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第十一話:音を立てて崩れる日常
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王国の終わりの日は、皮肉なほど晴れ渡った青空だった。
王都の中央にそびえ立つ王城。 その最も奥にある玉座の間は、静まり返っていた。 いつものような、貴族たちのへつらい笑いや、グラスが触れ合う音はない。 あるのは、死刑判決を待つ囚人のような、重苦しい沈黙だけだ。
「……負けた、だと?」
玉座に力なく座り込んだ国王――レイモンドの父が、震える声で呟いた。
目の前には、泥だらけになって逃げ帰ってきた伝令兵が、床に額を擦り付けている。
「は、はい……。開戦から、わずか一時間足らずで……我が軍は壊滅いたしました。死者は確認されておりませんが、ほぼ全員が降伏し、捕虜となりました……」
「レイモンドは? 聖女ミナは?」
「両名とも……帝国軍に捕縛されました」
国王の手から、錫杖(しゃくじょう)がカランと音を立てて滑り落ちた。 その乾いた音が、王家という権威が砕け散る音のように響いた。
「馬鹿な……。聖女がいるのだぞ? 神の加護があるはずだろう? なぜ負ける? なぜ帝国如きに……!」
国王は現実を受け入れられず、虚空に向かって問いかけた。 だが、答える者はいない。 側近たちは皆、俯き、あるいは既に逃走ルートを計算し始めていた。
「へ、陛下! 大変です!」
別の兵士が飛び込んでくる。
「市民が! 市民たちが城門に押し寄せています! 『王太子を返せ』ではありません! 『我々も帝国に降伏するから、パンをよこせ』と叫んでいます!」
「な、なんだと……?」
「衛兵たちも、武器を捨てて市民に加勢し始めました! もう城門を維持できません!」
民衆の怒りは、ついに限界を超えたのだ。 敗戦の報は、瞬く間に王都中に広まった。 そして、人々は知ったのだ。 帝国軍に投降すれば、パンと温かいスープがもらえるということを。
もはや、王国への愛国心など、空腹の前には無意味だった。 彼らにとって、飢えさせた王家よりも、腹を満たしてくれた敵国の方が、よほど「正義」だったのだ。
「終わりだ……」
国王は玉座にしがみついた。 ガタガタと震えが止まらない。
「コーデリア……。あの娘を追い出した時から、全てが狂っていたのか……」
今更気づいても、遅すぎた。 窓の外から、怒号のような歓声が聞こえてくる。 城門が破られた音だ。
かつて栄華を誇った王国は、外敵によってではなく、自らの無能さと民の絶望によって、内側から音を立てて崩れ落ちたのである。
* * *
一方、その頃。 国境から帝都へと続く街道を、一台の馬車が進んでいた。
馬車といっても、貴族が乗るような優雅なものではない。 鉄格子が嵌められた、家畜運搬用の檻(おり)を乗せた荷車だ。
「……痛い。痛いよぉ」
檻の中で、ミナがシクシクと泣いていた。 自慢のピンク色の髪は泥と埃にまみれ、純白だったドレスは見る影もなく薄汚れている。 手首には粗末な縄が食い込み、赤く腫れ上がっていた。
「うるさい! 泣くな!」
その隣で、レイモンドが怒鳴った。 彼もまた、かつての輝きを完全に失っていた。 黄金の鎧は剥ぎ取られ、薄汚れたチュニック一枚。 頬には、ジークハルト陛下に蹴られた際の青あざが痛々しく残っている。
「お前のせいだぞ、ミナ! お前が『聖女の力で勝てる』などと言うから!」
「ひどいっ! レイモンド様だって、『帝国なんて怖くない』って言ったじゃないですかぁ!」
「黙れ! 俺は王太子だぞ! こんな扱い、許されるわけがない!」
レイモンドは鉄格子をガンガンと蹴りつけた。 しかし、檻はびくともしない。 頑丈な帝国製の鋼鉄だ。
「おい御者! 止まれ! 俺を誰だと思っている! 今すぐここから出せ!」
彼は御者台に向かって叫んだ。 だが、御者を務める帝国兵は、振り返りもせずに冷たく言い放った。
「静かにしろ、囚人番号1番。騒ぐなら猿ぐつわを噛ませるぞ」
「しゅ、囚人だと……!?」
「そうだ。お前たちはもう王族でも聖女でもない。我が国の法律を犯し、宣戦布告なき戦争を仕掛けた犯罪者だ。帝都に着くまで、家畜のように大人しくしていろ」
「ぐぬぬ……っ!」
レイモンドは屈辱に顔を歪め、檻の隅にうずくまった。 ガタゴトと車輪が回る音が、体に響く。
皮肉なことに、この揺れは少なかった。 道が良いからだ。
「……なんなんだ、この道は」
レイモンドは舌打ちをした。 王国側の道は穴だらけで、馬車に乗るたびに酔うほど揺れた。 だが、国境を越えて帝国領に入った途端、道は滑らかになり、馬車は滑るように進んでいる。
道路脇には、等間隔で街灯が設置され、整備された排水溝が雪解け水を流している。 すれ違う帝国の馬車は、どれも荷台に物資を満載しており、御者たちの顔色も良い。
「どうして……どうして帝国ばかりこんなに豊かなんだ」
レイモンドは呻いた。 彼は知らなかったのだ。 この道の整備計画を立案し、基礎設計を行ったのが、かつての婚約者コーデリアであったことを。 彼が「地味でつまらない」と切り捨てた書類の中に、この繁栄の設計図があったことを。
「お腹すいたぁ……」
ミナが力なく呟く。
「ねえ、レイモンド様ぁ。何か食べるもの持ってないのぉ?」
「あるわけないだろう! 俺だって昨日の朝から何も食っていないんだ!」
「使えない……」
「あ?」
「あ、ううん! なんでもないですぅ! ……あーあ、コーデリア様がいれば、お菓子くらい持ってたのかなぁ」
「……その名前を出すな」
レイモンドの目つきが鋭くなった。
コーデリア。 あの冷たい女。 可愛げがなく、いつも正論ばかり吐いて、俺を見下していた女。
今頃、どうしているだろうか。 帝国の皇后になったという噂は聞いていたが、信じていなかった。 あんな堅物が、男に愛されるわけがない。 きっと、名ばかりの飾り物として、城の奥で泣いているに違いない。
「そうだ、きっとそうだ」
レイモンドは自分に言い聞かせるようにブツブツと呟いた。
「あいつが俺たちを捕らえたのは、未練があるからだ。俺の気を引きたくて、強がっているだけだ。帝都に着いて会えば、きっと泣いて謝ってくるはずだ。『やっぱり殿下がいい』と」
あまりにも都合の良い妄想。 だが、今の彼にとって、それが唯一の精神安定剤だった。 プライドだけで生きてきた男が、完全な敗北を認めることは、死ぬことよりも恐ろしかったからだ。
「見てろよ、ミナ。帝都に着いたら、すぐに誤解は解ける。俺たちは国賓として迎えられるはずだ」
「ほんとぉ? 美味しいケーキ食べられる?」
「ああ。皇帝だって、一国の王太子を処刑なんて野蛮な真似はできない。外交問題になるからな。適当に謝って、賠償金を払えば済む話だ」
レイモンドはニヤリと笑った。 その顔は、泥にまみれて薄汚れているが、瞳の奥にはまだ「自分は特別だ」という傲慢な光が残っていた。
馬車は進む。 彼らの浅はかな希望を乗せて、処刑台への階段とも知らずに。
* * *
帝都、帝城のバルコニー。
私、コーデリアは、夕日に染まる街並みを見下ろしていた。 雪は止み、澄んだ空気が街を包んでいる。 家々の煙突からは夕食の準備をする煙が立ち上り、穏やかな日常の風景が広がっていた。
「何を考えている?」
後ろから、ジークハルト様が抱きしめてきた。 彼の体温と、微かな煙草の香りに包まれると、張り詰めていた心が解けていく。
「……王国のことです」
私は正直に答えた。
「今頃、彼らはこの街に向かっているはずです。かつて私が追放された道を、逆に辿って」
「同情するか?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「ただ、不思議なのです。同じ道、同じ空の下なのに、立場が変わればこうも景色が違うものかと」
あの日、私は全てを失い、絶望の中で馬車に揺られていた。 寒くて、孤独で、惨めだった。
でも今は、こうして愛する人の腕の中にいる。 暖かい部屋と、美味しい食事と、やりがいのある仕事がある。
「貴女が勝ち取った景色だ」
ジークハルト様は私の耳元で囁いた。
「貴女が諦めず、その知恵と勇気で運命を切り開いたから、今ここにいる。運や偶然ではない。貴女の実力だ」
「……ありがとうございます」
彼の言葉は、いつも私の心の深い部分を満たしてくれる。
「それに、彼らへの『おもてなし』の準備も万全だ」
彼は悪戯っぽく笑った。
「明後日、彼らが到着する。和平交渉……という名の、公開処刑の場を用意した」
「公開処刑、ですか?」
「ああ。各国の外交官も招待してある。全世界の前で、彼らの愚かさを露呈させ、貴女の正当性を証明する場だ」
陛下は私の手を握り、指先にキスを落とした。
「その日、貴女には最高に美しいドレスを着てもらう。彼らが二度と顔を上げられないほど、圧倒的に美しく、高貴な姿で、彼らを見下ろしてやってくれ」
「……悪趣味ですね、私の旦那様は」
私はクスクスと笑った。 でも、その提案は嫌いではなかった。
「わかりました。では、最高に『頭の高い』皇后を演じて差し上げましょう」
私は振り返り、彼の首に腕を回した。
「でもその前に、今夜は……私を甘やかしてくださいますか? 少し、昔の夢を見てしまって、心細いのです」
それは半分嘘で、半分本当だった。 レイモンドたちのことを考えると、どうしても過去の傷が痛む。 それを塗り替えるほどの、熱い愛が欲しかった。
「望むところだ」
ジークハルト様は私を軽々と抱き上げ、寝室へと歩き出した。
「朝まで離さない。貴女の記憶から、あの愚か者の痕跡が消え去るまで、私の愛で上書きしてやろう」
「ふふっ、期待していますわ」
閉ざされた扉の向こうで、私たちは愛を囁き合った。 来るべき決着の日に向けて、心と体を満たし合うために。
* * *
二日後。 帝都のメインストリートは、異様な熱気に包まれていた。
「来るぞ! 敗戦国の王子だ!」 「俺たちの皇后様を侮辱した馬鹿者だ!」
沿道を埋め尽くす市民たちが、石や腐った野菜を握りしめて待ち構えている。 彼らは知っているのだ。 自分たちの生活が豊かになったのはコーデリアのおかげであり、その彼女を捨て、さらに戦争を仕掛けてきたのが、これから通る男だということを。
ゴトゴトと、鉄格子の馬車が現れた。
「来たぞー!!」 「帰れ! 恥知らず!」 「殺せー!」
罵声の嵐。 投げつけられる石礫(つぶて)。
「ひいっ! やめて! 痛いっ!」
ミナが悲鳴を上げ、檻の中で逃げ惑う。 腐ったトマトが彼女の顔に命中し、ピンクの髪が赤く汚れる。
「き、貴様ら! 無礼だぞ! 俺は王太子だ!」
レイモンドが檻にしがみつき、叫び返そうとした瞬間、生卵が彼の口の中に飛び込んだ。
「ぐぼっ……!?」
「ざまあみろ!」 「いい気味だ!」
市民たちの嘲笑が、彼らに降り注ぐ。 かつて王都でパレードをした時には、黄色い歓声を浴びていた二人。 今は、憎悪と軽蔑の視線を一身に浴びている。
「どうして……どうしてこんなことに……」
レイモンドは呆然と呟いた。 泥と卵液にまみれたその姿は、もはや王族の威厳など欠片もない。
馬車は、石造りの立派な城門をくぐる。 そこは、かつてコーデリアが連れてこられた場所。 しかし、彼女が通ったときは「希望」への入り口だったが、彼らにとっては「審判」への入り口だった。
謁見の間への長い階段を、鎖に繋がれて歩かされる。 重い足取り。 すれ違う帝国兵たちの冷ややかな視線。
そして、巨大な扉の前に立つ。
「入れ」
衛兵が扉を開け放つ。
まばゆい光が溢れ出した。 シャンデリアの輝き。 居並ぶ各国の要人たち。 その視線の集中砲火。
そして、最奥の玉座に座る、二人の人物。
一人は、漆黒の玉座に座る、魔王のごとき威圧感を放つ銀髪の皇帝。 もう一人は、その隣に寄り添う、この世のものとは思えないほど美しい深紅のドレスを纏った女性。
レイモンドは息を呑んだ。
「……コ、コーデリア……?」
そこにいたのは、彼が知る「地味で可愛げのない女」ではなかった。 圧倒的な気品と、冷ややかな美貌。 そして、彼を虫けらのように見下ろす、絶対的な強者の瞳。
彼女は扇で口元を隠し、優雅に、しかし氷のような声で告げた。
「ようこそ、帝国の法廷へ。……随分とみすぼらしいお姿ですね、元・殿下」
その一言が、レイモンドの、そして王国の完全な終わりの始まりを告げた。
王都の中央にそびえ立つ王城。 その最も奥にある玉座の間は、静まり返っていた。 いつものような、貴族たちのへつらい笑いや、グラスが触れ合う音はない。 あるのは、死刑判決を待つ囚人のような、重苦しい沈黙だけだ。
「……負けた、だと?」
玉座に力なく座り込んだ国王――レイモンドの父が、震える声で呟いた。
目の前には、泥だらけになって逃げ帰ってきた伝令兵が、床に額を擦り付けている。
「は、はい……。開戦から、わずか一時間足らずで……我が軍は壊滅いたしました。死者は確認されておりませんが、ほぼ全員が降伏し、捕虜となりました……」
「レイモンドは? 聖女ミナは?」
「両名とも……帝国軍に捕縛されました」
国王の手から、錫杖(しゃくじょう)がカランと音を立てて滑り落ちた。 その乾いた音が、王家という権威が砕け散る音のように響いた。
「馬鹿な……。聖女がいるのだぞ? 神の加護があるはずだろう? なぜ負ける? なぜ帝国如きに……!」
国王は現実を受け入れられず、虚空に向かって問いかけた。 だが、答える者はいない。 側近たちは皆、俯き、あるいは既に逃走ルートを計算し始めていた。
「へ、陛下! 大変です!」
別の兵士が飛び込んでくる。
「市民が! 市民たちが城門に押し寄せています! 『王太子を返せ』ではありません! 『我々も帝国に降伏するから、パンをよこせ』と叫んでいます!」
「な、なんだと……?」
「衛兵たちも、武器を捨てて市民に加勢し始めました! もう城門を維持できません!」
民衆の怒りは、ついに限界を超えたのだ。 敗戦の報は、瞬く間に王都中に広まった。 そして、人々は知ったのだ。 帝国軍に投降すれば、パンと温かいスープがもらえるということを。
もはや、王国への愛国心など、空腹の前には無意味だった。 彼らにとって、飢えさせた王家よりも、腹を満たしてくれた敵国の方が、よほど「正義」だったのだ。
「終わりだ……」
国王は玉座にしがみついた。 ガタガタと震えが止まらない。
「コーデリア……。あの娘を追い出した時から、全てが狂っていたのか……」
今更気づいても、遅すぎた。 窓の外から、怒号のような歓声が聞こえてくる。 城門が破られた音だ。
かつて栄華を誇った王国は、外敵によってではなく、自らの無能さと民の絶望によって、内側から音を立てて崩れ落ちたのである。
* * *
一方、その頃。 国境から帝都へと続く街道を、一台の馬車が進んでいた。
馬車といっても、貴族が乗るような優雅なものではない。 鉄格子が嵌められた、家畜運搬用の檻(おり)を乗せた荷車だ。
「……痛い。痛いよぉ」
檻の中で、ミナがシクシクと泣いていた。 自慢のピンク色の髪は泥と埃にまみれ、純白だったドレスは見る影もなく薄汚れている。 手首には粗末な縄が食い込み、赤く腫れ上がっていた。
「うるさい! 泣くな!」
その隣で、レイモンドが怒鳴った。 彼もまた、かつての輝きを完全に失っていた。 黄金の鎧は剥ぎ取られ、薄汚れたチュニック一枚。 頬には、ジークハルト陛下に蹴られた際の青あざが痛々しく残っている。
「お前のせいだぞ、ミナ! お前が『聖女の力で勝てる』などと言うから!」
「ひどいっ! レイモンド様だって、『帝国なんて怖くない』って言ったじゃないですかぁ!」
「黙れ! 俺は王太子だぞ! こんな扱い、許されるわけがない!」
レイモンドは鉄格子をガンガンと蹴りつけた。 しかし、檻はびくともしない。 頑丈な帝国製の鋼鉄だ。
「おい御者! 止まれ! 俺を誰だと思っている! 今すぐここから出せ!」
彼は御者台に向かって叫んだ。 だが、御者を務める帝国兵は、振り返りもせずに冷たく言い放った。
「静かにしろ、囚人番号1番。騒ぐなら猿ぐつわを噛ませるぞ」
「しゅ、囚人だと……!?」
「そうだ。お前たちはもう王族でも聖女でもない。我が国の法律を犯し、宣戦布告なき戦争を仕掛けた犯罪者だ。帝都に着くまで、家畜のように大人しくしていろ」
「ぐぬぬ……っ!」
レイモンドは屈辱に顔を歪め、檻の隅にうずくまった。 ガタゴトと車輪が回る音が、体に響く。
皮肉なことに、この揺れは少なかった。 道が良いからだ。
「……なんなんだ、この道は」
レイモンドは舌打ちをした。 王国側の道は穴だらけで、馬車に乗るたびに酔うほど揺れた。 だが、国境を越えて帝国領に入った途端、道は滑らかになり、馬車は滑るように進んでいる。
道路脇には、等間隔で街灯が設置され、整備された排水溝が雪解け水を流している。 すれ違う帝国の馬車は、どれも荷台に物資を満載しており、御者たちの顔色も良い。
「どうして……どうして帝国ばかりこんなに豊かなんだ」
レイモンドは呻いた。 彼は知らなかったのだ。 この道の整備計画を立案し、基礎設計を行ったのが、かつての婚約者コーデリアであったことを。 彼が「地味でつまらない」と切り捨てた書類の中に、この繁栄の設計図があったことを。
「お腹すいたぁ……」
ミナが力なく呟く。
「ねえ、レイモンド様ぁ。何か食べるもの持ってないのぉ?」
「あるわけないだろう! 俺だって昨日の朝から何も食っていないんだ!」
「使えない……」
「あ?」
「あ、ううん! なんでもないですぅ! ……あーあ、コーデリア様がいれば、お菓子くらい持ってたのかなぁ」
「……その名前を出すな」
レイモンドの目つきが鋭くなった。
コーデリア。 あの冷たい女。 可愛げがなく、いつも正論ばかり吐いて、俺を見下していた女。
今頃、どうしているだろうか。 帝国の皇后になったという噂は聞いていたが、信じていなかった。 あんな堅物が、男に愛されるわけがない。 きっと、名ばかりの飾り物として、城の奥で泣いているに違いない。
「そうだ、きっとそうだ」
レイモンドは自分に言い聞かせるようにブツブツと呟いた。
「あいつが俺たちを捕らえたのは、未練があるからだ。俺の気を引きたくて、強がっているだけだ。帝都に着いて会えば、きっと泣いて謝ってくるはずだ。『やっぱり殿下がいい』と」
あまりにも都合の良い妄想。 だが、今の彼にとって、それが唯一の精神安定剤だった。 プライドだけで生きてきた男が、完全な敗北を認めることは、死ぬことよりも恐ろしかったからだ。
「見てろよ、ミナ。帝都に着いたら、すぐに誤解は解ける。俺たちは国賓として迎えられるはずだ」
「ほんとぉ? 美味しいケーキ食べられる?」
「ああ。皇帝だって、一国の王太子を処刑なんて野蛮な真似はできない。外交問題になるからな。適当に謝って、賠償金を払えば済む話だ」
レイモンドはニヤリと笑った。 その顔は、泥にまみれて薄汚れているが、瞳の奥にはまだ「自分は特別だ」という傲慢な光が残っていた。
馬車は進む。 彼らの浅はかな希望を乗せて、処刑台への階段とも知らずに。
* * *
帝都、帝城のバルコニー。
私、コーデリアは、夕日に染まる街並みを見下ろしていた。 雪は止み、澄んだ空気が街を包んでいる。 家々の煙突からは夕食の準備をする煙が立ち上り、穏やかな日常の風景が広がっていた。
「何を考えている?」
後ろから、ジークハルト様が抱きしめてきた。 彼の体温と、微かな煙草の香りに包まれると、張り詰めていた心が解けていく。
「……王国のことです」
私は正直に答えた。
「今頃、彼らはこの街に向かっているはずです。かつて私が追放された道を、逆に辿って」
「同情するか?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「ただ、不思議なのです。同じ道、同じ空の下なのに、立場が変わればこうも景色が違うものかと」
あの日、私は全てを失い、絶望の中で馬車に揺られていた。 寒くて、孤独で、惨めだった。
でも今は、こうして愛する人の腕の中にいる。 暖かい部屋と、美味しい食事と、やりがいのある仕事がある。
「貴女が勝ち取った景色だ」
ジークハルト様は私の耳元で囁いた。
「貴女が諦めず、その知恵と勇気で運命を切り開いたから、今ここにいる。運や偶然ではない。貴女の実力だ」
「……ありがとうございます」
彼の言葉は、いつも私の心の深い部分を満たしてくれる。
「それに、彼らへの『おもてなし』の準備も万全だ」
彼は悪戯っぽく笑った。
「明後日、彼らが到着する。和平交渉……という名の、公開処刑の場を用意した」
「公開処刑、ですか?」
「ああ。各国の外交官も招待してある。全世界の前で、彼らの愚かさを露呈させ、貴女の正当性を証明する場だ」
陛下は私の手を握り、指先にキスを落とした。
「その日、貴女には最高に美しいドレスを着てもらう。彼らが二度と顔を上げられないほど、圧倒的に美しく、高貴な姿で、彼らを見下ろしてやってくれ」
「……悪趣味ですね、私の旦那様は」
私はクスクスと笑った。 でも、その提案は嫌いではなかった。
「わかりました。では、最高に『頭の高い』皇后を演じて差し上げましょう」
私は振り返り、彼の首に腕を回した。
「でもその前に、今夜は……私を甘やかしてくださいますか? 少し、昔の夢を見てしまって、心細いのです」
それは半分嘘で、半分本当だった。 レイモンドたちのことを考えると、どうしても過去の傷が痛む。 それを塗り替えるほどの、熱い愛が欲しかった。
「望むところだ」
ジークハルト様は私を軽々と抱き上げ、寝室へと歩き出した。
「朝まで離さない。貴女の記憶から、あの愚か者の痕跡が消え去るまで、私の愛で上書きしてやろう」
「ふふっ、期待していますわ」
閉ざされた扉の向こうで、私たちは愛を囁き合った。 来るべき決着の日に向けて、心と体を満たし合うために。
* * *
二日後。 帝都のメインストリートは、異様な熱気に包まれていた。
「来るぞ! 敗戦国の王子だ!」 「俺たちの皇后様を侮辱した馬鹿者だ!」
沿道を埋め尽くす市民たちが、石や腐った野菜を握りしめて待ち構えている。 彼らは知っているのだ。 自分たちの生活が豊かになったのはコーデリアのおかげであり、その彼女を捨て、さらに戦争を仕掛けてきたのが、これから通る男だということを。
ゴトゴトと、鉄格子の馬車が現れた。
「来たぞー!!」 「帰れ! 恥知らず!」 「殺せー!」
罵声の嵐。 投げつけられる石礫(つぶて)。
「ひいっ! やめて! 痛いっ!」
ミナが悲鳴を上げ、檻の中で逃げ惑う。 腐ったトマトが彼女の顔に命中し、ピンクの髪が赤く汚れる。
「き、貴様ら! 無礼だぞ! 俺は王太子だ!」
レイモンドが檻にしがみつき、叫び返そうとした瞬間、生卵が彼の口の中に飛び込んだ。
「ぐぼっ……!?」
「ざまあみろ!」 「いい気味だ!」
市民たちの嘲笑が、彼らに降り注ぐ。 かつて王都でパレードをした時には、黄色い歓声を浴びていた二人。 今は、憎悪と軽蔑の視線を一身に浴びている。
「どうして……どうしてこんなことに……」
レイモンドは呆然と呟いた。 泥と卵液にまみれたその姿は、もはや王族の威厳など欠片もない。
馬車は、石造りの立派な城門をくぐる。 そこは、かつてコーデリアが連れてこられた場所。 しかし、彼女が通ったときは「希望」への入り口だったが、彼らにとっては「審判」への入り口だった。
謁見の間への長い階段を、鎖に繋がれて歩かされる。 重い足取り。 すれ違う帝国兵たちの冷ややかな視線。
そして、巨大な扉の前に立つ。
「入れ」
衛兵が扉を開け放つ。
まばゆい光が溢れ出した。 シャンデリアの輝き。 居並ぶ各国の要人たち。 その視線の集中砲火。
そして、最奥の玉座に座る、二人の人物。
一人は、漆黒の玉座に座る、魔王のごとき威圧感を放つ銀髪の皇帝。 もう一人は、その隣に寄り添う、この世のものとは思えないほど美しい深紅のドレスを纏った女性。
レイモンドは息を呑んだ。
「……コ、コーデリア……?」
そこにいたのは、彼が知る「地味で可愛げのない女」ではなかった。 圧倒的な気品と、冷ややかな美貌。 そして、彼を虫けらのように見下ろす、絶対的な強者の瞳。
彼女は扇で口元を隠し、優雅に、しかし氷のような声で告げた。
「ようこそ、帝国の法廷へ。……随分とみすぼらしいお姿ですね、元・殿下」
その一言が、レイモンドの、そして王国の完全な終わりの始まりを告げた。
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