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第20話「剥がれた嘘の、その先」
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玉座の間を満たしていた狂気的な魔力は、朝日の訪れと共に完全に霧散していた。 崩れ落ちた天井の隙間から差し込む光が、床に散らばる白い造花の残骸を照らし出している。 かつて「楽園」と呼ばれた場所の残滓は、今やただのゴミ屑のようだった。
私は瓦礫の上に座り込み、その光景をぼんやりと眺めていた。 体の震えが止まらない。 恐怖ではない。 全ての魔力を使い果たし、精神を限界まで摩耗させた反動だ。 指先一本動かすのも億劫で、呼吸をするたびに肺が軋むように痛む。
「……終わったのか」
隣に座り込んでいたレオンハルト様が、掠れた声で呟いた。 彼もまた、ボロボロだった。 いつも完璧に整えられていた宰相補佐の制服は破れ、銀髪は煤と血で汚れ、美しい顔にはいくつもの切り傷がある。 でも、その瞳だけは、澄み渡る空のように穏やかだった。
「……はい。終わりました」
私は答えた。 声が出たことが不思議なくらいだ。
部屋の中央では、カミュ団長たちが倒れたセシリアを担架に乗せて運んでいるところだった。 彼女は眠っているように静かだった。 かつて国中を魅了し、欺き、そして支配しようとした希代の悪女の顔には、何の感情も浮かんでいない。 ただの、人形のような無機質な美しさだけが残っていた。
「……リリア嬢! 生きてるか!」
カミュ団長が私たちの元へ駆け寄ってきた。 彼も満身創痍だが、その笑顔は太陽のように明るい。
「何とか……。騎士団の方々は?」 「ジェイクも含めて、全員無事だ。洗脳も解けた。……今はみんな、泣きながらお互いを殴り合って仲直りしてるよ」
カミュ団長が豪快に笑う。 その声に、私は心の底から安堵した。 誰も死ななかった。 あの絶望的な状況の中で、私たちは奇跡的に全員で朝を迎えることができたのだ。
「……帰ろう、リリア」
レオンハルト様が立ち上がり、私に手を差し伸べた。 私はその手を取り、最後の力を振り絞って立ち上がった。
窓の外を見下ろすと、王都からは黒い霧が完全に晴れ、煙突から炊事の煙が立ち上り始めていた。 日常が戻ってくる。 嘘で塗り固められた「幸福な夢」ではなく、不格好で、泥臭くて、でも愛おしい現実が。
◇
それから一ヶ月。 王都は、復興と清算の季節を迎えていた。
セシリア・アルヴェインによる「国家転覆未遂事件」と、それに伴う大規模な洗脳騒動は、歴史に残る大事件として記録された。 だが、混乱は予想よりも早く収束した。 洗脳が解けた人々は、自分が何をしていたかを思い出し、恐怖し、そして深く反省した。 「楽して幸せになりたい」という心の隙間が、あの悪夢を招き入れたのだと、誰もが理解したからだ。
私は、王宮の監査官として、その事後処理に追われる日々を送っていた。 休む暇などない。 むしろ、事件の時以上に忙しかったかもしれない。
まず、父ジェラルド・アルヴェイン。 彼は貴族院での審問の結果、全ての爵位と領地を剥奪され、北方の修道院へ幽閉されることが決まった。 アルヴェイン家は断絶。 屋敷も財産も没収された。 父は最後、私に会いたいと懇願したそうだが、私は断った。 印章庫に残されたメモ。あれが父としての最後の言葉だ。 それ以上、言葉を交わす必要はない。 私たちはもう、ただの他人なのだから。
次に、ミランダ侯爵令嬢。 彼女は実家の領地で謹慎処分となった。 だが、別れ際、彼女は私に手紙を寄越してきた。 『いつか、自分の力で本当の宝石を買えるようになったら、またお茶会に誘いますわ。……その時は、安い茶葉で我慢して差し上げます』 相変わらずの高飛車な文面だったが、そこには以前のような毒気はなかった。 彼女なりに、自分の足で立ち上がろうとしているのだろう。
そして、トーマス・ガレオン。 彼は商会を解散させ、私財を投じて被害者への補償を行った。 「一からやり直します」と言った彼の目は、憑き物が落ちたように澄んでいた。 小さな雑貨屋からの再出発だそうだが、きっと彼なら誠実な商売ができるだろう。
帝国のギルバートは処刑され、アレクサンダー王子に関しては、正式な抗議文と共に「国交断絶」に近い厳しい措置が取られた。 魔石という証拠を握られている帝国側は、沈黙するしかなかった。 当面の間、彼らが牙を剥くことはないだろう。
そして、今日。 私は全ての処理を終え、最後の「仕事」に向かおうとしていた。
王宮の離れにある、特別医療棟。 重度の精神疾患を患った囚人が収容される、白い壁に囲まれた静かな場所。 そこに、姉セシリアがいる。
「……入ります」
衛兵に告げ、私は鍵のかかった病室に入った。 部屋の中は清潔で、窓からは中庭の緑が見える。 鉄格子はないが、魔法的な結界で厳重に封鎖されていた。
セシリアは、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。 私が近づいても、こちらの存在に気づかない。 その視線は、虚空の一点を見つめたまま固定されている。
「……お姉様」
私が呼びかけると、彼女はゆっくりと首を動かした。 目が合う。 だが、その瞳には私が映っていなかった。 光を失ったガラス玉のような目。
「……あ、チョウチョ」
彼女は窓の外を指差して、ふふっと笑った。 無邪気な、幼子の笑み。
「見て、綺麗よ。……わたくしのドレスみたい」 「……ええ、そうですね」
私は淡々と答えた。 医師の診断によれば、彼女の精神は完全に崩壊しているという。 魔石の逆流による負荷と、自らが作り上げた虚構の世界が壊れたショックで、自我が砕け散ってしまったのだ。 今の彼女は、記憶も、知性も、罪の意識さえも持たない、ただの抜け殻だ。 あるいは、幼少期の幸せだった記憶の中に逃げ込んでしまったのかもしれない。
「ねえ、リリア」
不意に、彼女が私の名を呼んだ。 心臓が跳ねる。 記憶が戻ったのか?
「リリアはどこ? ……さっきまで一緒に遊んでいたのに。かくれんぼかしら?」
彼女はキョロキョロと部屋の中を探し始めた。 目の前にいる私が、リリアだとは認識できていない。 彼女の中の「リリア」は、自分を慕って後ろをついてくる、幼い妹のままなのだ。
「リリアは……もういません」
私は静かに告げた。
「彼女は大人になりました。……もう、貴女の後ろをついて歩くことはありません」
「そう……残念ね」
セシリアはすぐに興味を失ったように、また窓の外の蝶を眺め始めた。 彼女の世界は、この小さな部屋と、窓の外の景色だけで完結している。 そこには野心も、嘘も、他者を踏みにじる欲望もない。 ただ、永遠に続く穏やかな時間だけがある。
これが、彼女が望んだ「幸福な世界」の末路なのかもしれない。 誰も傷つけず、誰にも傷つけられない、孤独な楽園。
「……さようなら、セシリア」
私は彼女に背を向けた。 憎しみは消えていた。 同情もない。 ただ、深い哀れみと、そして明確な「決別」の意志だけがあった。 彼女はここに残り、私は行く。 二人の道は、もう二度と交わることはない。
部屋を出て、扉を閉める。 カチリ、という施錠の音が、私と過去を隔てる最後の区切りの音となった。
◇
医療棟を出ると、レオンハルト様が待っていた。 彼はいつもの宰相補佐の制服を着て、壁に寄りかかって本を読んでいたが、私が出てくるとすぐに顔を上げた。
「……済んだか」 「はい」
私は大きく伸びをした。 肩に乗っていた重荷が、すっと消えていくのを感じる。
「これで、本当に全部終わりです。……私の復讐も、監査も」 「そうか」
彼は本を閉じ、私に歩み寄った。
「では、次は『未来』の話をしよう。……王妃陛下がお待ちだ」
私たちは並んで歩き出した。 向かう先は、王妃宮の謁見室。
謁見室には、王妃エレオノーラ陛下が玉座に座り、その傍らにはカミュ団長も控えていた。 私が跪くと、王妃陛下は柔らかな声で仰った。
「面を上げなさい、リリア」
顔を上げると、陛下は慈愛に満ちた瞳で私を見つめていた。 それは姉が演じていた偽物の聖女の顔とは違う、本物の「母」のような眼差しだった。
「この度の働き、見事でした。……貴女がいなければ、この国は内側から腐り落ち、帝国の属国となっていたでしょう」 「もったいないお言葉です。私はただ、数字のズレを正したに過ぎません」 「その『ズレ』を見逃さなかったことが、何よりの功績です」
王妃陛下は侍従から一本の剣と、真新しい記章を受け取り、私の前に差し出した。
「リリア・アルヴェイン。……いいえ、アルヴェインの名はもうありませんね」
陛下は微笑んだ。
「貴女に、新たな爵位『男爵』と、家名『ヴェルメリオ』を授けます。……『真実の赤』を意味する名です」 「ヴェルメリオ……」
「そして、正式に『王宮主席監査官』の地位を任命します。……これからは臨時ではなく、国の守護者として、その眼力を振るいなさい」
主席監査官。 それは、会計院のトップに並ぶ権限を持つ、異例の大出世だ。 貴族社会において、後ろ盾のない女性がこの地位に就くことは前代未聞だろう。 だが、今の私に躊躇いはなかった。
「……謹んで、お受けいたします」
私は深く頭を下げ、記章を受け取った。 重い。 だが、心地よい重みだ。 これは誰かに与えられた「飾りの宝石」ではない。 私が自分の手で掴み取った「責任と信頼の証」だ。
「……それと」
王妃陛下が悪戯っぽく目を細めた。 視線が、私の隣に立つレオンハルト様に向けられる。
「レオンハルト。……貴方からも、何か言うことがあるのではなくて?」 「……陛下」
レオンハルト様が気まずそうに咳払いをした。 カミュ団長がニヤニヤしながら小突く。 「ほら、行けよ色男。……ここで決めなきゃ男が廃るぜ?」
レオンハルト様は観念したようにため息をつき、そして私に向き直った。 その表情は、どんな難解な国政問題を前にした時よりも真剣で、そして緊張していた。
「リリア」 「はい」
「私は……不器用な男だ。仕事しか能がなく、言葉も足りない。……君を危険な目に遭わせ、傷つけたこともある」
彼は私の左手を取った。 包帯は取れたが、まだ薄く残る魔石の傷跡。 彼はその傷跡を、愛おしそうに指でなぞった。
「だが、君がいない世界は……もう考えられない」
心臓が跳ねる。 周囲の音が消え、彼の声だけが響く。
「君の強さが好きだ。君の聡明さが好きだ。……泥にまみれても真実を追い求める、その瞳が好きだ」
彼は私の前に片膝をつき、私の手の甲に口づけた。
「リリア・ヴェルメリオ。……私の妻になってくれないか。……公私共に、私のパートナーとして、隣にいてほしい」
プロポーズ。 氷の宰相補佐からの、一生分の熱量を込めた告白。
涙が溢れた。 今までのどんな涙よりも熱く、甘い涙。 私は何度も頷いた。
「……はい。……喜んで」
言葉にならない。 喉が詰まる。 でも、伝えたいことは一つだけだ。
「私も……貴方が大好きです。……ずっと、お傍にいさせてください」
レオンハルト様が立ち上がり、私を強く抱きしめた。 会場から、王妃陛下とカミュ団長、そして居合わせた騎士たちからの温かい拍手が湧き起こる。 それは、かつて姉に向けられていた虚構の拍手とは違う。 私たちの未来を祝福する、本物の音色だった。
◇
数日後。 私は新しい執務室の窓辺に立っていた。 『主席監査官室』のプレートが輝く扉。 机の上には、山積みの書類と、レオンハルト様から贈られた青いインク壺が置かれている。
窓の外には、美しい王都の街並みが広がっていた。 市場を行き交う人々の声。 広場で遊ぶ子供たちの笑い声。 そこには、姉が作ろうとした「傷のない楽園」はない。 誰かが誰かと喧嘩し、泣き、そして仲直りして笑う。 不完全で、騒々しくて、でも体温のある世界。
「……リリア、行くぞ」
扉が開き、レオンハルト様が入ってきた。 今日は二人で、地方の視察に向かう予定だ。 新しい不正の芽がないか、そして、復興が正しく行われているかを確認するために。
「はい、今行きます」
私は手帳を閉じ、鞄を手に取った。 手帳の最後のページには、私が自分で書き加えた言葉がある。
『今日剥がれた嘘:ゼロ。……だって、ここは私が選んだ、嘘のない場所だから』
私はレオンハルト様の元へと駆け寄った。 彼が自然に手を差し出し、私がその手を握る。 二人の薬指には、お揃いの銀の指輪が光っていた。
「準備はいいか?」 「はい、完璧です」
私たちは顔を見合わせて微笑み、扉を開けて廊下へと踏み出した。
かつて、私は全てを奪われた。 家も、名誉も、家族も。 でも、今は違う。 私は取り戻し、そして手に入れた。 自分の名前を。自分の仕事を。そして、心から愛せる人を。
私はもう、奪われる人生を生きない。 これからは、自分で選び、自分で歩き、大切なものをこの手で守り抜く。
さあ、行こう。 嘘の皮が剥がれ落ちた、この眩しい世界へ。
(完)
私は瓦礫の上に座り込み、その光景をぼんやりと眺めていた。 体の震えが止まらない。 恐怖ではない。 全ての魔力を使い果たし、精神を限界まで摩耗させた反動だ。 指先一本動かすのも億劫で、呼吸をするたびに肺が軋むように痛む。
「……終わったのか」
隣に座り込んでいたレオンハルト様が、掠れた声で呟いた。 彼もまた、ボロボロだった。 いつも完璧に整えられていた宰相補佐の制服は破れ、銀髪は煤と血で汚れ、美しい顔にはいくつもの切り傷がある。 でも、その瞳だけは、澄み渡る空のように穏やかだった。
「……はい。終わりました」
私は答えた。 声が出たことが不思議なくらいだ。
部屋の中央では、カミュ団長たちが倒れたセシリアを担架に乗せて運んでいるところだった。 彼女は眠っているように静かだった。 かつて国中を魅了し、欺き、そして支配しようとした希代の悪女の顔には、何の感情も浮かんでいない。 ただの、人形のような無機質な美しさだけが残っていた。
「……リリア嬢! 生きてるか!」
カミュ団長が私たちの元へ駆け寄ってきた。 彼も満身創痍だが、その笑顔は太陽のように明るい。
「何とか……。騎士団の方々は?」 「ジェイクも含めて、全員無事だ。洗脳も解けた。……今はみんな、泣きながらお互いを殴り合って仲直りしてるよ」
カミュ団長が豪快に笑う。 その声に、私は心の底から安堵した。 誰も死ななかった。 あの絶望的な状況の中で、私たちは奇跡的に全員で朝を迎えることができたのだ。
「……帰ろう、リリア」
レオンハルト様が立ち上がり、私に手を差し伸べた。 私はその手を取り、最後の力を振り絞って立ち上がった。
窓の外を見下ろすと、王都からは黒い霧が完全に晴れ、煙突から炊事の煙が立ち上り始めていた。 日常が戻ってくる。 嘘で塗り固められた「幸福な夢」ではなく、不格好で、泥臭くて、でも愛おしい現実が。
◇
それから一ヶ月。 王都は、復興と清算の季節を迎えていた。
セシリア・アルヴェインによる「国家転覆未遂事件」と、それに伴う大規模な洗脳騒動は、歴史に残る大事件として記録された。 だが、混乱は予想よりも早く収束した。 洗脳が解けた人々は、自分が何をしていたかを思い出し、恐怖し、そして深く反省した。 「楽して幸せになりたい」という心の隙間が、あの悪夢を招き入れたのだと、誰もが理解したからだ。
私は、王宮の監査官として、その事後処理に追われる日々を送っていた。 休む暇などない。 むしろ、事件の時以上に忙しかったかもしれない。
まず、父ジェラルド・アルヴェイン。 彼は貴族院での審問の結果、全ての爵位と領地を剥奪され、北方の修道院へ幽閉されることが決まった。 アルヴェイン家は断絶。 屋敷も財産も没収された。 父は最後、私に会いたいと懇願したそうだが、私は断った。 印章庫に残されたメモ。あれが父としての最後の言葉だ。 それ以上、言葉を交わす必要はない。 私たちはもう、ただの他人なのだから。
次に、ミランダ侯爵令嬢。 彼女は実家の領地で謹慎処分となった。 だが、別れ際、彼女は私に手紙を寄越してきた。 『いつか、自分の力で本当の宝石を買えるようになったら、またお茶会に誘いますわ。……その時は、安い茶葉で我慢して差し上げます』 相変わらずの高飛車な文面だったが、そこには以前のような毒気はなかった。 彼女なりに、自分の足で立ち上がろうとしているのだろう。
そして、トーマス・ガレオン。 彼は商会を解散させ、私財を投じて被害者への補償を行った。 「一からやり直します」と言った彼の目は、憑き物が落ちたように澄んでいた。 小さな雑貨屋からの再出発だそうだが、きっと彼なら誠実な商売ができるだろう。
帝国のギルバートは処刑され、アレクサンダー王子に関しては、正式な抗議文と共に「国交断絶」に近い厳しい措置が取られた。 魔石という証拠を握られている帝国側は、沈黙するしかなかった。 当面の間、彼らが牙を剥くことはないだろう。
そして、今日。 私は全ての処理を終え、最後の「仕事」に向かおうとしていた。
王宮の離れにある、特別医療棟。 重度の精神疾患を患った囚人が収容される、白い壁に囲まれた静かな場所。 そこに、姉セシリアがいる。
「……入ります」
衛兵に告げ、私は鍵のかかった病室に入った。 部屋の中は清潔で、窓からは中庭の緑が見える。 鉄格子はないが、魔法的な結界で厳重に封鎖されていた。
セシリアは、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。 私が近づいても、こちらの存在に気づかない。 その視線は、虚空の一点を見つめたまま固定されている。
「……お姉様」
私が呼びかけると、彼女はゆっくりと首を動かした。 目が合う。 だが、その瞳には私が映っていなかった。 光を失ったガラス玉のような目。
「……あ、チョウチョ」
彼女は窓の外を指差して、ふふっと笑った。 無邪気な、幼子の笑み。
「見て、綺麗よ。……わたくしのドレスみたい」 「……ええ、そうですね」
私は淡々と答えた。 医師の診断によれば、彼女の精神は完全に崩壊しているという。 魔石の逆流による負荷と、自らが作り上げた虚構の世界が壊れたショックで、自我が砕け散ってしまったのだ。 今の彼女は、記憶も、知性も、罪の意識さえも持たない、ただの抜け殻だ。 あるいは、幼少期の幸せだった記憶の中に逃げ込んでしまったのかもしれない。
「ねえ、リリア」
不意に、彼女が私の名を呼んだ。 心臓が跳ねる。 記憶が戻ったのか?
「リリアはどこ? ……さっきまで一緒に遊んでいたのに。かくれんぼかしら?」
彼女はキョロキョロと部屋の中を探し始めた。 目の前にいる私が、リリアだとは認識できていない。 彼女の中の「リリア」は、自分を慕って後ろをついてくる、幼い妹のままなのだ。
「リリアは……もういません」
私は静かに告げた。
「彼女は大人になりました。……もう、貴女の後ろをついて歩くことはありません」
「そう……残念ね」
セシリアはすぐに興味を失ったように、また窓の外の蝶を眺め始めた。 彼女の世界は、この小さな部屋と、窓の外の景色だけで完結している。 そこには野心も、嘘も、他者を踏みにじる欲望もない。 ただ、永遠に続く穏やかな時間だけがある。
これが、彼女が望んだ「幸福な世界」の末路なのかもしれない。 誰も傷つけず、誰にも傷つけられない、孤独な楽園。
「……さようなら、セシリア」
私は彼女に背を向けた。 憎しみは消えていた。 同情もない。 ただ、深い哀れみと、そして明確な「決別」の意志だけがあった。 彼女はここに残り、私は行く。 二人の道は、もう二度と交わることはない。
部屋を出て、扉を閉める。 カチリ、という施錠の音が、私と過去を隔てる最後の区切りの音となった。
◇
医療棟を出ると、レオンハルト様が待っていた。 彼はいつもの宰相補佐の制服を着て、壁に寄りかかって本を読んでいたが、私が出てくるとすぐに顔を上げた。
「……済んだか」 「はい」
私は大きく伸びをした。 肩に乗っていた重荷が、すっと消えていくのを感じる。
「これで、本当に全部終わりです。……私の復讐も、監査も」 「そうか」
彼は本を閉じ、私に歩み寄った。
「では、次は『未来』の話をしよう。……王妃陛下がお待ちだ」
私たちは並んで歩き出した。 向かう先は、王妃宮の謁見室。
謁見室には、王妃エレオノーラ陛下が玉座に座り、その傍らにはカミュ団長も控えていた。 私が跪くと、王妃陛下は柔らかな声で仰った。
「面を上げなさい、リリア」
顔を上げると、陛下は慈愛に満ちた瞳で私を見つめていた。 それは姉が演じていた偽物の聖女の顔とは違う、本物の「母」のような眼差しだった。
「この度の働き、見事でした。……貴女がいなければ、この国は内側から腐り落ち、帝国の属国となっていたでしょう」 「もったいないお言葉です。私はただ、数字のズレを正したに過ぎません」 「その『ズレ』を見逃さなかったことが、何よりの功績です」
王妃陛下は侍従から一本の剣と、真新しい記章を受け取り、私の前に差し出した。
「リリア・アルヴェイン。……いいえ、アルヴェインの名はもうありませんね」
陛下は微笑んだ。
「貴女に、新たな爵位『男爵』と、家名『ヴェルメリオ』を授けます。……『真実の赤』を意味する名です」 「ヴェルメリオ……」
「そして、正式に『王宮主席監査官』の地位を任命します。……これからは臨時ではなく、国の守護者として、その眼力を振るいなさい」
主席監査官。 それは、会計院のトップに並ぶ権限を持つ、異例の大出世だ。 貴族社会において、後ろ盾のない女性がこの地位に就くことは前代未聞だろう。 だが、今の私に躊躇いはなかった。
「……謹んで、お受けいたします」
私は深く頭を下げ、記章を受け取った。 重い。 だが、心地よい重みだ。 これは誰かに与えられた「飾りの宝石」ではない。 私が自分の手で掴み取った「責任と信頼の証」だ。
「……それと」
王妃陛下が悪戯っぽく目を細めた。 視線が、私の隣に立つレオンハルト様に向けられる。
「レオンハルト。……貴方からも、何か言うことがあるのではなくて?」 「……陛下」
レオンハルト様が気まずそうに咳払いをした。 カミュ団長がニヤニヤしながら小突く。 「ほら、行けよ色男。……ここで決めなきゃ男が廃るぜ?」
レオンハルト様は観念したようにため息をつき、そして私に向き直った。 その表情は、どんな難解な国政問題を前にした時よりも真剣で、そして緊張していた。
「リリア」 「はい」
「私は……不器用な男だ。仕事しか能がなく、言葉も足りない。……君を危険な目に遭わせ、傷つけたこともある」
彼は私の左手を取った。 包帯は取れたが、まだ薄く残る魔石の傷跡。 彼はその傷跡を、愛おしそうに指でなぞった。
「だが、君がいない世界は……もう考えられない」
心臓が跳ねる。 周囲の音が消え、彼の声だけが響く。
「君の強さが好きだ。君の聡明さが好きだ。……泥にまみれても真実を追い求める、その瞳が好きだ」
彼は私の前に片膝をつき、私の手の甲に口づけた。
「リリア・ヴェルメリオ。……私の妻になってくれないか。……公私共に、私のパートナーとして、隣にいてほしい」
プロポーズ。 氷の宰相補佐からの、一生分の熱量を込めた告白。
涙が溢れた。 今までのどんな涙よりも熱く、甘い涙。 私は何度も頷いた。
「……はい。……喜んで」
言葉にならない。 喉が詰まる。 でも、伝えたいことは一つだけだ。
「私も……貴方が大好きです。……ずっと、お傍にいさせてください」
レオンハルト様が立ち上がり、私を強く抱きしめた。 会場から、王妃陛下とカミュ団長、そして居合わせた騎士たちからの温かい拍手が湧き起こる。 それは、かつて姉に向けられていた虚構の拍手とは違う。 私たちの未来を祝福する、本物の音色だった。
◇
数日後。 私は新しい執務室の窓辺に立っていた。 『主席監査官室』のプレートが輝く扉。 机の上には、山積みの書類と、レオンハルト様から贈られた青いインク壺が置かれている。
窓の外には、美しい王都の街並みが広がっていた。 市場を行き交う人々の声。 広場で遊ぶ子供たちの笑い声。 そこには、姉が作ろうとした「傷のない楽園」はない。 誰かが誰かと喧嘩し、泣き、そして仲直りして笑う。 不完全で、騒々しくて、でも体温のある世界。
「……リリア、行くぞ」
扉が開き、レオンハルト様が入ってきた。 今日は二人で、地方の視察に向かう予定だ。 新しい不正の芽がないか、そして、復興が正しく行われているかを確認するために。
「はい、今行きます」
私は手帳を閉じ、鞄を手に取った。 手帳の最後のページには、私が自分で書き加えた言葉がある。
『今日剥がれた嘘:ゼロ。……だって、ここは私が選んだ、嘘のない場所だから』
私はレオンハルト様の元へと駆け寄った。 彼が自然に手を差し出し、私がその手を握る。 二人の薬指には、お揃いの銀の指輪が光っていた。
「準備はいいか?」 「はい、完璧です」
私たちは顔を見合わせて微笑み、扉を開けて廊下へと踏み出した。
かつて、私は全てを奪われた。 家も、名誉も、家族も。 でも、今は違う。 私は取り戻し、そして手に入れた。 自分の名前を。自分の仕事を。そして、心から愛せる人を。
私はもう、奪われる人生を生きない。 これからは、自分で選び、自分で歩き、大切なものをこの手で守り抜く。
さあ、行こう。 嘘の皮が剥がれ落ちた、この眩しい世界へ。
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婚約破棄された令嬢は、もう誰の答えも借りません
鷹 綾
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