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第二十話:氷解の春
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帝国の冬は長い。 けれど、その厳しい寒さがあるからこそ、訪れる春の陽光は、涙が出るほどに眩しく、温かい。
あれから、30回の冬が過ぎた。
帝城の最も高い場所にある「星見のテラス」。 私は、ここから広がる景色を眺めるのが好きだった。
眼下には、黄金色に輝く帝都が広がっている。 かつては寒々とした石造りの街並みだった場所は、今は緑溢れる公園と、活気に満ちた市場、そして大陸中から人々が集まる学術都市へと変貌を遂げている。 遠くには、蒸気機関車が白い煙を上げて走る姿も見える。 私が夢見て、彼と共に設計し、息子たちが実現させた「未来の帝国」の姿だ。
「……また、ここに来ていたのか」
背後から、懐かしく、愛おしい声が聞こえた。 振り返ると、そこには一人の老紳士が立っていた。
ジークハルト・フォン・エーデルシュタイン。 かつて「氷の皇帝」と恐れられた彼も、還暦をとうに過ぎ、その銀髪は正真正銘の純白になった。 目尻には深い皺が刻まれ、歩く速度も少し遅くなった。
けれど、私を見つめるその赤い瞳の輝きだけは、あの日雪山で出会った時のまま。 いいえ、あの時よりもずっと深く、温かい光を宿している。
「ええ、ジークハルト様。今日は風が気持ちよくて」
「風邪を引くぞ。お婆ちゃん」
「あら、失礼な。貴方こそ、還暦のお祝いに贈った杖はどうなさいました? お爺ちゃん」
私たちは顔を見合わせて、クスクスと笑い合った。 歳を重ねるごとに、私たちの会話は夫婦漫才のようになってきた。 昔は「契約」だの「効率」だのと堅苦しい言葉ばかり交わしていたのが嘘のようだ。
ジークハルト様は私の隣に並び、手すりに寄りかかった。
「……レオンの奴、また新しい運河計画を持ってきたぞ」
「あら。あの子も働き者ですね」
「誰に似たのやら。……『父上の時代はアナログすぎます。これからは魔導通信の時代ですよ』だとさ。生意気な」
彼は口では文句を言いながらも、その表情は誇らしげだ。 息子のレオンハルトは、すでに皇帝としての実務の大半を引き継いでいる。 私たちの孫であるリリアナも、聡明な皇女として国民に愛されている。
私たちは、役目を終えつつあった。 激動の時代を駆け抜け、土台を作り、次世代へとバトンを渡す。 その過程は決して平坦ではなかったけれど、振り返ってみれば、すべてが愛おしい思い出だ。
「コーデリア」
ジークハルト様が、皺の刻まれた私の手を、そっと握った。 その手は昔と変わらず、大きくて、安心感に満ちていた。
「幸せか?」
唐突な問いかけ。 彼は時々、確認するようにこう聞くのだ。 まるで、私があの日の傷をまだ抱えているのではないかと心配するように。
私は、彼の手を両手で包み込んだ。
「ええ。……幸せすぎて、時々怖くなるくらいです」
私は空を見上げた。
「私の人生は、あの日、貴方に拾われた瞬間に始まりました。それまでの18年間は、長い長い準備期間だったのだと思えるほどに」
ふと、昔のことを思い出した。 本当に、久しぶりに。
敗戦国の、元王子。 レイモンド・バークレー。
彼が今どうしているのか、私は知らない。 風の噂では、北の開拓地でそれなりに真面目に働き、現地の女性と結婚して、静かにその生涯を終えたとも、まだ生きているとも聞く。 ミナについても同様だ。
かつては、彼らを憎んだ。 見返してやりたいと、復讐の炎を燃やした。 毎晩のように、彼らが後悔する様を想像しては、溜飲を下げていた時期もあった。
でも。
今の私の中に、彼らへの感情は一欠片も残っていなかった。 憎しみも、怒りも、憐れみさえも。 あるのは、ただの「無関心」と、不思議なほどの「感謝」だけ。
「……ジークハルト様」
「ん?」
「私、今になって思うのです。あの時、追放されて本当によかったと」
もし、レイモンドが私を捨てなければ。 もし、彼が私を愛してしまっていたら。
私はあの狭い王国で、彼の顔色を窺い、「可愛げのない女」として一生を終えていただろう。 私の才能は枯れ果て、心は死に、この広い世界を知ることもなく、貴方に出会うこともなかった。
「彼が私を捨ててくれたおかげで、私は貴方という運命に出会えました。……だから、彼には感謝状を送りたいくらいです」
「それは困るな」
ジークハルト様が、子供のように口を尖らせた。
「礼状など送ったら、奴があの世で『やっぱりコーデリアは俺が好きだったんだ』と勘違いするかもしれん」
「ふふっ、ありえますわね。あの人は、そういう人でしたから」
笑い話にできる。 それが、私が完全に過去を克服した証拠だ。
レイモンド殿下。 聞こえますか?
貴方は私を「可愛げがない」と言いました。 「お前といると息が詰まる」と言いました。 「氷のような女だ」と嘲笑いました。
でも見てください。 私の隣には、私の「可愛げのなさ(合理性)」を「最高の美徳」だと愛してくれる人がいます。 私の書く難しい書類を見て、「美しい」と涙してくれる人がいます。 私という人間を、心臓ごと愛してくれる人がいます。
貴方が捨てた石ころは、ここではダイヤモンドとして輝くことができました。 だから、もう貴方のことは思い出しません。 貴方への復讐は、「私が世界一幸せになること」で、完全に完遂されたのですから。
「……何をニヤニヤしている?」
ジークハルト様が私の顔を覗き込む。
「いいえ。ただ、私の旦那様は、おじいちゃんになっても素敵だなぁと思っていただけです」
「口が上手くなったな。……だが、私も同感だ」
彼は私の肩を抱き寄せた。
「コーデリア。貴女は年々美しくなる。私の目は節穴ではないからな、貴女の白髪一本、皺の一つまでが、私たちが共に生きた証として愛おしい」
彼は私の額に、優しくキスをした。 若い頃のような情熱的なものではないけれど、干し草のような、日向のような、穏やかで深い口づけ。
「愛している、コーデリア。……死が二人を分かつまで。いや、分かたれた後も、魂が消滅するまで」
「はい、あなた。私も愛しています。……来世でも、また私を見つけてくださいますか?」
「愚問だな。私が貴女を見逃すはずがない。たとえ貴女が地球の裏側にいても、地獄の底にいても、必ず迎えに行く」
「ふふ、頼もしいストーカーですね」
「皇帝権限だ」
私たちは笑い合い、そして静かに寄り添った。
春の風が吹く。 桜に似た、帝国の国花の花びらが舞い散る。 それは、私たちの長い物語のエンドロールのように、美しく降り注いだ。
これで、おしまい。 敗戦国の元王子へ宛てた、私の長い手紙は、これで終わりです。
私は今、帝国の皇后として。 母として、祖母として。 そして何より、ジークハルトの妻として。 これ以上ないほど満たされています。
さようなら、私の過去。 ありがとう、私の人生。
私は目を閉じ、愛する人の体温を感じながら、満開の春の香りの中に溶けていった。 その表情は、かつての「鉄の女」とは似ても似つかない、春の日差しのように柔らかな、至福の笑顔だった。
あれから、30回の冬が過ぎた。
帝城の最も高い場所にある「星見のテラス」。 私は、ここから広がる景色を眺めるのが好きだった。
眼下には、黄金色に輝く帝都が広がっている。 かつては寒々とした石造りの街並みだった場所は、今は緑溢れる公園と、活気に満ちた市場、そして大陸中から人々が集まる学術都市へと変貌を遂げている。 遠くには、蒸気機関車が白い煙を上げて走る姿も見える。 私が夢見て、彼と共に設計し、息子たちが実現させた「未来の帝国」の姿だ。
「……また、ここに来ていたのか」
背後から、懐かしく、愛おしい声が聞こえた。 振り返ると、そこには一人の老紳士が立っていた。
ジークハルト・フォン・エーデルシュタイン。 かつて「氷の皇帝」と恐れられた彼も、還暦をとうに過ぎ、その銀髪は正真正銘の純白になった。 目尻には深い皺が刻まれ、歩く速度も少し遅くなった。
けれど、私を見つめるその赤い瞳の輝きだけは、あの日雪山で出会った時のまま。 いいえ、あの時よりもずっと深く、温かい光を宿している。
「ええ、ジークハルト様。今日は風が気持ちよくて」
「風邪を引くぞ。お婆ちゃん」
「あら、失礼な。貴方こそ、還暦のお祝いに贈った杖はどうなさいました? お爺ちゃん」
私たちは顔を見合わせて、クスクスと笑い合った。 歳を重ねるごとに、私たちの会話は夫婦漫才のようになってきた。 昔は「契約」だの「効率」だのと堅苦しい言葉ばかり交わしていたのが嘘のようだ。
ジークハルト様は私の隣に並び、手すりに寄りかかった。
「……レオンの奴、また新しい運河計画を持ってきたぞ」
「あら。あの子も働き者ですね」
「誰に似たのやら。……『父上の時代はアナログすぎます。これからは魔導通信の時代ですよ』だとさ。生意気な」
彼は口では文句を言いながらも、その表情は誇らしげだ。 息子のレオンハルトは、すでに皇帝としての実務の大半を引き継いでいる。 私たちの孫であるリリアナも、聡明な皇女として国民に愛されている。
私たちは、役目を終えつつあった。 激動の時代を駆け抜け、土台を作り、次世代へとバトンを渡す。 その過程は決して平坦ではなかったけれど、振り返ってみれば、すべてが愛おしい思い出だ。
「コーデリア」
ジークハルト様が、皺の刻まれた私の手を、そっと握った。 その手は昔と変わらず、大きくて、安心感に満ちていた。
「幸せか?」
唐突な問いかけ。 彼は時々、確認するようにこう聞くのだ。 まるで、私があの日の傷をまだ抱えているのではないかと心配するように。
私は、彼の手を両手で包み込んだ。
「ええ。……幸せすぎて、時々怖くなるくらいです」
私は空を見上げた。
「私の人生は、あの日、貴方に拾われた瞬間に始まりました。それまでの18年間は、長い長い準備期間だったのだと思えるほどに」
ふと、昔のことを思い出した。 本当に、久しぶりに。
敗戦国の、元王子。 レイモンド・バークレー。
彼が今どうしているのか、私は知らない。 風の噂では、北の開拓地でそれなりに真面目に働き、現地の女性と結婚して、静かにその生涯を終えたとも、まだ生きているとも聞く。 ミナについても同様だ。
かつては、彼らを憎んだ。 見返してやりたいと、復讐の炎を燃やした。 毎晩のように、彼らが後悔する様を想像しては、溜飲を下げていた時期もあった。
でも。
今の私の中に、彼らへの感情は一欠片も残っていなかった。 憎しみも、怒りも、憐れみさえも。 あるのは、ただの「無関心」と、不思議なほどの「感謝」だけ。
「……ジークハルト様」
「ん?」
「私、今になって思うのです。あの時、追放されて本当によかったと」
もし、レイモンドが私を捨てなければ。 もし、彼が私を愛してしまっていたら。
私はあの狭い王国で、彼の顔色を窺い、「可愛げのない女」として一生を終えていただろう。 私の才能は枯れ果て、心は死に、この広い世界を知ることもなく、貴方に出会うこともなかった。
「彼が私を捨ててくれたおかげで、私は貴方という運命に出会えました。……だから、彼には感謝状を送りたいくらいです」
「それは困るな」
ジークハルト様が、子供のように口を尖らせた。
「礼状など送ったら、奴があの世で『やっぱりコーデリアは俺が好きだったんだ』と勘違いするかもしれん」
「ふふっ、ありえますわね。あの人は、そういう人でしたから」
笑い話にできる。 それが、私が完全に過去を克服した証拠だ。
レイモンド殿下。 聞こえますか?
貴方は私を「可愛げがない」と言いました。 「お前といると息が詰まる」と言いました。 「氷のような女だ」と嘲笑いました。
でも見てください。 私の隣には、私の「可愛げのなさ(合理性)」を「最高の美徳」だと愛してくれる人がいます。 私の書く難しい書類を見て、「美しい」と涙してくれる人がいます。 私という人間を、心臓ごと愛してくれる人がいます。
貴方が捨てた石ころは、ここではダイヤモンドとして輝くことができました。 だから、もう貴方のことは思い出しません。 貴方への復讐は、「私が世界一幸せになること」で、完全に完遂されたのですから。
「……何をニヤニヤしている?」
ジークハルト様が私の顔を覗き込む。
「いいえ。ただ、私の旦那様は、おじいちゃんになっても素敵だなぁと思っていただけです」
「口が上手くなったな。……だが、私も同感だ」
彼は私の肩を抱き寄せた。
「コーデリア。貴女は年々美しくなる。私の目は節穴ではないからな、貴女の白髪一本、皺の一つまでが、私たちが共に生きた証として愛おしい」
彼は私の額に、優しくキスをした。 若い頃のような情熱的なものではないけれど、干し草のような、日向のような、穏やかで深い口づけ。
「愛している、コーデリア。……死が二人を分かつまで。いや、分かたれた後も、魂が消滅するまで」
「はい、あなた。私も愛しています。……来世でも、また私を見つけてくださいますか?」
「愚問だな。私が貴女を見逃すはずがない。たとえ貴女が地球の裏側にいても、地獄の底にいても、必ず迎えに行く」
「ふふ、頼もしいストーカーですね」
「皇帝権限だ」
私たちは笑い合い、そして静かに寄り添った。
春の風が吹く。 桜に似た、帝国の国花の花びらが舞い散る。 それは、私たちの長い物語のエンドロールのように、美しく降り注いだ。
これで、おしまい。 敗戦国の元王子へ宛てた、私の長い手紙は、これで終わりです。
私は今、帝国の皇后として。 母として、祖母として。 そして何より、ジークハルトの妻として。 これ以上ないほど満たされています。
さようなら、私の過去。 ありがとう、私の人生。
私は目を閉じ、愛する人の体温を感じながら、満開の春の香りの中に溶けていった。 その表情は、かつての「鉄の女」とは似ても似つかない、春の日差しのように柔らかな、至福の笑顔だった。
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