猛進な堅物令嬢と、彼女を影から支え執着を見せる、カストラート歌手のふりをした王子。
宮廷の闇を切り裂く二人の恋と事件の行方は――?
※本作は、過去に投稿していた『真面目くさった女はいらないと婚約破棄された伯爵令嬢ですが、王太子様に求婚されました。実はかわいい彼の溺愛っぷりに困っています』の設定・キャラクター・構成を大幅に改稿し、新作として再構成したものです。
物語の結末やキャラクターの掘り下げを強化しておりますので、初めての方も、以前お読みいただいた方もお楽しみいただけます。
悪役令嬢ベアトリスの仁義なき恩返し~悪女の役目は終えましたのであとは好きにやらせていただきます~
糸烏 四季乃
恋愛
「ベアトリス・ガルブレイス公爵令嬢との婚約を破棄する!」
「殿下、その言葉、七年お待ちしておりました」
第二皇子の婚約者であるベアトリスは、皇子の本気の恋を邪魔する悪女として日々蔑ろにされている。しかし皇子の護衛であるナイジェルだけは、いつもベアトリスの味方をしてくれていた。
皇子との婚約が解消され自由を手に入れたベアトリスは、いつも救いの手を差し伸べてくれたナイジェルに恩返しを始める! ただ、長年悪女を演じてきたベアトリスの物事の判断基準は、一般の令嬢のそれとかなりズレている為になかなかナイジェルに恩返しを受け入れてもらえない。それでもどうしてもナイジェルに恩返しがしたい。このドッキンコドッキンコと高鳴る胸の鼓動を必死に抑え、ベアトリスは今日もナイジェルへの恩返しの為奮闘する!
規格外で少々常識外れの令嬢と、一途な騎士との溺愛ラブコメディ(!?)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる